やり直せない世界
「……え?」
それはとても、小さな音だった。しかし、それは私にとって、何よりも大きな絶望の音だった。
「嘘……」
そんなはずはない。私はもう一度、石を強く握った。
何度もそうしてきた。何度だって私はこの石の力でやり直してきた。
これまで、ずっと。
「お願い……」
もう一度石を握りしめ、念じる。
「お願い……もう一度……」
何も起こらない。ただ、ひび割れた青い石が、私の指の間で冷たく沈黙している。
「……嘘」
喉が震えた。
「嘘よ……嘘、嘘っ!」
祈るように、縋るように石を両手で包み込んだ。だが、石はもう何の光も放たなかった。
――やり直せない。
その事実を理解した瞬間、全身から一気に力が抜け落ちた。
両手を地に突き、泥に汚れた石畳を見つめることしかできない。
「……そんな……」
その時――遠くで地鳴りのような歓声が上がった。歓喜の声、兵士の怒号、民の悲鳴。無意識に顔を上げてしまった私は……見てはいけないものを見てしまった。
執行人が天高く掲げたものを。つい先ほどまで、私の大切な親友だったものを。
「うああああああああっ!!」
ごめん――ごめんなさい……!
私があなたを巻き込んでしまったばかりに……!
狂乱する広場の中で、私は額を石畳に擦り付けながらボロボロと嗚咽を漏らした。胸が焼き切れるほど、喉が引き裂かれるほど叫び続ける。
「お嬢様っ!」
人混みを押し分けて、使用人が走り寄ってきた。彼女も大粒の涙を流している。その腕には、小さな赤ん坊が抱かれていた。
「クロー……ディア」
私は腕を伸ばし、マリーの遺した心許ない命を受け取る。彼女はこの混沌とした空間のさなかでも全く泣いていなかった。ただ大きな瞳で私を見つめている。
これは罰だろうか。私は思った。
いつもあなたを胸に抱きながら、私は世界を終わらせていた。マリーを失った私は、あなたを見ようとしなかった。
あまつさえ、私は今回の人生で、ついにマリーを巻き込んでしまった。あの子にこの世界の理を全てではないにしても伝えてしまった。
「ごめんね……クローディア……」
私は胸に親友の遺児を抱いたまま、それでも立ち上がれずにいた。
そのとき、誰かの手がそっと私の肩に触れた。私はびくりと身体を震わせ、反射的に振り返った。
深く被ったフードでその顔は見えなかったが、その声には聞き覚えがあった。
「オフィーリア……もうここは危険ですわ」
私は息を呑む。震える声で彼女の名前を呼んだ。
「……マルティナ?」
彼女は答えなかった。ただ、私の肩に置いた手に少しだけ力を込める。
「間もなく、ここで小さな諍いが起きますわ。始まったら、その娘を抱いて私とここから逃げます。いいですわね?」
フードの隙間から見下ろす瞳。それは間違いなく彼女の瞳だった。
「マリアベル……間に合わなくて、ごめんなさい」
彼女が心痛な面持ちでそう呟いた直後だった。群衆に紛れていた数人の男たちが、一斉に剣を抜いた。
「何者だ!」
兵士たちが叫ぶ。男たちは答えなかった。そのまま処刑台へと駆け寄り、立ちはだかる兵士たちへ斬りかかる。
甲高い金属音が響いた。突然の襲撃に、群衆から悲鳴が上がる。人々が我先にと逃げ始め、広場は一瞬にして混乱に包まれた。
その隙に、私の肩へ手が伸びる。
「今のうちに、オフィーリア」
「マルティナ……」
私は呆然としたまま、処刑台を振り返る。目まぐるしく入り乱れる男たちに埋もれ、もうマリーの姿は見えなかった。
「でも……」
「行きますわよ!」
強く背中を押される。私はよろめきながら立ち上がった。
クローディアを抱き直し、人混みへ紛れ込む。
背後では、まだ剣戟の音が響いていた。
振り返ってはいけないとわかっているのに、何度も振り返りそうになる。
「振り返ってはいけませんわ」
その都度、マルティナが私の背を押し続けてくれた。
私たちはそのまま王都を離れ、テヌール侯国領の外れにある小さな酒場へと通された。
表から見れば、どこにでもあるような古びた酒場だった。
店内はガランとしていて、店主のらしき男がカウンターでグラスを磨いている以外に人影はない。
マルティナに案内され、奥の部屋へ入る。そこでようやく、彼女は足を止めた。
「ご一緒の使用人の方は遠慮してくださるかしら?」
その言葉に従い、私は使用人に目配せをして退室させた。この部屋には私と、クローディア、そしてマルティナだけとなる。
「ここなら、少なくとも市街地よりは安全ですわ」
そう言って、マルティナは深く被っていたフードを外した。
私は思わず息を呑んだ。彼女の黒紫がかった長く綺麗な髪が、肩のあたりでばっさりと切り落とされていた。
「……マルティナ、その髪」
「髪の次は、名前も捨てなくてはなりませんわね……この喋り方も」
「え……」
「父が、ラバンが死にました」
「……」
「私を逃がすため……時間を……」
彼女が言葉を切らしたのは、涙声を隠したからだろう。しばらく俯いていた。それから何かを拭うように首を振り顔を上げた。
「マリアベルのこと、助けられなくて申し訳なく思ってる」
私は何も言えなかった。私は何度も彼女を助けられなかった。マルティナは歩み寄り、私の腕で眠るクローディアを見つめる。
「この子、マリアベルとレヴナス様の……」
「クローディアっていうの。抱いてあげて」
クローディアをマルティナに預ける。常に強張っていた彼女の表情が少しだけ和らぐのがわかった。
「お母さん譲りの綺麗な赤髪ね」
クローディアを腕の中で揺りかごのように揺らし、それから名残惜しそうに私の腕に戻す。
「……マルティナ、あなたはこれからどうするの?」
その問いかけにマルティナはすぐには答えなかった。少しだけ、何かを決断する猶予を自分に与え、それから私の目をまっすぐに見た。
「父の仇を……この手で。そして、テヌール侯国を再興させます」




