告白
森の中を、私たちは走った。
木々の間を抜ける。
枝が服に引っ掛かり、袖が破ける。足元の泥が跳ね、靴とスカートの裾を汚す。
私はそれでもクローディアを落とさないよう、必死に抱きしめていた。
「大丈夫……」
誰に言ったのか、自分でも分からない。泣き叫ぶクローディアにか、苦しげな顔をするマリーか、私自身なのか。
わからない。それでもつぶやく。
「大丈夫だから……」
荒い呼吸が聞こえた。
「はぁ……っ、はぁ……」
サナルトゥスだ。彼はマリーを背負ったまま、走り続けている。
「サナルトゥス……」
「大丈夫です!」
私が何かを言うより早く、彼は答えた。
大丈夫そうではなかった。額から流れる汗。乱れた呼吸。
背負われたマリーの身体。
それでも、彼は速度を落とさない。
「サナルトゥス。私、降りるよ」
「なりません」
即答だった。もうどんな言葉も彼は固辞するつもりなのだ。
「でも……あなた、苦しそう」
「問題ありません」
「嘘よ」
マリーの声は弱々しかった。
「私のせいで……」
「違います。どうかそのようなことを申されないでください。マリアベル様」
「でも……」
「掴まっていてください。必ず、お連れしますから」
そのときだった。
「――いたぞ! ソラール夫人だ!」
背後から声が響いた。私の身体が、凍りつく。
「……っ!」
サナルトゥスが足を止めた。
「くそっ……!」
木々の間から、四人の男が現れる。
ザンカストの兵。手にしている剣には生々しい血が付着していた。
「見つかった……」
私は呟いた。
どうする。逃げる?
それは無理だ。マリーは走れない。クローディアもいる。
サナルトゥスが、ゆっくりとマリーを降ろした。
「……サナルトゥス?」
「お嬢様」
彼は剣を抜いた。
「三人で、お逃げください」
「何を言っているの?」
私は彼を見た。その背中には悲壮感が漂う。敵は四人だ。
「無理よ」
「無理か無理じゃないかの話ではありません」
「四人いるのよ!」
「承知しております」
サナルトゥスは、敵を見つめたまま答えた。
「ですが、ここで時間を稼ぐことはできます」
「時間を稼ぐって……」
私は言葉を失った。分かってしまった。
彼が何を言っているのか。
敵を倒すのではない。時間を稼ぐ。私たちが逃げ切るまでの。それはつまり――
「……駄目」
私は首を振った。
「駄目よ」
「お嬢様」
「駄目!」
声が大きくなった。
「あなたまで、置いていけない!」
サナルトゥスが初めてこちらを振り返った。
その端正な顔には、どこか困ったような、哀しく優しい笑みが浮かんでいた。
「お嬢様」
彼は静かに、けれど揺るぎない声で紡ぐ。
「私は、あなたのために死ねるのなら、本望です」
「……!」
胸が詰まる。
「そんなこと、言わないで」
「昔、一度だけ」サナルトゥスは敵から目を離さず、けれど語りかけるように続けた「クレール家のお庭を、外から盗み見たことがあります」
私は、彼を見た。
「バラが咲いていました」
敵がジリジリと近づいてくる。
それでも彼は話を続けた。その距離を視界の隅で把握しながら。
「その庭園で、あなたが紅茶を飲んでいた」
「……え?」
「私はその時、生垣の隙間から……あなたのお姿をお見かけしたのです」
サナルトゥスは、どこか愛おしそうに目を細めた。
「……とても、息をのむほど綺麗な方だと思いました」
私ははっと息を呑む。
「それからずっと……いつの日か己を鍛え上げ、あのクレール家へ仕えることができたならと、そう願い続けて生きてまいりました」
「サナルトゥス……」
「そして、本当に仕えることが叶った」
彼は剣を握り直す。
「ほんの一週間前です」
一週間――そうなのだ。
このサナルトゥスは、私が知っている彼とは違う。
まだ、ここへ来て一週間しか経っていない。
私は彼のことを知っているつもりだった。
忠実な私兵。腕の立つ兵士。
いざというとき、命を預けられる男。
でも、彼がどんな思いでクレール家の門を叩いたのか。
どうして私兵として私にあんなにも忠誠を尽くして働いていたのか。私は何も知らなかった。彼の一番大切な気持ちを、何一つ分かっていなかったのだ。
「一週間だけでも」
サナルトゥスは言った。
「お嬢様のお役に立てたのであれば、私には思い残すことはありません」
「……そんなの嫌よ! 私は……あなたに、死んでほしくない」
気がつけば涙が溢れていた。
「お嬢様」
「今までだって……」
言葉が止まる。
言えるはずがない。言っても信じてもらえるはずがない。
今まで何度も、あなたに助けられた。何度も会った。何度も、あなたの働きを見た。
私はそれらの言葉を呑み込んだ。ただ一言だけ、私は彼に訴えた。
「私は……もう、誰にも死んでほしくないの!」
サナルトゥスは私を見つめた。
「……ありがとうございます」
そう言った。その声はとても優しくて……。
「ですが、今は、行ってください」
勇ましかった。
「嫌……」
「お嬢様」
「嫌よ!」
「――行けっ!」
突然の怒声。
私は、身体を震わせた。
サナルトゥスの声が森に響く。
「ここでお嬢様が立ち止まれば、私が残る意味がありません!」
「……サナルトゥスっ!」
「どうか!」
彼は剣を構えた。
「私の願いを……無駄にしないでください!」
何も言えなかった。
不意に、泥に汚れた私の服の裾を誰かが弱々しく掴んだ。マリーだった。
「オフィーリア……」
彼女の顔は青ざめている。苦しそうに息をしている。
「行こう」
「マリー……」
「クローディアがいる」
その言葉に導かれるように、私は腕の中に視線を落とした。
迫り来る死の気配も知らず、必死に生を主張して泣きじゃくる小さな小さな命。
「……行かなきゃ。サナルトゥスのためにも」
私はサナルトゥスを見た。
「……絶対に、生きて」
彼は背を向けたまま振り返らなかった。
「……必ず、お嬢様のところへ戻ります」
ただ、それだけ答えた。
私は振り返らずに走り出した。マリーと共に、クローディアを抱きながら……。
やがて、背後で剣と剣がぶつかる鋭い音が、森の中に響き渡った。




