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逃避行

 やがて、肩掛けを羽織ったマリーが、ゆっくりと立ち上がる。



「大丈夫?」


 私は肩を支えようと歩み寄る。


「ええ」


 そう答えて――。


「……うっ」


 マリーの表情が歪んだ。彼女の手が、とっさに自分の腹部を押さえる。


「マリー!?」


「マリアベル様!」


 一瞬で、部屋の空気が変わった。使用人たちが駆け寄る。

「やはり、無理です!」


「お休みになってください!」


「大丈夫……大丈夫だから」



 マリーは浅く息を吐いた。



「少し、痛んだだけ……」



「でも……」

 私は彼女の顔を見た。明らかに顔色が悪く無理をしているのは一目瞭然だった。



 それでも――マリーは、今度は私に向かって微笑んだ。

「オフィーリア」


「……うん」


「あなたについていく」


 その言葉に、私は頷いた。


「ええ」


 今度こそあなたを、あなただけでも絶対に守る。


 私はそう心の中で誓った。


  マリーが揺り籠へ視線を向ける。クローディアは、何も知らずに眠っている。


「オフィーリア。お願いがあるの」


「なに?」


 マリーは、少しだけ躊躇った。



「クローディアを……抱いていてくれる?」



「……私が?」



「ええ」



 私たちは揺り籠へ近づいた。



 クローディアを慎重に両腕へ抱き上げたマリーが

、彼女を私に引き渡す。


 その小さな身体は、私にとっては軽く、そしてあまりにも重かった。


 クローディアを抱きながら、私はマリーを見る。

「わかった。私が守るわ」


「ありがとう」


 マリーが安心したように笑った。その笑顔は母親そのものだった。彼女より何年も生きた私には到底できないそれだった。

 

「あの……」

 サナルトゥスが、遠慮がちに口を開いた。

「もし、よろしければ」



 彼は一度、マリーを見た。そして、静かに背を向ける。

「私がおぶりましょう」


「え?」


「このまま歩かれるよりは、その方が早く移動できます」


 サナルトゥスは少しだけ振り返った。


「……もちろん、マリアベル様がお嫌でなければ」

 マリーと私は、顔を見合わせた。そして、どちらからともなく頷いた。



「お願いします」

 

マリーが言った。


「はい」


 サナルトゥスは膝を折る。使用人たちの手を借りながら、マリーはゆっくりと彼の背中へ身を預けた。


 サナルトゥスは、その身体を確かめるように支える。


「……大丈夫ですか?」


「ええ」


「しっかり捕まっていください」


 真剣な声だった。

 私はクローディアを抱きしめる。


「大人数で移動は危険です。選りすぐりの私兵を三名、護衛で付けてください。あとの方は屋敷と、皆さんの護衛に回って」


「はい」


「いい? 大事なものは、屋敷よりあなたたちの命です。守ることではなく、助かることを考えて行動して」


 その発言に使用人やサナルトゥス、マリーまでもが意外そうな顔をした。

 大事なものは主人の家より、自分の命。私にとっては当たり前のことが、彼らにとってはそうではないのだ。


 私兵が三人呼び出され、使用人たちは慌ただしく動き出す。


 これでいい。マリーがいる。クローディアもいる。


 そして、サナルトゥスもいる。


 今度こそ――。


 私は、二人を連れて屋敷を出る準備を始めた。


 私兵たちの準備が整うまで、そう時間はかからなかった。ソラール邸の裏手へ回り、私たちは人目を避けるように屋敷を後にする。


 マリーを背負ったサナルトゥス。


 その隣を、私はクローディアを抱きながら走った。


 まだ生まれて間もない小さな身体を、私は胸に抱き寄せる。


その前後を三人の精鋭が囲む。


 今度こそきっと大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、私は足を動かした。


 ――しかし。


「ザンカスト侯国の旗が……!」


 前方から、誰かの叫び声が聞こえた。


「ザンカスト侯国が侵略してきたぞ!」


「テヌール城に向かってる! レヴナス様のお屋敷にも!」


「なんで!? どうしてこんなことになったんだ!」


 人々の悲鳴が、あちこちから響く。


 先ほどまで暴動による混乱だった街は、今や完全な恐怖に支配され始めていた。


「……始まったのね」


 私は足を止めなかった。ザンカスト侯国が侵攻する。狼狽えることはない。私は何度もこの未来を見てきた。


 だから――。


「急いで!」


 私は前を走るサナルトゥスへ叫んだ。


「こちらの方が早いはずよ!」


「お嬢様、この先は……」


「分かっているわ!」


 私は答えた。街を抜ければ森がある。私は三回目の転生で地理もしっかりと把握していた。


 その森を抜ければ――。


「ここを抜ければ、ジオバンニ王国との国境へ出られます!」


 私兵の一人が言った。


「ええ!」


 そうだ。そこまで辿り着ければいい。ジオバンニ王国へ逃げることができる。


 テヌールが混乱に陥るより早く。ザンカストの兵が領内を制圧するより早く。


 逃げたその先がどうなるかはわからない。でも生きてさえいればきっと……。


「……待って」


 不意に、私兵の一人が足を止めた。


「どうしたの!?」


「前方です」


 女性の私兵が森の奥を指差す。私は目を凝らした。


 木々の隙間。その向こうに人影があった。


 一人ではない。二人、三人――。


 そして、そのさらに奥にも。


「……そんな」


 私の足が止まった。


 完全武装の兵士たち。忘れようはずもないその姿。


「ザンカスト……」


 私の呟きに、誰も答えない。敵兵たちは、すでに道を塞いでいた。


「なぜ……」


 胸の奥が、冷たくなる。


「どうして、もう……」


「オフィーリア……」



 サナルトゥスの背に乗ったマリーが不安そうに私を振り返る。


 腕の中のクローディアもぐずり出す。



「……別の道を」私は周囲を見回した「他の道を探せば……」


「お嬢様」


 今度は、ソラール家の私兵が口を開いた。


「時間がありません」


 男たちの視線が、敵兵の方へ向けられる。


「ここで奴らを引きつけます」


「……何を言っているの?」


「マリアベル様をお連れください」


「駄目よ!」


 私は首を振った。


「そんなことをしたら、あなたたちは……!」


「我々はソラール家の私兵です」一人の男が言った「主家の方々を逃がすことができれば、それで本望です」


「そんな……!」


 マリーが弱々しくも叫ぶ。


「お嬢様」もう一人が、穏やかに笑った「どうか、お急ぎください」


 私は言葉を失った。


 駄目だ。まただ。


 また、誰かが私のために残ろうとしている。


「駄目よ……」 


 力なくつぶやく。


「……行きましょう」


 マリーが、サナルトゥスの背中から小さく言った。


「マリー……?」


「今は、急がないと」


「でも……!」


「オフィーリア」


 マリーは私を見た。苦しそうな顔をしていた。


「この人たちの気持ちを、無駄にしちゃ駄目」



 私は唇を噛んだ。


「……分かったわ」声が震えた「でも、必ず……必ず、生きて」


 私兵たちは答えなかった。


 ただ、一斉に剣を抜いた。


「お行きください!」


 誰かが叫ぶ。


「お嬢様、こちらです!」


 サナルトゥスの指示に従い、私は走り出した。クローディアがついに泣き出す。


 背後で、怒号が響いた。剣と剣がぶつかる音。


 振り返ることはできなかった。


 振り返ったら、もう走れなくなる気がしたから。


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