第2話:冷たい時計の巻き戻り
「……なぁ、愛子。今日な、役所でな……」
そこまで言って、言葉が喉の奥でつっかえた。関東の言葉で喋ろうとすると、どうにもヨソヨソしい、借り物の服を着ているような居心地の悪さがつきまとう。東京に出てきて、もう何十年も経つのに。
遺影の中の愛子は、出会った頃と同じ、少し悪戯っぽい笑顔でこちらを見つめている。生前、俺が仕事の愚痴をこぼすと、決まって「武ちゃん、そんなん笑い話にしてまえば勝ちやんか」と笑う奴だった。
だけど今の俺には、窓口でペコペコ頭を下げたことや、書類を間違えて部下に笑われた恥を、笑い話に変えるだけの元気が、ひとかけらも残っていなかった。
愛子が逝って、この部屋はすっかり静かになってしまった。
リビングの片隅に置かれたままの、主を失った介護用ベッド。その脇に佇む、補助人工心臓の古い管理装置。愛子が生きている間は、ずっと低く「ウー、ウー」と機械の駆動音を響かせていたその装置が、今はただの四角いプラスチックの塊として沈黙している。
あの音が、愛子の鼓動の代わりだった。
夜、隣で眠る愛子の胸に耳を当てると、トクトクという血の温もりではなく、かすかなローターの回転音が聞こえた。俺は毎晩、その無機質な音を聴きながら、「生きていてくれてありがとう」と心の中で祈っていたんだ。
それが、もう、何も聞こえない。
あまりに静かすぎて、自分の耳の奥で血が流れる音だけが不気味に大きく響いている。
――あ、また、くる。
スローモーションだった世界の輪郭が、再びぐにゃりと歪み始めた。
夕暮れの西日が、まるで部屋の照明を激しく明滅させるように、凄まじい速度で点滅を始める。カチ、カチ、カチと静止していた時計の針が、今度はさっきよりもさらに凶暴なギヤの音を立てて逆回転を始めた。
シュルシュルシュルシュル……!
記憶の早回しが、俺を容赦なく過去へと引っ張り戻していく。
愛子の遺影が仏壇から消え、仏壇そのものが消え、部屋の壁紙が少しずつ白さを取り戻していく。俺の髪から白いものが消え去り、すり減った身体に若い肉の張りが戻ってくる。
その濁流のような巻き戻しの中で、俺は幾度となく、愛子を看病した病院の白い廊下を、愛子の車椅子を押す自分の姿を、倍速のフラッシュの中に見た。
夜中に人工心臓のバッテリーを交換しながら、「武ちゃん、ごめんなぁ、毎晩こんなん付き合わせてもうて」と申し訳なさそうに言う愛子の声を、早送りのノイズ混じりに聴いた。
――違う。まだ、ここじゃない。もっと前や。
脳が拒絶する。心臓が、あの「一番痛かった夜」を察知して、激しく脈打ち始める。
ガチリ、と。
世界のギヤが、強烈な火花を散らすようにして固定された。
キィィィンという、鼓膜を突き刺すような長い耳鳴り。
猛スピードで流れていた世界が、壁に激突したかのように急ブレーキをかけられ、ふたたび、ねっとりとしたスローモーションへと沈み込んでいく。
ここは、どこだ。
暗い。外はどしゃ降りの雨のようだ。窓ガラスを叩く大粒の雨のしずくが、一粒ずつ、ゆっくりとガラスの表面を滑り落ちていくのが見える。
東京の、少し広めのマンションのリビング。
そこに、俺と愛子はいた。
まだ四十代に入ったばかりの俺は、床に両膝をつき、両手で顔を覆って慟哭していた。その背中に、愛子がしがみついている。愛子は泣いていなかった。
いや、涙すら枯れ果てたような、狂気に近い、真っ白な顔をしていた。
リビングのテーブルの上には、泥だらけの、小さな青いスニーカーが二つ、ぽつんと並べられている。
「……武ちゃん」
愛子の声が、スローモーションの空気の底から、震えながら響いてきた。その言葉には、まだ半分も東京の言葉に染まりきっていない、剥き出しの、泥臭い関西のイントネーションが混じっていた。
「……武ちゃん、嘘やろ。なぁ、嘘って言ってや。あの子、さっきまで『行ってきます』って、元気に笑うて、ドア開けて出ていったんやで……?」
最愛の息子が、事故で死んだ、あの地獄の夜だった。
( 続く )




