最後の『やり直し』
私が何度も手にしてきた、時間を戻すための石。
それなのに……今は、どうしても手を伸ばすことができなかった。
「……できません」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「私は……戻りたくありません」
そう言った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「私は、十五年間……クローディアと生きてきたんです」
声が震えた。
「今日だって……二人分のスープを作ってしまったんです」
笑おうとした。でも、どんなにそうしようとしても、口角が上がらなかった。
「もう、あの子は家を出てしまったのに……」
私は机の上の石を見つめる。
「私は……この十五年間が好きでした」
その言葉だけは、迷わず口にできた。
「楽しかったんです」
マリーを救えなかった。国も救えなかった。何度も失敗した。それでも……クローディアと生きた十五年間だけは、違った。
「初めてだったんです」
私は胸に手を当てた。
「明日が怖くなかった。やり直さなくてもいい。今日が終われば、明日が来る。そんな当たり前のことを、私は十五年かけて知ったんです……だから」
私は首を振った。
「もう、十分です」
クアンタームは、それでも何も言わなかった。ただ、静かに私を見つめていた。
やがて、その顔にほんの僅かな迷いが浮かぶ。
「……オフィーリア様」
「はい」
「一つ、お伝えしておかなければならないことがございます」
その不穏な声色に私は顔を上げた。
「何ですか?」
クアンタームは目を伏せた。
「マルティナ様のことです」
「……え?」
胸がざわついた。
「マルティナが……どうしたんですか?」
「十五年前、貴女様を逃がした後も、あの方はテヌール侯国の再興を目指しておられました」
私は息を呑んだ。マルティナとはあの日以来顔を合わせていない。「遣い」と名乗る人間が一年に一度くらいここを訪ねては必要なお金や心ばかりの物資を届けに来てくれる以外に彼女との繋がりはなかったのだ。
「人を集め、失われた領土を取り戻すために戦い続けていたようです」
「……そうね」
私は目を閉じた。あの酒場で見た、短く切られた髪。
父親を失い、それでも前を向こうとしていたマルティナ。あのときの彼女の姿が浮かんだ。
「つい三日前のことです……」
クアンタームの声にほんの僅かな躊躇いがあった。
「戦乱のさなか、流れ矢を受けて亡くなられました」
「……」
何も言葉が出なかった。
「マルティナ……」
私は呟いた。
彼女は私が知らないところで。私がクローディアと十五年間を生きている間にも、彼女は戦っていた。
そして、その命を失った。
「ですが、彼女が残したものは消えておりません。マルティナ様の意思を受け継いだ若者たちが、今も戦っております」
「……まだ?」
「はい」
私は俯いた。マルティナは、最後まで諦めなかったのだ。
「……そう」
私は小さく笑った。笑ったのに、何故だが涙が自然に溢れた。
「あの子らしいわね……」
しばらく、沈黙が続いた。私は机の上に置かれた青い石を見つめる。
それから、ふと思った。
「……クアンターム様」
「はい」
「もし、私がやり直したら……どうなるんですか?」
「どう、とは?」
「私は……」
言葉を探す。
「ここにいる私はどうなるのですか?」
私は自分の胸に手を当てた。
「クローディアと過ごした時間も。今日までのことも。全部忘れて、十五歳のオフィーリアに戻ってしまうんですか? それとも、この世界自体がなかったことになるのですか?」
それは、今まで一度も考えなかったことだった。
やり直せば、自分の意識が過去へ戻るものだと思っていた。
今の私は、十五年分の時間を生きてきた。もし、この世界が失われるのであれば、私のしてきたことは、或いは、早乙女千佳の意思を失った私はいったい何になるのだろう。
クアンタームは、少しだけ考えるように目を伏せた。
「……全てのやり直しについて、同じことが言えます」
「……はい」
「貴女様の意識が失われた後も、この世界は続いております」
「……」
「そして、その時まで生きていたオフィーリア・クレールという人間の意思もまた、消えるわけではございません」
私は顔を上げた。
「それはつまり……?」
「はい」
クアンタームは頷いた。
「早乙女千佳としての記憶だけが、貴女様の中から失われるのです」
「じゃあ……」
「その人生の中で育まれた感情も、価値観も、人を想う気持ちも。そうしたものは、オフィーリアという人間の中に残ります」
私は黙って聞いていた。
「だから、やり直した先にいるオフィーリアは、何も知らない人形になるわけではございません」
「……」
「それまでの人生を生きたオフィーリアとして、その先の人生を続けるのです」
その言葉を聞いて、私は初めて少しだけ息を吐いた。
それなら。
それなら、クローディアと過ごした十五年は、消えてしまうわけではない。
私が覚えていなくても。
十五歳のオフィーリアの中には、その十五年間を生きた私の意思が残る。
クローディアを愛したことも、マリアベルを娘として育てたことも、マルティナと出会い、彼女の強さを知ったことも。
それらは、なくならない。
「……そうなんですね」
「はい」
私は目を閉じた。まぶたの裏、暗闇の中に一つの顔が浮かんだ。綺麗な、長く赤い髪。いつも明るく笑っていた顔。私の何にも代えがたい大切な親友。
――千佳なら、絶対にこの国を救えるから。
最後に聞いた声。
十五年前、マリアベルの処刑を前にして、私は何もできなかった。
何度もやり直して、何度も失敗して、そして一度は、もう二度とやり直さない人生を選んだ。
「……マリー」
小さく名前を呼んだ。風が窓を軽く叩く音がして、私たちは無言でそちらを見やる。
「私は……約束したんです」
「はい」
「あなたの子を、クローディアを守るって」
私が十五年間育てた、私たちの娘。もう、あの子は私の手を離れた。
「何度も逃げてしまったけど、やっと約束……守ることができたんです……」
「きっと、マリアベル様も喜んでいらっしゃいます……」
「……クアンターム様」
「はい」
私は机の上に置かれたクアンタームのペンダント、その青い石へ手を伸ばした。でも、すぐには触れなかった。
「クローディアは、これから多くの仲間と出会い、自分の手で運命を切り開いていくのですね……?」
「仰る通りです」
私は深呼吸をする。息が震えていた。
「ここからは、私のワガママです……」
「ええ」
「マリーを救いたい……。あの子ともっと一緒に歳を取りたい」
「はい……」
「マルティナにも、幸せになってほしい」
「そうですね」
「私はもう、十分に幸せを貰いました。だから次はあの子たちの番……」
指先が青い石に触れる。石はその時を待っていたかのように青白い光を放つ。
「私は……どんな手段を使ってでも、彼女たちを救ってみせる」
クアンタームは何も言わなかった。ただ、静かに頭を下げた。
「……最後のやり直し」
私は石を握りしめる。
十五年間、一度も巻き戻さなかった時間。私はそれを胸の奥に抱いたまま、もう一度だけ過去へ戻る。
マリーがクローディアを抱いて笑っている世界。
その傍らで、マルティナやカタリナも笑っている。
そんな世界を――。
「クローディア……」
私はそこにいない娘に呼びかける。
「お母さん、行ってくる……。でも、そうね……次の世界では、親子じゃなくて頼れるおばさんよ」
もう迷いはなかった。青い石が、私の手の中で静かに光り始め……強い光になる。
目の前にいるクアンタームが笑ったような気がした。それも全て、白い光に霞んで消えていった。
第三章 おわり




