私、勝ち組じゃん?
……あ……れ?
ふと、目が覚めた。
最初に見えたのは見慣れない天井だった。……やけに高い天井だ。
白く塗られたその天井には、精巧な装飾が施されている。中央には見たこともないような大きなシャンデリアまで吊り下げられていた。
大きく立派な装飾窓からは、優しい陽の光が降り注いでいる。
そして、微かにする紅茶の香り。
……ここ、どこ?
ゆっくり身体を動かそうとすると、私は、自分が妙に深く、背中まで包み込むような大きな椅子に腰掛けていることに気づいた。
私が少し身体を動かすたび、それはゆらゆらと揺れる。
え……なにこれ?
確か私は――新作の乙女ゲームを買うために、自転車を漕いでいたはずだ、それで秋葉原で信号を渡ろうとして……それから……。
ああ、もしかしてここ……天国? ……天国にしては妙にリアルな感じがするけれど。
「きゃあああっ!?」
唐突に、すぐ横で鋭い悲鳴が上がった。何事かと振り向く暇もなかった。
――ガチャン!!
激しい器物の破損音。それとほぼ同時に、太ももから膝にかけて凄まじい熱が襲いかかってきた。
「あっつつつつ!?」
私は半ば飛び跳ねるように反射的に立ち上がった。
熱い熱い熱い!
「な、なに!? 何が起きたの!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
けれど――。
「……え?」
私は固まった。
今の声、私の声じゃなかった。高くて、可憐で、どこか鈴を転がすような美しい声音。
でも間違いなくそれは私の口から出た声だ。思わず自分の喉に手を当てる。
いや、それどころじゃない。
「熱いっ! ってか痛いって!」
熱湯をかけられたような痛みが、じわじわと広がっている。いや、この香りは……紅茶?
。
混乱と痛みの板挟みに苛まれていると、目の前にバッと誰かがしゃがみ込んできた。
「申し訳ございません! 私、私……!」
その子は慌てた様子で私の足元に手を伸ばし、スカートの裾を持ち上げた。
「え……?」
私は呆然と、自分の身体を見下ろした。確か私はユニクロのスキニーパンツを履いてたはずだ……。こんな刺繍が施されたヒラヒラのドレスなんて着た覚えがない。
「すぐに拭きますから! あぁ、私とんでもないことを……っ!」
焦りきった声で私のスカートの裾を持ち上げ、懸命に布巾で紅茶を吸い取ろうとしている少女。
年齢は……私と同じくらい?
いや、もっと幼いかもしれない。整った人形ような顔立ち、透き通るような白い肌。
そして、絵に描いたように綺麗で、浮世離れした銀髪。それを二つの束に結び、丸い眼鏡をかけた可憐な女の子だ。
こんな子、普通に街を歩いていたら絶対に目立つ。
「大丈夫ですか、お嬢様!」
「……お嬢様?」
誰のこと? ……私?
というか、この子……どこかで?
いや、そうじゃない。見間違えるわけがない。心のどこかで認めるのが怖かっただけだ。
その顔は、会社のモニターでかれこれ何ヶ月も毎日毎日見つめ続けてきた顔だ。
私は恐る恐る、銀髪の少女に声をかけた。
「……カタ……リナ?」
「はいっ! 申し訳ございません! オフィーリアお嬢様っ!」
そう、カタリナ・ルー。
彼女は私がさっきまで何度も何度もデバッグしていた乙女ゲーム『千年を綴る五線譜』に登場するキャラクターだ。
この子はメインキャラクターではない。立ち絵こそあるが、差分はあまりなく、主人公のマリアベルの親友であるオフィーリア・クレールの侍女だ。
おっちょこちょいで、どこか憎めない可愛らしさが隠れファンを作りそうな属性を持っているが――。
……ちょっと待って。いまこの子、私を何て呼んだ?
