腐れ縁
教室のホワイトボードには、まだ誰の字とも知れない予定がびっしり書き込まれている。生徒会だよりの締め切り、体育館の使用予約。俺、深水蓮司はその隅に、消えかけた「実行委員会 放課後」の文字を見つけて、消しゴムで軽くなぞり直した。チョークの粉が指先に白く残る。
「深水くん、また書き直してくれたの?」
更科弥生が机の間を縫って近づいてくる。クラス委員長という肩書きがよく似合う、姿勢のいい歩き方だった。廊下側の窓から差し込む光を背に受けて、彼女はいつも少し眩しく見える。
「消えかけてたから。誰かが板書係の順番、忘れてるみたいだし」
「あー、それ多分私。ごめんね、昨日生徒会の会議が長引いて」
「別に謝ることじゃない」
「助かる。ほんと、深水くんがいてくれると楽なんだよね」
弥生はそう言って、当たり前のように俺の机に修学旅行のしおり原案を置いた。B5サイズの紙が、五、六枚。班決めの資料、行程表の叩き台、係分担の案。どれも「あとで確認しておいて」というメモが、彼女の丸っこい字で添えられている。
「これ、明日の朝までに直しとけばいい?」
「うん、お願い。私、今日は生徒会の集まりもあって忙しくて。あと美化委員の点検もあるし」
「委員長も生徒会も、掛け持ちで大変だな」
「でしょ? だから助かるって言ってるじゃない」
弥生は悪びれもせず、いつもの調子で言った。それが当然のことだと、疑ってすらいないのがわかる口ぶりだった。俺は特に何も言わず、しおり原案を鞄にしまった。
物心ついたころからの腐れ縁だ。弥生が委員長に立候補すれば、いつの間にか俺が実行委員になっている。誰かがそう決めたわけじゃない。ただ、そうなることが自然な流れのように、二人の間ではずっとそうだった。中学の文化祭のときも、こうやって直前に資料を渡されたことがあった。あのときは徹夜で衣装のリストを作り直した。今思えば、あれが最初だったのかもしれない――弥生が「任せる」と言い、俺が「わかった」としか返さなかったのは。
予鈴が鳴り、弥生は自分の席に戻っていく。俺はしおり原案の束をもう一度取り出して、行程表の誤字を赤ペンで直し始めた。日付の表記が一箇所ずれている。班別の自由行動コースにも、去年のものが一つ紛れ込んでいた。
放課後、実行委員のメンバーが集まる教室に、弥生の姿はなかった。生徒会の用事だと聞いていたから驚きはしない。集まったのは俺を含めて四人。副委員長の柏木が資料を配りながら言った。
「深水、行程表もう直してくれたんだって? 弥生から聞いたよ」
「まあ、大体は。工事中の施設が一個混ざってたから、そこだけ差し替えた」
「マジで? 誰も気づいてなかったわそれ」
女子メンバーが紙をめくりながら、「ほんとだ、去年のコースそのままだったんだ。よく見つけたね」と声を上げた。俺は「たまたま気づいただけ」とだけ返して、話を進めた。班分けの叩き台を配り、意見を聞き、修正案をその場でまとめていく。
「深水、ほんと段取りうまいよな。委員長より向いてんじゃね」
柏木が笑いながら言ったその一言に、女子メンバーも「わかる」と軽く頷いた。
「助かるわ、ほんと。弥生、こういう細かい作業苦手だもんな」
軽い調子で言われた一言が、思ったより長く胸の中に残った。苦手、ではなく、任せられる相手がいるから、やらなくていいだけなんじゃないか。そう思ったが、口には出さなかった。それを口にしたところで、何かが変わるとも思えなかったし、変える必要も感じていなかった――そのときはまだ。
そして迎えた学級会。議題は修学旅行の班決めだった。担任が黒板に「実行委員は今までの流れで組んでもらって構いません」と書きながら、教室を見渡した。あちこちで名前を呼び合う声が上がる。誰かが誰かの席に移動し、机の並びが少しずつ崩れていく。
俺は自分の席で、それを特に気にせず眺めていた。班決めなんて、去年もその前も、大体同じ結果に落ち着く。弥生と自分が同じ班になることに、疑問を挟む余地すらなかった。そういうものだと思っていたし、それでいいとも思っていた。隣の席が空いたままなのを見て、近くの生徒が軽く聞いてきた。
「更科さんと深水くん、また一緒?」
「たぶんな」
そう答えながら、俺は特に緊張もせずに、しおり原案の端を指で整えていた。いつも通りだ。ただそれだけのことだと思っていた。
弥生はそのとき、少し離れた席で友人たちと何か話していた。修学旅行のお土産の話か、放課後の予定の話か。楽しそうな笑い声が、こちらまで聞こえてくる。担任が出席簿を確認しながら、実行委員の組み合わせを一つずつ読み上げていく。
「更科、深水と同じ班でいい?」
担任がそう聞いた瞬間も、弥生はまだ友人との会話を続けていた。振り返りもせず、こちらを見もせず、当たり前のことのように答えた。
「いいですよー。深水くんとは腐れ縁ってだけなんで、誰と組んでも大丈夫です」
教室に小さな笑いが起きた。弥生自身は、それが特別な発言だとすら思っていない口調だった。ただの世間話の延長のように、あっさりと。友人の一人が「それはそれでひどくない?」と笑いながら茶々を入れ、弥生も「え、そう?」と屈託なく笑い返している。
担任は特に気にする様子もなく、次の名前を読み上げていく。班決めはそのまま進んでいった。
俺は手元の行程表に視線を落としたまま、しばらく顔を上げられなかった。周りの声は普段通り続いている。誰も、この一言を気にも留めていない。それがかえって、はっきりとわかった。特別なことは何も起きていない。ただ、いつも通りの弥生が、いつも通りの調子で、いつも通りのことを言っただけだ。
学級会が終わるチャイムが鳴る。弥生は友人たちと一緒に席を立ち、笑いながら教室を出ていった。俺は資料をまとめながら、その背中をしばらく見送っていた。何かを言うつもりもなかったし、言う理由も見つからなかった。ただ、行程表の誤字を直す赤ペンの先が、いつもより少しだけ重く感じられた。




