あれから変わったこと
――それから、しばらくの間、世界は穏やかだった。
私は屋敷の庭園にある東屋で、一人、紅茶を飲んでいた。目の前には、色とりどりの薔薇が咲き誇っている。
柔らかな風が庭園を吹き抜け、花弁を揺らしていた。
「……平和ね」
つぶやきながらカップを傾ける。
こうして何も考えずに紅茶を飲む時間も、すっかり日常になっていた。
そんなとき、ふと、どこからか頼り気のないバイオリンの音が風に乗って聞こえてきた。
近所の子供が練習でもしているのだろうか。その拙い音色に、私はかつての少女の姿を重ね、思わず目を細めた。
「……マリー」
思わず彼女の名前が漏れた。
けれど、今の彼女がバイオリンを奏でることはない。
先日の手紙では、体調も母子ともに順調だと書かれていた。
そう――。
彼女のお腹には、レヴナスとの間に授かった新しい命が宿っている。
以前のように、ふらりと私の屋敷を訪ねてくることもなくなった。
少し寂しくはあるけれど、それ以上に嬉しい。
あのマリーが母親になる。時間というものは、あっという間に過ぎていく。
「オフィーリアお嬢様。おかわりはいかがですか?」
ふと、背後から声がした。振り返ると、ティーポットを手にしたカタリナが立っている。
「あら、お願いするわ」
「かしこまりました」
カタリナは慣れた手つきで、私のカップに紅茶を注ぐ。それは実に美しい所作だった。
「……ふふ」
「どうかなさいましたか? お嬢様」
「いいえ。あなたもずいぶん落ち着いたわね、と思って」
「私ももう大人ですから」
カタリナは眼鏡の位置を直しながら、少しだけ胸を張った。
「昔は本当にそそっかしかったのに……」
「お嬢様、あまり昔のことを蒸し返さないでくださいませ。私にも立場というものがあるのですから」
「ごめんなさい」
困り顔のカタリナに思わず笑ってしまう。つられて彼女も笑った。
あのおっちょこちょいで、何かあるたびに悲鳴を上げていた少女も、今ではすっかり頼もしい一人前の侍女だ。
四年という年月は、私たちが思っている以上にみんなを大人に変えていた。
そういえば、あれから変わったことが一つある。
それは――。
「オフィーリア、来ましたわよ」
振り向くと、そこに立っていたのは黒紫の髪を揺らした美しい女性だった。
「ようこそ、マルティナ」
つい先日二十歳になったマルティナは、あの頃に比べ、随分と落ち着いた女性になっていた。
マリアベルの夫、レヴナスは先のグライアス王国との戦争で功績を上げて『伯爵』の爵位を授かった。
爵位の格としては私やマルティナと同じ伯爵家だけれど、元がテヌール侯国の第二公子である彼の血筋もあって、マリアベルは私たちよりも少し上の立場になった。
そう簡単に会うことも叶わなくなり、きっとマルティナもライバル(張り合いのある相手)がいなくなって寂しくなったのだろう。
いつからか、こうして私のもとを頻繁に訪れるようになっていた。
私としても、親友が遠くへ行ってしまった寂しさがあったから、彼女を拒む理由なんてどこにもなかった。
それに何より――。
「またお父様から縁談を押し付けられそうになって、逃げてきましたの?」
「……それを仰るなら、オフィーリアもでしょう? グラント大将軍のご息女ともあろう方が、いまだに浮いた話の一つもないのですから」
私たちが、この界隈で数少ない『同年代の独身』だからだ。
お互い、父親から「そろそろ良いお相手を」と口うるさく言われる日々に、二人して心底辟易していた。
「マリアベルさんにはあっという間に先を越されてしまいましたわね」
「それにもう時期、母親よ」
「信じられませんわね……あの子、私よりも先に幸せになって」
そんな恨み節を述べるマルティナだが、その口ぶりには苛立ちや憤りは感じられなかった。
カタリナがマルティナの紅茶を淹れ運んでくる。マルティナは礼を言ってカップに口づける。
あれからマルティナとマリーの関係はかなりよくなった。恋の争いに敗れたマルティナは、あれから精神的にも大人になったように見える。
手紙のやり取りもするようになったらしい。
「でも、まだ焦ることはないと思うのよね」
私はそう言ったが、マルティナはどこか居心地が悪そうな顔をする。
「何言ってますの? 私たち二十歳になりますのよ? 行かず後家なんて後ろ指さされるのも時間の問題ですわ」
「イカズゴケ?」
それってどんな苔だろう。取り敢えずこの世界では二十歳になっても女性が、しかも貴族の令嬢が独身であることはよくないことらしい。
本当の私は二十五歳で(オフィーリアで四年生きたから、実質アラサー!?)独身で彼氏もなくアルバイトで食いついないでいた。
でもそんな焦りはなかった。難しい世の中だ。
「ねぇ、オフィーリアはどんな殿方が好みですの?」
「え?」私は薔薇の向こうに広がる青い空を見上げる「……よくわからないわ」
「私もですの」
「じゃあ、しばらく二人とも独身ね」
「……それも悪くないかもしれませんわね」
マルティナが笑った。私も笑い返す。
「今度、女同士どこか遊びにでも行かない?」
「あら? どちらに?」
「決めてないけど。いつも薔薇眺めて紅茶飲むのも飽きるじゃない」
「ふふ……」
「なんで笑うのよ、マルティナ」
「オフィーリアは、何か変わりましたわね」
「……え?」
言われてハッとした。何故かマルティナの前では私はつい早乙女千佳に戻ってしまうようだった。
「でも、私、今のあなたの方が何というか、好きですわ」
「……ありがとう」
「でも、外出には少し注意をしたほうがいいですわ」
「……え? そ、そうね」
私は曖昧に頷いた。うら若き美女二人が迂闊に外をうろついたりしたら、それこそ危ないと言うことか。
しかしマルティナの続けた話の内容はそんな能天気なものではなかった。
「最近、城下の警備も少し物々しいでしょう?」
「……そういえば、そうね」
「まさか、理由をご存じないの?」
「警備が増えたことは知っているけれど……そこまで気にしていなかったわ」
「……オフィーリア」
マルティナが呆れたように私を見る
「ええと……」
「はぁ……」
大きなため息をつかれてしまった。
「よかったら、聞かせてくれないかしら?」




