第3話:これは、走馬灯か
床に両膝をつき、泥だらけの小さな青いスニーカーを見つめながら、俺は肺が破れるほどの悲鳴ともつかない嗚咽を上げていた。
「なんでや……! なんでケンなんや! たったひとりぼっちで、何処かあっちで迷ってるに違いない、俺も一緒に行ったる!」
狂ったように床を殴りつける俺の背中に、愛子が獣のような勢いでしがみついてきた。
骨が軋むほどの強さで俺のシャツを鷲掴みにし、狂ったように叫ぶ。涙すら枯れ果てた、血の滲むような関西弁だった。
「何言うてんのや! あんたまで死ぬってなんや! ケンがおらんようになって、あんたまで死んだら、うちはどうしたらええの! 一人で置いていかんといてや! 武ちゃん、お願いやから……うちを一人きりの地獄に捨てんといて……っ!」
その、心臓を素手で掴まれるような痛切な叫びを、たしかに背中で受け止めていた。
――いや、待てや。
あまりの痛みに意識が引き裂かれそうになったその時、脳裏の片隅に、冷や水のような違和感がぽつりと落ちた。
おかしい。俺の身体は、もうとっくにボロボロの老体のはずだ。東京のボロアパートの布団の上で、何日も水すら飲めずに横たわっていたはずじゃないか。
玄関の電気の消し忘れを気に病むほど、みすぼらしくて、ちっぽけな終わりを迎えていたはずだ。
そう思った瞬間、ふっと、身体の芯から重力が消えた。
気がつくと、俺の身体はゆっくりと「宙」へ浮かび上がっていた。
天井の近く、何もない空間に、俺の意識だけがぽつんと漂っている。
下を見下ろした。
そこには、どしゃ降りの雨が吹き付けるマンションのリビングで、床にへたり込んで大泣きしている四十代の「俺」の背中が見える。
その背中に必死にしがみつき、涙も流せずに狂気の一歩手前で震えている「愛子」の姿も見える。テーブルの上には、あの泥だらけの、小さな青いスニーカーが二つ。
窓の外を見ると、激しく叩きつけていたはずの雨粒が、空間に静止していた。ガラスにぶつかる瞬間の、王冠の形に変形した雨粒が、
まるでガラス細工のように空中でピタリと動きを止めている。下で泣いている自分たちも、まるで彫刻のように一ミリも動かない。
そうか。そうなんやな。
これは、あれや。人間が死ぬ間際に見るっていう、走馬灯や。
宙に漂う俺は、下で必死に俺にしがみつき、叫んでいる愛子を見下ろした。
その細い背中を見て、俺の魂がギュッと締め付けられる。
あぁ、愛子。ごめんな。
この夜や。この地獄のような夜、うちを一人にするなと叫んだこの時から、お前の本当の地獄が始まってしもたんやな。
息子の死という、人間の器には大きすぎる絶望。それを小さな身体で必死に耐えて、俺をこの世に繋ぎ止めようとしたせいで、お前の心臓は、この夜を境に少しずつ、少しずつ壊れていったんだ。
生身の温かい心臓が動かなくなって、やがて冷たい機械を胸に埋め込まんといけなくなったのは……全部、俺があの時、お前を一人きりにしようとした報いやったんやな。
「ごめんな、愛子。本当にごめん」
届かない謝罪を、宙から投げかける。
だけど、走馬灯なのだとしたら、これから時間はもっと前に巻き戻る。愛子の心臓に冷たい機械が入る前、息子を失う前、お前が自分の生身の心臓で、心の底からワハハハと笑っていた、あの幸せな時代へ。
「もうちょっとの辛抱や。今、お前のいちばん綺麗なところに、戻っていくからな」
そう心の中で語りかけた瞬間、また耳の奥で、あの乾いた音が鳴り響いた。
――シュルシュルシュルシュル……!
空間に漂う俺の視点を中心にして、世界がふたたび暴れ馬のように加速する。
静止していた雨粒が、もの凄い速さで空へと逆流していく。テーブルの上の泥だらけのスニーカーがパッと消え去り、部屋の明かりが目まぐるしく点滅を始めた。
息子のいない数年間から、息子のいた「最高の数年間」へ。
宙に浮かぶ俺の視線はそのままに、下の景色だけが、もの凄いスピードで、過去の幸福な光の中へと突き進んでいく。
( 続く )




