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第8話:ただいまっ! 俺の天国

――シュルシュルシュルシュル……!

 学生時代の眩しい光が、俺の部屋と愛子の部屋の窓の向こうへと、急速に溶けて消えていく。


 二人の笑い声が遠ざかり、世界のすべてが、光を失った深い、深い闇の底へと沈み込んでいった。

 音が、消えた。


 人工心臓のインジケーターの赤も、もうなにもかもが…


 何も聞こえない、何も見えない、完全なる死の闇。


(あぁ、終わったんやなー)


 東京のボロアパートで、一人寂しく終わりを迎えた俺の人生。


 宙に漂っていた俺の意識すら、その底暗い虚無のなかへとゆっくりと溶け落ちていくのを感じていた。


 その、深い闇の向こうから。


 ぽつりと、信じられないくらい温かく小さな光が、こちらに向かって近づいてくるのが見えた。


「お父ちゃん!」


 ハッとして魂の目を凝らす。


 闇を裂いて走ってきたのは、あの泥だらけの青いスニーカーを履いた、愛しい、ケン 我が子・ケンだった。


 あっちの暗闇で、たったひとりぼっちで迷子になって泣いているんじゃないかと、俺がずっと胸を痛め続けていた息子が、満面の笑みを浮かべて、真っ直ぐに俺へと駆けてくる。


「ケン……! ケンなんやな!?」


 そのケンの後ろから、一歩一歩、確かな足取りで歩いてくる女性の姿があった。


 愛子だった。


 胸元に冷たい機械のコントローラーなんて、もうどこにも着いていない。病気の影も、悲しみの傷痕もすべて消え去った、あの優しくて、笑うと目が細くなる、世界で一番綺麗な俺の奥さんがそこにいた。


 愛子の胸の奥からは、トクトク、トクトクと、あの力強くて優しい、生身の心臓の鼓動が、闇の中に響き渡っていた。


「武ちゃん、遅かったやん。

待ちくたびれたわ」


 愛子はそう言って、優しい声で、あの懐かしい特等席の笑顔を咲かせた。


 ケンが俺の右手を、愛子が俺の左手を、それぞれ両手でぎゅっと包み込むようにして握りしめてくる。


 あぁ、温かい。冷たい機械なんかじゃない、泥だらけの冷たい雨の夜でもない。


俺がずっとずっと、もう一度触れたいと願い続けていた、ふたつの確かな命の温もりが、俺の手のひらに戻ってきた。


「ごめんな……二人とも、寂しい思いさせて、本当にごめん。俺、お前らを一人きりの地獄に置いて、ずっと……」


 溢れ出す謝罪を、愛子は首を振って優しく遮った。


「もうええよ、武ちゃん。全部終わったんや。これからはずーっと一緒や。な、ケン?」


「うん! お父ちゃん、ここでも漫才の続き見せてな!」


 二人が、俺の手を引いて歩き出す。


 真っ暗だった闇の先が、どんどん眩しい光に包まれていく。そこはもう、寒くも、寂しくもない、二人が待ってくれている本物の天国だ。


 俺たちの新しい旅立ちを祝福するように、俺の耳の奥で、カチリ、と最期の優しい音が鳴り響いた。


「おう。待たせてごめんな。……ただいま、愛子、ケン」


 もう何も恐れるものはない。


 俺は二人の手を強く、強く握り返し、溢れる光の向こうへと、一歩を踏み出した。


( 完 )

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