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第4話:嵐の向こうの、3人の声

シュルシュルシュルシュル……!

 宙に浮かぶ俺の視界の下で、時間は猛烈な勢いで逆回転を続けていた。


 どしゃ降りの夜が消え、眩しい朝の光が部屋に差し込んだかと思えば、また一瞬で夜が来る。明滅する光のカーテンの向こうで、部屋の家具が生き物のようにせわしなく動き回っていた。


 息子の遺品が詰まった段ボールがひとりでに開き、中からおもちゃや絵本が飛び出して、リビングの床に散らばっていく。


 お堅い公務員のスーツを着た俺の姿が下に見えた。それが次の瞬間には、クタクタのTシャツにジーパン姿に変わる。まだ若く、肩幅もがっしりとした、三十代の俺の身体だ。


 ――あ、くる。優しい時間が、戻ってくる。

 ガチリ、と脳の奥でギヤが噛み合う。


 暴走していた光の明滅がピタリと止まり、キィィィンと耳鳴りが響いた。世界がふたたび、ねっとりとしたスローモーションの沼へと沈み込んでいく。


 窓から差し込むのは、穏やかな日曜日の昼下がりの光だった。


 空気中をきらきらと漂う埃の粒が、宙に浮かぶ俺の目の前で静止する。


「お父ちゃん! 見てみ、これ!」


 下から、弾けたような高い声が響いた。


 まだ幼稚園に上がったばかりの、小さな、小さな俺の息子が、特撮ヒーローのお面を頭につけてリビングを走り回っている。


その手を引いて、台所からお玉を持った愛子が出てくる。


 二人の口から飛び出すのは、まだ東京の冷たさに一滴も染まっていない、濃い、温かい関西弁だった。


「こら、ケン。バタバタ走り回らんの! 下の階の人に怒られるやろ!」


「ええやんか愛子、元気な証拠や。ケン、こっちおいで。お父ちゃんが必殺技教えたるわ」


 コタツに入って寝転がっている若い俺が、息子を抱き上げてガラガラと笑っている。


 その3人の姿を、俺は宙からじっと見下ろしていた。


――トクトク、トクトク、トクトク……。


機械のローター音じゃない。かつて俺が毎晩祈るように聴いていた、あの冷たい駆動音じゃない。優しくて、力強い、生身の愛子の血の温もりそのものの鼓動。


 愛子の胸元を見る。まだあの補助人工心臓の機械はついていない。自分の生身の心臓で、元気にトクトクと鼓動を打っていた頃の、病気とは無縁の愛子だ。肌にツヤがあって、笑うと目が細くなって、本当に綺麗だった。


 涙が出そうだった。だけど、宙にある俺の魂には、もう流せる涙の一滴すら残っていなかった。ただ、胸の奥がじんわりと熱くなるのだけを感じていた。


幸せやな。俺の人生、こんなに幸せな時間があったんやな。


 世間の奴らが何と言おうと、俺は間違いなく、世界で一番幸せな男やった。


 下で笑い合う3人の声が、スローモーションの中で、ゆっくりと、優しく響き続ける。


「武ちゃん、晩酌のおつまみ、何がええ?」

「うーん、そうやなぁ……」

 

 笑い合う3人の声が、スローモーションの中で、ゆっくりと、優しく響き続ける。


 下では、愛子がコタツに近づいてきて、若い俺のゴツゴツした肩を、自分の両手でそっと包み込んで数回揉んだ。生身の、温かい手のひら。夕ご飯の肉じゃがの匂い。


 ヒーローのお面をかぶったケンが、俺の足元にトドみたいに飛び込んできて、ちいさな体温を預けてくる。


 あぁ、これや。この体温や。俺が、俺の命にかえても守りたかった、ただひとつの世界は、ここやったんや。


 その、一番愛おしい記憶の絶頂の途中で、またしても世界の輪郭がぐにゃりと歪み始めた。 

 カチ、カチ、カチカチカチカチ――!

 

 愛子の手の温もりが、ケンのちいさな手の感触が、引き剥がされるように俺の皮膚から遠ざかっていく。


「あ、待ってくれ。もうちょっとだけ、この声を聴かせてくれ……!」


 あぁ、愛子。お前の心臓は、こんなに元気に動いとったんやな。機械なんかじゃなく、ちゃんと自分の血で、俺のために脈打ってくれとったんやな。


 部屋の西日が、狂ったように明滅を始める。

「嫌や。待ってや。頼むから待ってくれ!」

 

 宙に浮かぶ俺は、下で消えゆく我が子の、妻の姿に向かって、もう出ないはずの声で必死に手を伸ばした。


「もうちょっとだけ、あと一秒でええから、その心臓の音を、その声を聴かせてぇな……! ケン! 愛子ーーっ!!」


 宙の俺の絶叫も虚しく、時間は無情にもふたたび加速する。


 息子の「お父ちゃん!」という笑い声が、早送りの「チチチチ……」という高いノイズに変わって遠ざかっていく。


3人で囲んでいたコタツがパッと消え、少し広かったマンションの壁がせり上がってきて、部屋がどんどん狭くなっていく。


( 続く )

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