クアンターム
十五年前、私はこの子を抱いて途方に暮れていた。
どう生きればいいのか分からなかった。
それでも、一日ずつ生きてきた。
泣いたら抱きしめた。病気になったら看病した。
笑えば一緒に笑った。幸せな時間はいつもこの子と一緒だった。
そうしているうちに、今日になっていた……。
「……じゃあ、行ってくるね」
ディアがもう一度、墓へ向かって言った。まるで本当に、家族の誰かに挨拶するように。
私はその姿を見つめていた。やがてディアは振り返る。
「お母さん、行こう」
「ええ」
私は頷いた。
その時、風が木々を揺らした。ディアの赤い髪が天になびく。まるで、マリーが応えてくれてるみたいだった。
二人で馬車の待つ場所へ戻った。
ディアが乗り込む。荷物を積み終え、御者がこちらを見る。
「では、よろしいですか?」
「ええ」
私は答えた。馬車がゆっくりと動き始める。
「お母さん!」
窓からディアが顔を出した。
「手紙書くから!」
「待ってるわ!」
「ちゃんと食べてね!」
「それはあなたのほうでしょう!」
ディアが笑う。彼女の笑顔を乗せて馬車は少しずつ遠ざかっていき、私はその姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
やがて、馬車の姿が森の向こうへ消える。
私は一人になった。十五年ぶりに。
山荘へ戻れば、ディアの部屋がある。
使いかけの本も、机の上に置かれたペンも、昨日まで着ていた服もある。
けれど、あの子だけがいない。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。そしてふと、空を見上げる。
十五年……。
私はこの世界で初めて「その先」を生きた。全てをクローディアの為に捧げてきた。楽しかった。恋をする暇もなかった。
サナルトゥスは、この四周目の世界でも私たちを逃がすために戦い、そして恐らく――。
今なら、今もしここに彼がいたのなら、彼の想いに応えられたかもしれない。
「でも、もう三十五歳、か……。この世界だと、遅すぎるのかな」
私が早乙女千佳として生きていた二十五歳から、さらに十の歳を取った。オフィーリアのこの顔は、年齢を感じさせないくらいに、自分で言うのもおこがましいのかも知れないけど、まだまだ美しかった。
「本当の私の三十五歳の顔……どんなだったのかなぁ」
私は一人、ディアのいなくなった山荘へと戻っていった。
それから程なくして、意外な人物が私のもとに訪れた。
*
クローディアが家を出て三日目の月が綺麗な夜だった。
私は夕飯を作っていた。鍋の中では、庭で採れた野菜を煮込んだスープが静かに湯気を立てている。
人参に、玉ねぎ。それから少しばかりの芋。
いつもの夕飯だった。私はスープを器によそおうとして、ふと手を止めた。
「……あ」
鍋を見ると、どう見ても一人分には多い。私は無意識に、いつもの癖で二人分の野菜を切っていたらしい。
「……もう、いないのにね」
小さく呟いて、私は苦笑した。身体は十五年間で染みついた習慣は、そう簡単には拭えない。
もう今は私しかいないのだ。今日も、明日も、その次の日も。
私は一人でご飯を食べる。
そんなことを考えていた、その時だった。
コン、コン。
「……?」
玄関の扉が叩かれた。
こんな時間に?
私は火を止めると、慎重に玄関へ向かった。山奥の山荘だ。
近くに住んでいる者などいない。クローディアが戻ってきたとは、まず考えにくい。
「誰っ!?」
扉越しに声をかける。返事はない。私は息を潜め、相手の気配を窺った。
ギィと扉がゆっくりと開く。
「……え?」
私は自分の目を疑った。
そこに立っていたのは、黒いローブを身にまとった一人の老女。
深く被ったフード。皺の刻まれた顔。私は彼女を知っていた。
「ク……クアンターム様!?」
思わず歩み寄った。
「オフィーリア・クレール様……」老女は静かに私を見つめる「いえ――早乙女千佳様」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
私は取り敢えず彼女を家の中に通した。作った野菜スープを勧めてみたが、その申し出を彼女は丁寧に断った。
「……お久しゅうございます」
「クアンターム様……」
しばらく何も言えなかった。その人は間違いなく、クアンタームだった。
四周目の世界でも、私は彼女に会っていた。会うたびに、彼女は私のことを覚えていなかった。
それでも、私は彼女を訪ねることを欠かさなかった。
何度目の人生でも、彼女は同じ場所にいて、同じように私を迎えてくれた。
「私がまだ生きていたことに、驚かれましたか?」
「その……」
考えていたことを見抜かれ、私は口をつぐんだ。あまりにも失礼なことだった。
十五年前、この人はすでにかなり高齢の老婆だった。それなのに、目の前にいる彼女はあの日と何一つ変わっていない。
「……申し訳ありません」
「いいえ」
クアンタームは穏やかに首を振った。
「私も驚いております」
「え?」
「以前、貴女様に申し上げましたね。私にもまた、時を超える、似た力があるのだと」
「はい」
「どうやら私は、貴女様とは違う形で、時間というものに縛られているようなのです」
クアンタームは、自分の胸元に手を当てた。そして彼女は続ける。
「そして、ようやく少しだけ分かってまいりました」
「わかった……?」
彼女は静かに微笑む。
「どうやら私には、役目が与えられているようなのです」
「役目……?」
「はい」
クアンタームは私を真っ直ぐに見た。
「マリアベル様と、その御息女を導くための役目にございます」
「……!」
私は息を呑んだ。
そうだ、私は知っている。
この老占い師は、『千年を綴る五線譜』に登場するキャラクターだ。
主人公のマリアベルに、この先待ち受ける運命の予兆を伝えるという、ただ、それだけの役割を与えられたキャラクター。
その後、ゲーム本編には二度と登場しない。
だからこそ、私は分かってしまった。
「もしかして……」
喉が震えた。
「クローディアに会われたのですか?」
クアンタームは、ほんの少しだけ目を細めた。
「流石、外の世界からお越しになられたお方」そして、静かに頭を下げる「恐らく貴女様は、私以上に私を知っておられる」
「かも知れないです……」私は頷いた「恐らくクアンターム様は、クローディアに、この先に待ち受けている運命をお伝えしてきたのですね?」
「ええ……その通りにございます」
やっぱりだ。頭の中で何かが繋がった。
シナリオライターの岩井さんが酔った勢いで話していた、あの続編構想。
『千年を綴る五線譜』の、その先。マリアベルの娘――クローディアを主人公にした物語。テヌールが滅びた後、十五歳になったクローディアが学校へ行き、そこで新しい人々と出会い、失われた国を再び取り戻していく物語。
その物語の中で、クアンタームは再び現れる。クローディアを導くために。
そう考えれば、何もおかしくない。
ゲームの中では、キャラクターには役割がある。
マリアベルには、ヒロインとしての役割。レヴナスには、彼女と結ばれる相手としての役割。
そして、クアンタームには――未来を告げる者としての役割。
何故クアンタームが時を超えたのかはわからない。
それは単純に制作側の遊び心なのか、それとも彼女自身が何か物語の根幹に関わる人物なのか。
それは私が知る由もない。




