私はオフィーリア
「……マリアベル?」
私は確かめるようにその名前を呟いた。
「うん?」
すぐに返事が返ってくる。
この扉の向こうに、ゲームの主人公がいる。
これから私の親友になる少女がいる。
「待って。いま開けるから」
私は胸の高鳴りを抑えながら、ゆっくりと扉へ歩いていった。
凝った装飾の取っ手に手をかけた瞬間、少しだけ指が震えていた。
ガチャっという音ともに目の前に現れたのは、美しい赤髪の小柄で可憐な少女の姿だった。
「あ……ああ……」
我ながら気持ち悪い声が口から漏れる。
こうして目の前に立たれると、やっぱり不思議な感じがする。この子は本当にいるんだ。絵でも、映像でもない。
ちゃんと呼吸をして、瞬きをして、こうして私の名前を呼んでいる。
「オフィーリア……?」
「え?」
「どうしたの? さっきから様子が変だよ?」
「ごめんなさい……なんというか……あなたに会いたかったなって……」
「えっ?」マリアベルは、はにかんで顔を赤らめた。それから困ったように言う「会いたかったって、昨日も会ったばかりだよ?」
「あ……」
そうだった。当たり前のように言われて、私は言葉に詰まる。昨日のことなんて、私の記憶の中には存在しない。でも、この世界のオフィーリアには確かに昨日がある。
他人の書きかけの日記を、今日から書き綴るようなことをしているのだ。これからもそんなズレは起こるのかも知れない。
「それに、今日は約束してたでしょう?」
不意にマリアベルが言った。
「約束?」
「ほら」
マリアベルが手にしたバイオリンケースを軽く持ち上げる。
「今日の音楽コンクール。付き添ってくれるって言ったよね?」
「あ……」
その瞬間、頭の中で何かが繋がった。
「……音楽コンクール」
もちろん、知っている。
これはゲーム序盤のイベントだ。音楽コンクールの予選。
マリアベルがバイオリンを演奏する。
そして――。
ここで偶然、観覧に来ていたレヴナス・ソラール他、攻略対象キャラたちが彼女の演奏を聴く。
その才能に惹かれた一人のレヴナスが、演奏後にマリアベルへ声をかける。
それが二人の関係が始まる、最初のきっかけ。
「そうか……」
思わず、呟いていた。
「え?」
「今日だったんだ……」
マリアベルが不思議そうに私を見る。
「オフィーリア、やっぱり変だよ? 熱でもあるの?」
「あ、いや……」
ゲームのシナリオを思い出している場合じゃない。今の私はオフィーリアだ。
オフィーリアなら、このコンクールのことを知っていて当然だ。
「ごめんなさい、マリアベル。ちょっと寝ぼけていたみたい」
「もう……」マリアベルは苦笑する。でも、すぐにその表情が曇った「……でも、どうして?」
「えっ?」
彼女は寂しげに眉を下げた。
「私のこと、マリーって呼んでくれないの?」
「……」
……しまった。そういえば、そうだった。
ゲームのオフィーリアとマリアベルは、かなり親しい。
身分の差を超えて……。具体的に言うとマリアベルは男爵の娘。一応貴族の娘ってことになるが、爵位は低い。私、オフィーリアのような高貴な人物とは本来、口を利くのも憚られる身分だ。
でも、そういうのを分け隔てなく接するオフィーリアはマリアベルを友人として迎え入れ、親友になる。
だから二人きりのときはオフィーリアは彼女をこう呼ぶのだ。
「マリー、ごめんなさい。私、まだ少し寝ぼけているようね……」
それを聞いてマリーは目を丸くした。そして眩しいくらいの微笑みを向けた。
「ふふ、何だかオフィーリアじゃないみたい」
その一言で私はいたたまれない気持ちになった。
彼女の言うとおり、私はオフィーリアじゃない。
本当の私は、早乙女千佳だ。それでも、私は――。
「ほら、マリー。そんなことより、そろそろ出ないと予選に遅れちゃうんじゃないかしら?」
彼女を、マリーを幸せにしてあげたい。
私が知っている『千年を綴る五線譜』の物語なら、それができる。だって私は、このゲームのことを知っている。
――オフィーリアとして、マリーの親友として。
私は、この子を幸せにしてあげるんだ。
「そうだった!」
マリーは慌ててバイオリンケースを抱え直した。
「行こう、オフィーリア!」
「ええ」
私は笑って頷く。オフィーリアのような笑顔を作りながら。
いや、これから私は、オフィーリアなのだ。




