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第1話:半分消えた水

もう、何日、水を飲んでないんだろう。


 寝返りを打つどころか、指先ひとつ動かせなくなってから、部屋の中の音だけがやたらと耳に響くようになった。


枕元に置いた妻と息子の写真にも目が向かない。


 遠くの高架線を走る電車の規則正しいジョイント音。

よその家の換気扇がカラカラと回る煤けた音。

隣の部屋の住人がドアを閉める微かな振動。


東京の音は、どこまでいってもせわしなく、他人の気配に満ちている。


それなのに、この部屋の中だけは、まるで世界から切り離されたエアポケットのように、完璧な空白が横たわっていた。


 首を傾げることすら叶わない。ただ、天井のシミと、薄開いた瞼の隙間に映るわずかな景色だけが、俺に残された世界のすべてだった。


 不思議と頭は妙に冴え渡っている。死に際の人間の脳はフル回転するなんて話を聞いたことがあるが、それにしては、考えていることは驚くほどくだらないことばかりだった。


 ――あぁ、玄関の電気、消し忘れてるな。


 薄暗い襖の隙間から、細く頼りないオレンジ色の光が漏れている。


それが気になって仕方がない。


電気代、もったいないな。今月の請求、いくらになるんやろ。


……いや、待てや。もう俺には関係ないんか。払う人間も、督促状を読む人間も、もうこの世からいなくなるんだから。


 視線をわずかに横へずらす。枕元に置かれた、色あせた木目のサイドテーブル。その上には、一個のガラスコップがぽつんと佇んでいた。


 まだ辛うじて身体が動いていた数日前、これが最後になるかもしれないと覚悟しながら注水だ。あの時は、確かに半分は残っていたはずだった。なのに、今、濁った視界の先にあるコップの底は、からからに乾いて白いカルキの跡だけを残している。


 誰か飲んだんかな。俺の目を盗んで、泥棒でも入ったか。


 ……アホらしい。ただ蒸発しただけや。

何日ここで横たわったまま経ったと思ってるんだ。自分の感覚すら、もうあてにはならなくなっている。


 トクン。


 不意に、胸の奥で、小さく、頼りない肉の塊が震えた。最後の一叩きをするように、残ったすべての血を絞り出すような、ひどく重い鼓動だった。


 あぁ、これ、いよいよ終わるな。


 そう確信した瞬間、世界からすべての音が完全に剥ぎ取られた。


 さっきまで耳を震わせていた電車の音も、換気扇の雑音も、自分の喉から漏れる掠れた呼吸音すらも一瞬で遠ざかっていく。


 そこから先は、ただひたすらに深い、深淵への落下だった。


 底の抜けた暗黒のプールに、足の先からゆっくりと沈み込んでいくような感覚。じわじわと冷たい闇が静脈を伝ってせり上がってきて、五感をひとつずつ眠らせていく。


 上を見上げても、もうかつて暮らした東京の天井も、漏れ聞こえる光も届かない。重くて深い、粘り気のある真っ暗な闇の重力に身をまかせ、ただただ、どこまでも落ちていく。


 寂しいとか、怖いとか、そういう生々しい感情すらも、深い水底の砂のように静かに沈殿して消えていく。あぁ、俺の人生は、このまま誰に知られることもなく、この暗闇の底で溶けてなくなんねやな――。


 そう諦め、意識の最後の糸を手放そうとした、その時だった。

 絶対的な静寂に包まれた、深淵のいちばん深い底で。


 チカッ、と。


 突如として、鋭い光が闇を切り裂いた。


 部屋の隅に置いてあった、埃をかぶった古い機械のインジケーター。かつて、愛子の命を繋いでいた、補助人工心臓の管理装置。もう主を失い、とっくに電源も抜かれて動いていないはずのそのランプが、一度だけ、青白く強く点滅したのだ。


 同時に、耳の奥で、奇妙な音が鳴り始める。

 ――シュルシュルシュルシュル……。


 まるで、古いビデオテープを猛烈な速さで巻き戻しているような、乾いたヘンテコな音が、深淵の闇を激しくかき乱した。音はみるみる大きくなり、俺の止まりかけた心臓の鼓動を完全に追い抜いていく。


 視界が反転する。


 乾いていたはずのコップの底に、透明な水がじわじわと、下から上へと満ちていく。

 襖の向こう、玄関の消し忘れた電気が、パッと音を立てて掻き消え、世界に本当の夜が戻る。

 ――え?

 身体が、嘘みたいに軽い。

 深く沈んでいたはずの闇から一転して、俺は布団の上に、勢いよく上半身を起き上がらせていた。

 ゼェ、と大きく肺が鳴り、懐かしい酸素が胸いっぱいに満ちる。動かなかったはずの指先が、自分の意思でシーツを掴んでいる。


 呆然とあたりを見回した。部屋は、さっきまで俺が死にかけていた東京のボロアパートのままだ。しかし、何かが決定的に狂っている。

 カチ、カチ、カチ、カチカチカチカチ――。

 壁掛け時計の針が、狂ったような速度で逆回転を始めていた。

 窓の外を見る。ついさっきまでどんよりと曇っていたはずの東京の空が、恐ろしいスピードで明滅を繰り返している。


夜が来て、朝が来て、また夜が来る。一日という単位が、まるでパラパラ漫画をめくるように、一瞬の光の瞬きとなって通り過ぎていく。

 それは、記憶の「早回し」だった。


 愛子を亡くし、息子を亡くし、ただただ死を待つだけだった俺の、退屈で、孤独で、不必要な数年間。


 白髪が交じり、背中が丸まり、ただ飯を食ってテレビを見て寝るだけだった日々の映像が、シュルシュルと音を立てて逆方向にブレていく。

部屋の隅のゴミ箱からクシャクシャの新聞紙が飛び出し、テーブルの上の埃が生き物のように消え去っていく。

そんな男の一人暮らしの寂しい記憶は、まるで興味のない映画の退屈なシーンをスキップするように、猛スピードで置き去りにされていった。


 ――あ、止まる。


 そう直感した瞬間、脳の奥のギヤがガチリと噛み合う音がした。

 猛烈な速度で流れていた世界の景色が、急激にブレーキをかけられる。


 キィィィン、と耳鳴りがして、時間の流れが急激に粘り気を帯び始めた。水の中に沈み込んだかのように、世界のすべてが不自然なほど「スローモーション」へと変化していく。

 窓から差し込む、夕暮れの西日。


 その光の粒のなかに、部屋を漂う小さな埃がひとつひとつ、まるで宇宙に浮かぶ星のように静止して見えた。


 カラン、と台所で何かが揺れる音が、何秒もかけて鼓膜を震わせる。

 早回しの嵐が止まったその部屋は、今から数年前。


 俺の髪にはまだ黒いものが多く、お堅い地方公務員のグレーのスラックスを履いて、仏壇の前にポツンと座り込んでいる、少し若い日の自分の姿だった。

 

 遺影の中で、愛子が笑っている。

 その愛子の写真に向かって、俺は、まだ標準語の冷たさがへばりついた声で、ぽつりと言葉を漏らした。


「……なぁ、愛子。今日な、役所でな……」


( 続く )

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