「……オフィー……リア?」
私は自分の名前を確かめるように呟いた。
カタリナが不安そうにこちらを見る。
「はい……オフィーリアお嬢様……?」
肝が冷えたという言葉があるが、実際身をもって味わったのはこれが初めてだった。
――まさか。
私は震える手を見つめる。小さい。そして細い。
明らかに、私の手ではない。
もう一度、自分の声を聞く。
……やっぱり違う。私はこんな声じゃなかったはずだ。少なくとも今の声は、私の地声よりワンオクターブ高い。
そして、ドレス。改めてよく見れば、見覚えのあるドレスだった。白と水色を基調にした、オフィーリアの衣装。
仕事中、何度もゲーム画面で見ていたものだ。私はハッとなり髪を手に取る。
……オフィーリアと同じ、金髪だった。
「……嘘でしょ」
私の人生は、さっき終わったはずなのに。
どうして……どうして私は――。
ゲームの中の世界にいるの!?
「あの……オフィーリア様……?」
カタリナの畏怖に満ちた呼び声でハッとなる。この状況では考えられることも考えられない。冷静になる時間が欲しい。
「あ……その……悪いんだけど、ちょっと一人にしてくれない?」
するとカタリナは取り乱したように私に詰め寄ってくる。それはもう泣きそうな顔で。
「そ、そんなオフィーリア様! カタリナを見捨てないでくださいまし! 本当に申し訳ございませんっ!」
……そうだった。この子こういうキャラだった。ドジっ子属性で、さらに被害妄想と言うか思い込みが強いのだ。ちゃんとわかるように言わないと。
「えーっと……ごめんなさい、カタリナ。ちょっと一人になりたいなって思ったの。カタリナはなんにも悪くないから適当に休んでて」
「適当に!? 私に適当にしろと仰るのですね!? 私、オフィーリア様の指示がないと呼吸すらできませんのに!」
……誰よ、こんな面倒くさいキャラ作ったシナリオライターは。知ってるけど……!
「よし、カタリナ。廊下の掃除をしてきて、早く」
「はいっ! かしこまりましたオフィーリアお嬢様。ノミ一匹残さず駆逐して参ります!」
そう言ってカタリナは使命感に燃えて部屋を慌ただしく出ていった。
扉が閉まるその音を確認してから、私は一つ大きく深呼吸をした。
足にはまだ紅茶の熱が残っているが、幸い、火傷するほどではなさそうだ。
それよりも――。
私は部屋の隅に置かれた大きな姿見の前に立ち、そこに映った自分の姿を見た。
「…………」
言葉が出なかった。
鏡の中には、見知らぬ少女――いや、見知った少女の姿が写っている。
癖のない真っ直ぐでサラサラな金色の髪。晴れた夏の空の下で輝く海のように青い瞳。
そして文句のつけようのない整った顔立ち。
それはゲームの立ち絵で何度も見た少女。
「……オフィーリアだ」
思わず呟いた、が、やっぱり声が違う。さっきから何度も聞いているのに、いまだに自分のものだという実感がない。
私はもっと鏡に顔を近づけた。頬に触れる。柔らかい。モチモチ……いや、モッチモチだ。
「……肌、キレイすぎ……すべすべ」
きめ細かい肌にうっとりしつつ、ハッとなる。
「これ、ついでに若返ってるじゃん」
私は先月、二十五歳になったばかりだった。
オフィーリアはゲームスタート時は十五歳だ。十代の柔肌……っていうか、私が高校生だった頃だって、こんなに肌は綺麗じゃなかった。
……いや待って、そうじゃない。
「落ち着け、私」
私は軽く両手で頬を叩く。当然、鏡の中の少女も、同じように頬を叩く。
それを見て、私は不思議な気分になった。
とにかく整理しよう。
私は昨日まで、早乙女千佳だった。ゲーム会社でデバッグのアルバイトをしていた二十五歳。
そんな私は仕事を終えて、発売されたばかりの乙女ゲームを買うために秋葉原へ向かっていた。
信号を渡ろうとして――。
あの眩しいライトを思い出す。赤信号で突っ込んできた車。自転車から投げ出された身体。あの瞬間の痛みだって鮮明に思い出せる。
