昔の距離感
放課後、教室に残っていると、弥生が入り口から顔を出した。
「深水くん、まだいた? よかった」
「なんだ?」
「文化祭の予算のことで、確認したいことがあって」
弥生は教室に入ってきて、手にしていた書類を机に置いた。表紙には数字がびっしりと書き込まれている。
「買い出しの見積もり、大体出てるって聞いたけど」
「ああ、大体は」
「金額、見せてもらってもいい?」
俺はリストを差し出した。弥生はそれをざっと確認し、いくつかの項目に指を滑らせる。ペン先で数字を追う仕草は、以前から変わっていなかった。
「うん、これなら大丈夫そう。ありがとう」
「それだけか?」
「うん、それだけ」
弥生は書類を鞄にしまいながら、しかしその場を離れる様子はなかった。俺も特に次の作業に戻るでもなく、なんとなく手を止めたままでいた。窓の外では、他クラスの誰かが荷物を運ぶ足音が響いている。
「……最近、どう?」
弥生がそう切り出した。
「どうって」
「文化祭の準備とか」
「まあ、ぼちぼち進んでる」
「そっか」
会話がそこで一度途切れた。以前なら、ここから雑談が自然に続いていたはずだった。今は、次に何を言えばいいのか、お互いに探っているような間があった。弥生は机の端に軽く手を置いたまま、視線をリストの方に落としている。俺も特に何を言うでもなく、鞄の中身を意味もなく整え直していた。
「深水くん、最近教室にあんまりいないよね」
「班の作業とかで、色々動いてるから」
「そうなんだ」
また間が空く。弥生は鞄の持ち手を、意味もなく指で撫でていた。俺はその様子を横目に見ながら、何か言うべきかどうか迷って、結局何も言わなかった。廊下の方から、誰かの笑い声が遠く聞こえてくる。
「そういえば」
弥生が先に口を開いた。
「委員長の仕事、この時期は特に多くて」
「まあ、そうだろうな」
「深水くんは、実行委員の後処理、もう終わったんだっけ」
「大体は。今は買い出し班の方がメインだから」
「そっか。そういえば、実行委員の頃は、深水くんによく助けられてたな」
その言葉に、昔の癖のようなものが先に出た。
「あの時の弥生、いつも締切ぎりぎりだったよな」
言ってから、自分でも少し驚いた。以前なら何の気なしに言えていた軽口が、今は口にした瞬間、変に軽率だったかもしれないと思う自分がいた。弥生も一瞬、目を丸くしてこちらを見た。
一拍の間があった。
それでも、弥生は責めるでもなく、少し笑った。
「それ、今言う? 恥ずかしいんだけど」
「事実だろ」
「事実だけど」
「今更それ言うのか」
「今更でも思うものは思う」
「弥生、昔から抱え込みすぎなんだよ」
「深水くんに言われたくない」
「俺は抱え込んでるわけじゃない、頼まれたことをやってるだけだ」
「それも大概、抱え込みだと思う」
「そうか?」
「そうだよ。委員長も生徒会も美化委員も、深水くんが手伝ってくれてなかったら、多分もっと大変だった」
「別に、そんな大したことはしてない」
「してるよ。深水くんが気づいてないだけで」
弥生も、少し肩の力が抜けたような表情を見せて、小さく笑った。
「深水くんの、そういうところ変わらないよね」
「変わる理由もないし」
「うん、そうだよね」
「弥生こそ、相変わらず何でも自分で抱えようとするし」
「それは、まあ、性分だから」
「性分で片付けるのは違うだろ」
「じゃあ何なの」
「単純に、頼るのが下手なだけだと思う」
「それ、深水くんに言われると説得力ある」
「俺と一緒にするな」
「一緒じゃない?」
「……多少は、似てるかもしれないけど」
そう言った瞬間、弥生の表情が、ふっと止まった。彼女は視線を一度机の上のリストに落とし、それから小さく腕時計に目をやった。
「……もうこんな時間か」
弥生はそう呟いて、鞄の持ち手を握り直した。
「……あ、ごめん、引き止めて」
「別に、急いでない」
「ううん、もう大丈夫。予算の件、確認できたし」
弥生は鞄を持ち直し、視線を少しだけ逸らした。さっきまで机の上に置かれたままだったリストを、俺はもう一度手元に引き寄せた。
「あの、また何かあったら」
「ああ、聞けばいい」
「うん」
弥生はそれだけ言って、教室の入り口の方へ歩き出した。途中で一度、何か言いたげに振り返りかけたが、結局そのまま何も言わずに歩を進めた。
「じゃあ、また」
「ああ」
弥生は教室を出ていった。俺はしばらくその場に立ったまま、リストの束を見返す。予算の確認自体は、それだけのことだった。それなのに、さっきの会話だけが、なかなか頭から離れなかった。




