母と娘
十五年の時が過ぎ、私は三十五歳になった。
マルティナから手配された山の奥にある山荘で、私はクローディアを育て、人目を避けて暮らしていた。
分け与えられたグラウビュンデン家の財産を少しずつ切り崩しながら、それでもできるだけ手をつけずに済むよう、庭では野菜を育てた。
最初の頃は何も分からなかった。野菜の育て方もそうだが、何より、子供の育て方も。
クローディアが熱を出せば慌てて医者を呼び、夜中に泣けば何が原因なのか分からないまま抱き上げた。
歩けるようになってからは、転んで膝を擦り向く度に、まるで自分が傷ついたかのように胸を痛めた。
そんなことを繰り返しているうちに、十五年が過ぎていた。
クローディアはマリーに瓜二つと言っても過言ではないくらいに似てきた。
また、情勢も大きく変わった。
テヌール侯国が滅んだ後、アルフォンス侯国はすぐに動いた。
かつてジオバンニ王国に支配された歴史を持つアルフォンスは、テヌールの敗北によって王国の軍事力が大きく損なわれたことを好機と見たのだ。
蜂起したアルフォンスに対し、当初はジオバンニも鎮圧軍を送り込んだ。
けれど、そこへザンカスト侯国が加わった。
さらに各地で反乱や離反が相次ぎ、ジオバンニ王国は次第に戦線を維持できなくなっていった。
長年にわたる戦争で疲弊していたことも大きかった。
最終的にジオバンニ王国は降伏。
アルフォンス侯国は独立を果たしただけではなく、旧ジオバンニ領の一部を併合して王国となった。
ジオバンニ国王と王子たちは幽閉され、王家の権力は失われた。かつて王国の一部だった土地の多くも、アルフォンス王国へ割譲された。
ザンカスト侯国もまた戦後の混乱に乗じて領土を広げた。
そして、テヌールは――ザンカストの領土となった。
かつて独立した国家であり、ジオバンニ王国の軍事を支え続けたテヌール侯国。その名前は、地図から消えた。
私が何度も守ろうとして、何度も失った国は、本当にこの世界からなくなってしまった。
一方、リース侯国は反乱に協力こそしたものの、アルフォンスやザンカストほど積極的に動かなかった。
そのため戦後も侯国としての体制を維持し、領土の大きな変更もなかった。
だからこそ、リースは比較的監視の緩い国になっていた。
王国となったアルフォンスも、テヌールを併合したザンカストも、今では自国の支配と領土の維持に手一杯だ。
そんな中で、旧ジオバンニ王国と距離を置いていたリースまで細かく監視する余裕はない。
私はそのことを利用することにした。
そして今日――
「お母さん、じゃあ、行ってくるね」
玄関先で、クローディアが手に提げた大きな鞄を持ち直して微笑んだ。
十五歳。
彼女は今日から、リース侯国にある寄宿舎付きの学校へ通う。他にも大きな荷物をいくつもまとめ、玄関の前には迎えの馬車まで来ている。
「ちょっと待ちなさい、ディア」
「え?」
「本当に忘れ物はない?」
「大丈夫」
「教科書に名前書いた?」
「書いたよ」
「筆記具は? 鉛筆は削ってある?」
「ある」
「それから……」
「お母さん!」
「……え?」
「本当に大丈夫だから」ディアが苦笑する「お母さん、心配しすぎだよ」
「だって、初めて一人で家を出るんだもの」
「馬車で学校まで送ってもらうから平気だよ」
「そういう意味じゃなくて……」
私はディアの服の襟元を直した。
「向こうに着いたら、まず寮の管理人さんに挨拶すること。それから近くの部屋の人にも挨拶して、荷物を整理して――」
「分かってるよ」
「あと、向こうで知らない人についていかないこと」
「もー! 子供じゃないんだから!」
「夜遅くまで出歩かない」
「はいはい」
「困ったことがあったら、すぐ手紙を書くのよ……。それから……それから……」
視界が涙で滲んでいく。彼女の襟を握る手に力がこもる。
「……分かった」
彼女はそう笑って、私を抱きしめた。
十五年前。
腕の中にいた小さな赤ん坊が、今では私と変わらない背丈になった。
名前も少しだけ変えた。
マリーとレヴナスがつけた名前。クローディア。でも、その名前をそのまま使えば、ソラール家の血を引く娘だと気づく者がいるかもしれない。
だから私は、普段は「ディア」と呼んでいる。彼女は自分の生まれを知らない。もちろん、本名も。
「……そうね」私は小さく笑った「あなたなら大丈夫ね」
「うん」
ディアは頷いて、私から身を離した。
そして、馬車へ向かおうとしたところで、私はもう一度彼女を呼び止めた。
「ディア」
「なに?」
「最後に『彼女』に挨拶をしてあげてくれない?」
「……うん。わかった」
私はディアを連れて、山荘の裏に回る。人の目につかないところに、一つの簡素な墓標がある。
墓石に刻まれている名前は――マリアベル。
十五年前、あの処刑場でマルティナの部下たちは、命懸けで彼女の遺体を取り戻した。
そして、奪われた頭部も一緒に……一つの墓に収められた。
私はマリーが彼女の本当の母親だとは告げずに、彼女の幼い頃からディアと共に手を合わせてきた。彼女は私の親友だと、それだけを伝えてきた。本当のことをいつ、どう伝えるべきか、その機会を見つけられないまま今日まできてしまった。
「……マリアベルさん。私、今日から学校に行くんです」
彼女が墓前で手を合わせる。これが今日までの母子の大切な時間だった。
「しばらく帰ってこれないけど、夏には一度帰るから。それまでは、お母さんを見守っていてください。寂しがり屋でなので」
「もう、ディア」
「へへ」
ディアが悪戯に笑った。その笑顔はかつてのマリーの面影がある。
私もマリーの前に立ち手を合わせて、目を閉じた。
「マリー」声に出すのは、久しぶりだった「ディアが、十五歳になったよ」
墓石の向こうから返事があるわけではない。それでも私は、話しかける。
「今日から学校へ行くの。寄宿舎に入るから、しばらくは一緒に暮らせないけど……大丈夫」
私はマリーに、そしてディアに微笑んだ。
「私がちゃんと育てたから」
その言葉を口にすると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
あなたが残してくれたこの子を、ちゃんとここまで連れてきたよ。
赤ん坊だったディアが、十五歳になった。




