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第7話:初恋の生垣

 

時間はついに、なんの責任も、なんの覚悟も必要なかった、ただただ遊び呆けた「学生時代」へ――隣同士の家の庭で、愛子の部屋、俺の部屋で笑い合っていた、あの二人の原点へと、最期の巻き戻りを始める。


 ――ガチリ。

 世界が夕暮れ時の黄金色の光に包まれた。

 二人の実家の間に広がる、ちいさな空き地。生垣の隙間から、お互いの家の庭が地続きで行き来できた、あの十代の入り口の夏の日だ。


 下を見下ろすと、生垣の影で、中学生になったばかりの「俺」と「愛子」が、並んで花壇を眺める為に置いてあるベンチに腰掛けていた。


 当時の愛子は、ちょっとおませで、近所の男の子たちより少しだけ大人びていた。愛子はいたずらっぽく目を輝かせながら、急に俺の顔を覗き込んできたんだ。


「なぁ、武ちゃん。大人のキスって、どんなんか知ってる?」

「は、はあ!? 知るわけないやろ、アホ!」


 ウブだった俺は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。すると愛子は「ふふ、武ちゃんはほんまに子供やなぁ。見様見真似やけど……教えたろか?」

「いらんわ! 恥ずかし……」


 俺が言い終えるより、早かった。

 生垣の影、西日に照らされた愛子のちいさな唇が、不意に俺の唇に重なった。ほんの一瞬の、甘酸っぱい様に思えた、ただの真似事のキス。

 だけど、触れた唇からは愛子の温かい柔らかさがダイレクトに伝わってきて、若い俺の心臓は破裂しそうなほどに跳ね上がった。


「これ、うちの初めてやからね。武ちゃんに最初にあげる。うちはな、大人になっても、ずっと武ちゃんのお嫁さんになるって決めてんねん。武ちゃんが好きや。ずっと、うちの隣におってな?」


 それは、おませな少女の、だけど人生のすべてを賭けた、最初の「告白」だった。

 あぁ、そうやった……。


「 絶対やで!」


 俺たちのすべては、この生垣の影での愛子の告白から始まっていたんだ。そう思った瞬間、セーラー服の時代すらも通り越し、時間はさらにその奥の、もっともっと幼い泥だらけの記憶へと巻き戻っていく。


 ――シュルシュルシュルシュル……!

 ――ガチリ。

 そこにいたのは、保育園か、あるいは小学校に上がったばかりの頃の、ちいさな俺と愛子だった。


 二人の背中には、お揃いのリュックサックがある。探検と称して近くの草原に入り、小さな手を土まみれにして、頑張って採った山菜がパンパンに詰まっている。


「覚えのある可愛いリュック、あんなにも小さかったんだ!」


 夕暮れの帰り道、二人の前にはちいさな沼が行く手を阻むように広がっていた。


「なぁ武ちゃん、これ、向こう岸まで靴投げっこして、届いた方が勝ちなぁ!」

 おてんばだった愛子が、自分の靴を片方脱ぐなりブンと投げた。靴は見事に、向こう岸の直ぐ端へと着地する。愛子は「やったー!」と大はしゃぎで笑った。


「ふん、俺かて届くわ!」

 負けず嫌いだった俺も、靴を脱いで思い切り投げつけた。だけど、俺の投げた靴だけはなぜか角度が悪く、失速して、あろうことか沼の向う側にポチャンと落ちて、そのまま底へと沈んでしまった。


 泣きそうになっている俺を見て、愛子は「あはは! 武ちゃん何しとん! どんくさいなぁ!」と笑いながら、そこら辺にあった長い木の枝を取って器用に操って、沈んだ俺の靴をすぐにすくい上げてくれたんだ。


「ほら、びちょびちょやけど履き!」

 手渡された濡れた靴を俺が慌てて履いた、その時だった。

 ゴロゴロ、と雷が鳴り響き、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が二人を襲った。

 傘なんて持っているわけもない。二人は泥だらけ、ずぶ濡れになりながら、手を繋いで一生懸命、一緒に走った。


 そうして辿り着いた、ぴったりと隣り合って並ぶ、二人の家の前。


 雨の冷たさも忘れて、ずぶ濡れのままお互いの間抜けな姿を二人は顔を見合わせて「ワハハハハ!」と激しく高笑いを交わした。

 何も怖いものなんてなかった。


 ただ隣に愛子がいて、一緒に笑い合っていられるだけで、世界はそれだけで満たされていた。

 これこそが、俺の人生の、すべての始まりで、一番美しい原点――。


「愛子……お前と一緒で、俺の人生、ほんまに楽しかったわ……」


 宙の俺が満足したように微笑んだ瞬間、世界からついに、すべての光が消え去った。


 二人の無邪気な高笑い、その声が遠ざかり、世界のすべてが、光を失った深い、深い闇の底へと沈み込んでいった――。


( 続く )

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