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第5話:四畳半、夢の跡

シュルシュルシュルシュル……!

 時間を巻き戻すフィルムの速度は、さらにギヤを上げていく。


 マンションの広いリビングの壁が、まるでおもちゃの箱を畳むように狭まっていく。


 息子のケンが走り回っていたフローリングが消え、古びてささくれた緑色の畳が、下からせり上がるようにして床を埋め尽くした。


 ――ガチリ。


 時計の逆回転が止まり、耳の奥をキィィィンと鋭い静寂が通り過ぎる。世界がみたび、ねっとりとしたスローモーションの底へと沈み込んだ。


 ここは、あの狭くて、寒くて、でも信じられないくらい眩しかった、東京の片隅の四畳半アパートだ。


 宙に浮かぶ俺の視界の下、二十代半ばの「俺」が、小さなちゃぶ台の前に座り込んで、ノートに必死にペンを走らせている。芸人の相方とやるための、漫才のネタ帳だ。


 そのすぐ後ろで、若い愛子が、小さなガスコンロで何かを炒めている。じゅうじゅうという油の弾ける音が、スローモーションの中で、一粒ずつ弾けるようにゆっくりと耳に届く。

 部屋の中に漂っているのは、甘辛い醤油と、少し安っぽい肉の匂い。

 まだ何者でもなかった、貧乏のどん底にいた頃の俺たちの匂いだ。


「なぁ、武ちゃん」

 愛子が振り返った。その顔には、後年のあの病気の影も、息子の死という絶望の傷跡も、何ひとつ刻まれていない。ただただ、俺の才能を信じ切っている、若くて、瑞々しい愛子の笑顔がそこにあった。


「今度のネタ、もうできたん? うち、早く武ちゃんの漫才見たいわぁ。今回のやつも、絶対にめちゃくちゃおもろいんやろ?」

 ちゃぶ台の前の若い俺が、少し照れくさそうに頭を掻きながら、100%の関西弁で言い返す。


「おう、当たり前やんけ。今回のネタはな、絶対に東京の奴らもひっくり返るで。客席、全員笑い死にさせたるから見とけ」

 大口を叩く俺の言葉を聴いて、愛子は「あはは!」と、あの鈴が転がるような、特有の大きな笑い声をあげた。

 

 特等席。

 俺のつまらないギャグも、まだ未完成の拙いネタも、愛子はいつも世界で一番最初に、一番大きな声で笑ってくれた。


 後に役所の飲み会でつまらん一発ギャグをやって場を凍りつかせ、布団の中で羞恥心にのたうち回るような不器用な男の言葉を、この世界でたった一人、愛子だけが「おもろい、おもろい」と抱腹絶倒して認めてくれたんだ。


 この笑顔を守るためなら、俺はなんだってできる。本気でそう思っていた。

 宙からその姿を見下ろしている老いた俺の胸に、かつてないほどの愛おしさが込み上げてくる。


 この後、俺たちの生活は一変する。愛子が倒れて、お腹のケンを命がけで産んで、俺は芸人の夢を捨てて、必死に公務員の試験勉強を始めることになるんだ。ノートの漫才のネタは消え、六法全書と参考書で部屋が埋め尽くされる。


 だけど、この瞬間の俺たちは、まだ何も諦めていない。夢だけで腹がいっぱいになれた、無敵の二人だった。

「やっぱり、お前の笑い声が一番やな、愛子」

 宙に漂う俺の魂が、下の愛子に向かってぽつりと呟いた。

 

 その時、またしても部屋の隅から、あのとっくに動いていないはずの補助人工心臓のインジケーターが、チカッ、チカッと赤く、強く明滅した。まるで「旅の終わりが近いぞ」と、俺の魂に警告するように。


 カチ、カチ、カチカチカチカチ――!

「あ……」

 世界が再び、猛烈な速度でブレ始める。

 ちゃぶ台の上のネタ帳がシュルシュルと白紙に戻り、ガスコンロの火が一瞬で消える。


楽しそうに笑っていた若い愛子の姿が、激しい砂嵐の向こうへとかすんでいく。嫌や、まだ行かんといてくれ、その笑顔を消さんといてくれ――。


 宙の俺の引き止めも虚しく、四畳半のアパートの壁がバラバラに崩れて取り払われ、東京の狭い夜空がシュルシュルと遠ざかっていく。

 時間はついに、東京という街そのものを飛び越えた。


 二人が全財産と大きな荷物を抱え、期待と不安で震えながら乗り込んだ、あの懐かしい上京の夜行バスの車内へと、時間はさらに激しく、深く、巻き戻っていく。


( 続く )

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