三度目の幕切れ
私たちは、森の中を進み続けた。
どれほど歩いただろう。樹冠の隙間から差し込む光も、次第に薄くなっていく。
背後から追手が現れる気配はなかった。
サナルトゥスが命を懸けて時間を稼いでくれている。三人のソラールの私兵たちも、きっとそうだ。
だからこそ、私は立ち止まるわけにはいかなかった。
クローディアの小さな体温を胸に抱きしめ、泥を跳ね返しながら必死に足を動かし続ける。
――だが、後ろから聞こえていた足音が途絶えたことに気づき、私はハッとして振り返った。
「マリー?」
マリーが、少し離れた場所で遅れを取っていた。
その手は、ずっと腹部を押さえている。
「どうしたの?」
「……ううん」
マリーは首を横に振った。
「大丈夫よ」
そう言って、私を安心させようと微笑もうとする。だか、その青ざめた顔には隠しきれない苦痛が浮かんでいた。
「本当に?」
「ええ。少し痛むだけだから」
私は不安を覚えながらも、歩みを進めた。
今は止まってはいけない。
この森を抜けなければ。ジオバンニへ辿り着かなければ。
そこにたどり着きさえすれば、まだ何かしらの救いがあるはずだ。
だけど――。
「……くぅっ」
背後から、短い息を呑む声がして、私は振り返った。
力尽きたマリーが、とうとうその場に膝をついていた。
「マリー!?」
私は慌てて駆け寄った。
「大丈夫っ!?」
マリーは答えなかった。正確には、もう答える余裕すら残されていなかったのだ。
ただ肩を激しく上下させ、苦しそうに腹部を押さえつけている。
「……え?」
彼女のドレスの裾に視線を落とした瞬間、私は言葉を失った。
美しかった白地の布地が、見る影もなくドス黒い朱に染まり切っている。
「血が……そんな!」
頭の中が真っ白になった。
「いや……」
私はクローディアを抱いたまま、マリーの身体を支える。
「待って。大丈夫だから」
「オフィーリア……」
「大丈夫よ」自分でも分かるくらいに声が震えている「少し休めばいいわ。そうしたら、また歩けるから」
「……ううん」
マリーが、静かに首を振った。
「私、もう……駄目みたい」
「何を言っているの?」
「分かるの」
マリーは、自分の身体を抱くようにして、小さく息を吐いた。
「自分のことだから……」
「そんなこと言わないで!」
私は思わず声を荒らげてから、ふと冷静になった。苦しいのは私じゃない。
「まだ助かるわ。医者のところまで行けば――」
「オフィーリア」
マリーが私を見た。その目は、驚くほど穏やかだった。
「オフィーリアは、本当に優しいね」
「え?」
「オフィーリアは私が辛いとき、悲しいとき、いつも側にいてくれた。……助けて……くれた」
「違う……」
私は首を振った。
「私は今回も……」
言葉が詰まる。今回も助けられなかった。三度も、あなたを失った。
私は一度だってあなたを助けられていない。
「だから……まだ、諦めないで」
「……ごめんね」
「謝らないで!」涙が溢れた「お願いだから……」
マリーの呼吸が、次第に荒くなっていく。
彼女はそのまま、ゆっくりと地面へ身体を横たえた。
「マリー! しっかりして!」
片腕にクローディアを抱き、私は慌ててマリーの背を撫でる。
「……オフィーリア」
弱々しい声。そして、その声に反応するように。私の腕の中で、クローディアが泣き始めた。
「……あ……」
マリーが、赤ん坊の声を聞いた。
「クローディア……」
私はクローディアの顔を少しだけ近づけた。マリーは震える右手を伸ばそうとする。けれど、その手は途中で力尽き、力無く地面へ落ちた。
「……ごめんね」
「マリー……?」
「抱いてあげられなくて……」
「そんなこと言わないで。抱いてあげて……。逃げ切って、それから落ち着いてからでいい。マリーの……母親の腕で抱いてあげて」
「この子を……」
マリーの視線が、クローディアへ向けられる。
「この子を、お願い……」
「ええ」
もう、わかっていた。これ以上、頑張れなんて、言葉をかけることがどれほど残酷なことであるかを。
私は小さく頷いた。溢れる涙をこぼしながら、それからもう一度深く頷いた。
「私が守る」
「……うん」
マリーは、安心したように微笑んだ。
「オフィーリアなら……大丈夫」
「マリー……」
「お願いね」
「分かったから……」私は涙を拭って、精一杯笑顔で言った「だから、目を閉じないで」
「……ありがとう」
マリーの瞼が、ゆっくりと下りていく。
「マリー……ダメ……マリぃ……」
返事はない。
「マリー……」
私は彼女の頬に触れた。
温かい。まだ、温かいのに。
「ねえ……」
もう一度、呼びかける。
「マリー……」
返事はなかった。
「……どうして。どうしてなの……」
私は彼女の頬を柔らかく撫でる。
「やっと……やっと、二人でここまで来たのに……」
涙で彼女の綺麗な顔が滲んでいく。
今回は違うと、信じた。
あらゆる事を予見して、早く動いたつもりだった。しかし、世界はそれ以上に早く動き出した。
それでもマリーを屋敷から連れ出した。
クローディアも守った。サナルトゥスもいた。
それなのに。
「どうして……」
その時、森の奥から音が聞こえた。
遠くから近づいてくる足音。
鉄が擦れる音。剣が、鎧が、互いに触れ合う音。私は顔を上げた。追手が来ている。
もう、時間がない。
「……また」
私は呟いた。
「また、駄目だった」
腕の中のクローディアが泣いている。目の前には、眠ったままのマリー。
そして、迫りくる足音。私はゆっくりと立ち上がり胸元に手を当てた。
そこに、青い石のペンダントがある。私はそれを取り出した。石は、以前より少し黒ずんでいるように見えた。
「……ごめんなさい、マリー」
私は思った。
この謝罪を、私は本当に悲しんで口にしているのだろうか。それとも、何度もあなたを失ったせいで、死に慣れてしまったのだろうか。
考えるのは辞めた。私は私に失望したくなかった。
指先で、そっと石を撫でると、まるでこの時を待っていたかのように、青白い光が石の奥で揺らめいた。
私はマリーの髪を、そっと撫でる。
「私、行くね……」
涙が落ちる。私はペンダントを強く握りしめた。
もう一度――もう一度だけ、この世界をやり直す。
声にならない祈りを、石へ託す。
視界が白く爆ぜた。音も匂いも、何もかもが、白銀の光に呑み込まれていく。
私の腕の中から、クローディアの重みが消える。
マリーの温もりも、森のざわめきも、迫り来る敵の足音もすべてが遠ざかっていく。
三度目の人生が、終わった。