とにかく、私は死んだ――んだと思う。
あまりに呆気なさ過ぎて、実感も何もない。
実家の両親は悲しんでいるだろうか。
あの車の運転手は今頃ちゃんと法の裁きを受けているだろうか。
……とか、そんなことくらいしか浮かんでこない。
「……なんだかなぁ」
ため息をつく。それで、死んだはずの私は何故こんなところにいるんだろう。
きらびやかな中世ヨーロッパ風の豪邸。そもそもヨーロッパなんて行ったことがないから、本物がどんなものなのかは知らない。
けれど、テーマパークのアトラクションなんかで再現された安物感は微塵も感じられない。
……まあ、アトラクションと比べるのもどうかと思うけど。
そして、この姿……。
私は、この顔を知っている。
鏡の中の少女。オフィーリア・クレール。
私が前世(と呼んでもいいのだろうか?)でデバッグをしていた乙女ゲーム『千年を綴る五線譜』に出てきた、主人公の親友ポジションのキャラクターだ。
ジオバンニ王国の属国、テヌール侯国の大将軍グラント・クレールの一人娘。
つまり貴族様。しかも、かなり偉い。屋敷も立派。当然にお金持ち。使用人もいる。
彼女のことは知り尽くしている。というか――。
「私、ゲームの内容、知り尽くしてるじゃん」
私は思わずニヤけた。およそ清楚なオフィーリア・クレールがしてはいけない表情が鏡に映る。
それも私はただのプレイヤーじゃない。デバッガーだ!
『千年を綴る五線譜』を、何ヶ月も仕事で触ってきた。
寝ても覚めてもゲームを立ち上げて、イベントを確認して、選択肢を確認して、好感度を確認して、不具合がないか、何度も何度も同じシーンを繰り返してきた。
主要キャラクターの設定だって、かなり頭に入っている。
このゲームの主人公マリアベル・シャナークはもちろん、メインヒーロー、第二公子のレヴナス・ソラール。悪役令嬢のマルティナ・グラウビュンデンだって、さっきのカタリナも含めて、とにかく台詞のあるキャラクターはみんな頭に入ってる。
ゲームのストーリーも知っている。主要イベントも。攻略ルートだって。
ゲームとして用意されている範囲なら、控えめに言っても熟知していると言い切れる。
「……これ」
鏡の中のオフィーリアの口元があられもなく緩む。
「勝ち組じゃん?」
死んだと思ったら、十歳くらい若返って。異世界の貴族令嬢になって。
しかも、自分がデバッグしていたゲーム世界。未来を知っている。身分も高い。
「知識チートってやつじゃん……!」
思わず拳を握った。
「これ、無双じゃーん!?」
私はこの世界を知っている。知り尽くしてる!
だから、きっと大丈夫。私の人生、安・泰!
――トントン。
「……え?」
唐突に扉が叩かれた。私は慌てて姿勢を正す。
「おほん……」
さっきまでの浮ついた気持ちを隠すように、胸を張った。
「どうしたの、カタリナ? 一人にしてちょうだいと言ったと思うけれど」
……そうそう。
オフィーリアなら、こんな喋り方。ゲームの中でも、少しおっとりしていて、上品で誰にでも分け隔てなく優しい性格。
きちんとロールに従わないと。
しかし、返ってきた返事の主は侍女のカタリナではなかった。
「オフィーリア? 私だよ……」
その声で私の心臓は大きく脈打った。その声を私が聞き間違えるわけがない。
声の主は答え合わせのように名乗り出た。
「マリアベルだよ」
「えっ!?」
「カタリナが、オフィーリアの様子がおかしいって言ってるから。……大丈夫?」
それは『千年を綴る五線譜』の主人公。私が仕事で何度も何度も自分を重ねて、見つめてきた少女。
「…………」
その本人がいま、この扉の向こうにいる。
ああどうしよう。急に喉が渇いてきた。
さっきまで「転生だ」「知識チートだ」「無双だ」なんて浮かれていた自分が、ひどく遠いものに思えた。




