ベッドの上のマリアベル
慌ただしい街を抜け、私はサナルトゥスとともにソラール邸へと辿り着いた。
幸い、まだこの辺りまで暴動の混乱は及んでいない。
屋敷の門前には、普段と変わらぬ様子で門番が立っていた。
「何者だ!」
「クレール家のオフィーリア・クレールです」
名を告げると、門番の表情が変わった。
「オフィーリア様! これは失礼いたしました。どうぞ」
すぐに門が開かれる。
私は礼を言う暇も惜しんで、そのまま屋敷の中へ駆け込んだ。
「お、お待ちください、オフィーリア様!」
後ろから使用人たちの声が聞こえる。
廊下には何人もの使用人がいたが、誰もがどこか落ち着いていた。
街で何が起きているのか、まだ詳しくは知らないのだろう。
まさか、この屋敷にまで危険が迫っているとは思っていない。
――だからこそ、間に合う。私は足を止めなかった。
「マリアベル様のお部屋は……!」
「こちらでございます!」
案内を受けるまでもなく、サナルトゥスを置いて私は記憶にある廊下を進む。
何度も訪れた場所だった。そして、一つの扉の前で立ち止まった。彼女の、マリーの部屋だ。
息を整える間も惜しくて、私は扉を叩く。
「マリー!」
一瞬の沈黙。
やがて、部屋の奥から聞き慣れた声がした。
「……オフィーリア?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられる。
「私よ。入ってもいい?」
「どうぞ……」
私は中にいた使用人より先に扉を開けた。
そして――。
「……マリー」
思わず、その名を呟いていた。
マリーはベッドの上に横になっていた。上半身だけを少し起こし、窓の外を眺めていた。室内ににいた数名の使用人の女性たちが深々と頭を下げる。
遠くから聞こえる騒がしい声。
慌ただしく行き交う人々。
普段とは明らかに違う街の様子を、彼女も不安そうに見つめていたのだろう。
私の姿に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。
「オフィーリア。どうしたの? こんなところまで……」
生きている。
少し声が弱々しくなっているが、マリーが生きている。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
そして、ベッドのすぐ傍には小さな揺り籠が置かれていた。その中で、小さな赤ん坊が眠っている。
「クローディアっていうの……」
私が食い入るように見ているとマリーが教えてくれた。
「あ……そうか」
「なに?」
「ううん、素敵な名前ね」
小さな手、穏やかな寝息、そして……。
「あなたに似て、美しい赤髪ね……」
「ありがとう……ゴホッ、ゴホッ……」
「マリー?」
「ごめんね。ちょっと産後で疲れがまだ取れてなくて」
私は過去の『やり直し』の記憶をたぐった。
風の噂で耳にした話を思い出す。産後のマリーは酷く体力を消耗しており、一時は命に関わるほど危険な状態だったことを。
今、彼女をこの屋敷から連れ出すことは大きなリスクを伴うかもしれない。でも、ここに留まるよりは遥かに安全なはずだ。
私は揺りかごのクローディアを見つめ、そしてマリーを見つめる。
「どうしたの? オフィーリア」
「マリー、よく聞いて。今、街で起きている暴動は、ただの領民の不満じゃないわ」
「……え?」
マリーの表情が変わる。部屋にいた使用人たちも、私の方を見た。
「何者かが、意図的に人々を扇動している」
「扇動……?」
「ええ。そして、これはまだ始まりに過ぎない」
私は一度、息を吸った。
「父グラントとレヴナス様が、すでに軍を率いてアルフォンスとの戦地へ向かい、テヌールの軍が手薄になっている今、ザンカスト侯国が動く」
「……ザンカスト侯国?」
マリーが目を見開く。
近くにいた使用人も息を呑んだ。
「それは……どういうことですか?」
部屋の外で待機していたサナルトゥスが、開いたドアの向こうから姿を覗かせる。
「説明してる暇はないし、信じてもらえる自信がないの……だから、信じてほしいとしか、言えない」
「でも……」
マリーが幼いクローディアを見やる。まだ迷っている。
「カタリナが死んだわ……」
「えっ?」
マリーの顔が青ざめる。使用人たちも互いの顔を見合わせて悲鳴のような息を殺す。
「屋敷に侵入してきた男たちに……。もう、どこも安全ではないの」
「カタリナ……そんなっ!」
マリーは顔を伏せて肩を震わせて泣いた。
その時、外から一際大きな歓声が聞こえた。間もなくして、激しい衝突音が一定の間隔で空気を揺らす。
「なんだ!?」
サナルトゥスが窓の方へと駆け寄る。
「ザンカスト侯国が城門を打ち破ろうとしているの!」
私の一言で使用人たちが慌てふためく。一人が事態を伝えに部屋を飛び出していく。
「オフィーリア……私は、どうしたら?」
「一緒にここから逃げましょう」
「逃げる……?」
「ええ。……ここにいては駄目」
私はマリーに手を差し伸べる。今度こそ、私は彼女を……。
「絶対に助けるから」
彼女は決意したように、小さくだが力強く頷く。
「……分かった」
「マリアベル様!?」
部屋にいた使用人の一人が声を上げた。
マリーはベッドの端に手をつき、ゆっくりと両足を下ろす。
「行こう」
「なりません!」
すぐに数人の使用人が駆け寄った。
「マリアベル様は、まだご出産を終えられて間もないのですよ!」
「そうです。今は絶対に安静にしていなければ……!」
「でも、このままここにいても危険なんでしょ?」マリーは私を見る「……そうなのよね? オフィーリア」
「ええ」
私は頷いた。
「ここにいれば、間もなくザンカストの兵が来るわ」
「そんな……。だからといって、こんな状況でマリアベル様を連れ出すなど……!」
「お嬢様」今度は、サナルトゥスまで困ったような顔をした「僭越ながら……本当に、この方を連れて屋敷を出るおつもりですか?」
「ええ」
「ですが、外はすでに混乱しております。しかもマリアベル様は――」
サナルトゥスは言葉を止めた。言わなくても分かる。マリーは、まだまともに歩ける身体ではない。
「それでも私は行くよ」
マリーが言った。その声に、私は驚いた。
「マリー……」
「私、オフィーリアの言っていることは、よく分からない」マリーは少しだけ困ったように笑った「どうしてザンカストが攻めてくるのかも。どうして、あなたがそんなことを知っているのかも」
「……」
「でも、あなたが、私を助けようとしてくれていることだけは分かる」
胸が詰まった。
「だから、信じるよ」
「マリー……」
「用意をして。外へ出られるように。肩掛けか何か……身体を冷やさないものを」
マリーは使用人たちへ言った。
「ですが……!」
「お願い」
静かな声、それでも、逆らわせない強さがあった。
使用人たちは顔を見合わせ――やがて、一人が慌てて部屋を出ていく。
残った者たちも、戸惑いながらマリーの支度を始めた。
私はその様子を黙って見つめていた。
……助けられる。
今回は、違う。そう思った。




