転校生
学級会が終わってから三日、俺は特に変わったことをしなかった。しおりの清書は普段通り進めたし、弥生から頼まれた資料にも普段通り目を通した。ただ、頼まれた分だけをこなして、それ以上の提案や気づいた点の指摘は、意識してしなくなっていた。誰かに気づかれるほどの変化ではない。自分でも、それがはっきりとした「距離を取る」という行動だとは思っていなかった。ただ、何かを差し出す前に、一瞬だけ手が止まるようになっていた。
「今日、実行委員の集まりある?」
弥生が声をかけてきたとき、俺は「今日はない」とだけ答えた。普段なら、次の集まりの予定や、進めておいた方がいい作業について、こちらから一言添えていたはずだった。今回は、それをしなかった。弥生は特に気にする様子もなく、「そっか」と言って自分の席に戻っていった。
その週の水曜、朝のホームルームで担任が珍しく改まった調子で切り出した。
「今日から、転校生が入ります」
教室がざわついた。二学期の途中での転入は珍しい。担任の後ろから、一人の女子生徒が入ってきた。長い髪を緩く一つに結び、教室を見渡す目には物怖じした様子がなかった。
「夏目結菜です。よろしくお願いします」
短い自己紹介と、いくつかの質問への受け答えを終えると、担任は教室の後ろの空いている席を指した。夏目結菜はそこに座り、隣の生徒と何か言葉を交わしている。それだけなら、俺には特に関係のない出来事のはずだった。
昼休み、担任が実行委員のメンバーを職員室に呼んだ。
「修学旅行の班のことなんだけど、夏目さんをどこかの班に入れないといけなくて」
柏木が資料を広げながら首をひねった。
「もうどの班も人数決まってますよね」
「一番人数の少ない班に入れるのが自然かなと思って。深水くんのところ、今何人だっけ」
「四人です。定員より一人少ないです」
「じゃあ、深水くんの班に夏目さんを入れる形でお願いできる?」
俺は特に反対する理由もなく、「わかりました」とだけ答えた。
弥生はすでに別の班になっていた。
班のメンバーが一人増えることは、しおりの人数表や部屋割りの資料にも影響する。頭の中で、修正すべき箇所がいくつか浮かんだ。
放課後、班替えの連絡のために、俺は夏目結菜の席まで行った。彼女は帰り支度をしながら、こちらに気づいて顔を上げた。
「あ、深水くん、だよね。班のこと?」
「うん。急で悪いけど、俺の班に入ることになった。しおり、後で渡すから確認しといて」
「ありがとう。てか、深水くんって実行委員なんだ」
「まあ、成り行きで」
結菜は俺が差し出したしおりの束を受け取り、その場でぱらぱらとめくり始めた。日程表、班別の行動予定、係分担の一覧。転校してきたばかりの人間が、その場で細部まで読み込むとは思っていなかった。
「これ、深水くんが作ったの?」
「直したのは俺。原案は委員長が作った」
「へえ。この、自由行動のコースのところ、二案用意してあるんだね。雨天用の代替ルートまで書いてある」
「去年、雨で予定が崩れて揉めたらしいから。今年はそうならないように」
結菜はしばらく黙って資料を眺めていた。それから、意外な角度から質問をしてきた。
「この部屋割りの表、なんでこの組み合わせにしたの? 人数、微妙にばらけてるけど」
「男女比とか、班のバランス見て調整した。あと、去年荷物の搬入で揉めた部屋があるらしくて、そこは広めの部屋に振ってる」
「そんな理由まで考えて作ってるの、普通に読んだだけじゃわからないね」
「別に、誰かに説明するために作ってるわけじゃないから」
結菜は少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「もったいなくない? こんなに考えて作ってるのに、誰も気づかないなら」
その一言に、俺は少し戸惑った。誰かにそう言われたのは、初めてだった。柏木や女子メンバーが「深水は段取りがうまい」と言うことはあっても、それは「便利だ」という評価であって、資料の中身そのものに目を通した上での言葉ではなかった。
「べつに、気づかれるためにやってるわけじゃないし」
「うん、それはわかる。でも、気づかれないのはちょっと違う気がする」
結菜はそう言うと、しおりを鞄にしまいながら続けた。
「私、明日からこの班なんだよね。よろしく」
「よろしく。何かわからないことあったら聞いて」
「うん。あ、それと」
結菜は帰り支度の手を止めて、こちらを見た。
「さっきの部屋割りの話、他の実行委員の人にも共有した方がいいと思う。深水くんの中だけで理由がわかってても、他の人が変更しようとしたときに、また揉めるかもしれないし」
その指摘は、的を射ていた。俺はこれまで、資料の裏側にある判断の理由を、誰かに説明しようとしたことがなかった。それが必要だと思ったこともなかった。
「……そうだな。今度、共有しとく」
「うん。じゃあ、また明日」
結菜はそう言って、教室を出ていった。俺はしばらく、彼女が読んでいたしおりの束があった場所を見つめていた。誰かに指摘されて初めて気づくことがある、という当たり前の事実に、少しだけ戸惑いを覚えながら。
家に帰ってから、俺は部屋割りの表に、簡単な注釈を書き足す作業を始めた。なぜこの組み合わせにしたのか。なぜこの部屋を広めに取ったのか。誰かに説明するための言葉を、初めてきちんと言語化してみた。
作業をしながら、頭の片隅で今日のやり取りを何度か思い返していた。「もったいなくない?」という一言が、思ったより長く残っていた。それが何に対する感情なのか、自分でもうまく説明がつかなかった。ただ、弥生に対して抱いていたものとは、明らかに違う種類の感覚だった。
窓の外はもう暗くなっていた。俺は注釈を書き足した資料を封筒にしまいながら、明日、これを誰に、どう共有すればいいかを考え始めていた。




