それは白昼夢か走馬灯か
――さん。
――おとめさん。
「早乙女さんっ!」
「……え?」
呼び声にハッとして目を開けた。
ぼんやりとした視界に映ったのは、燃える屋敷でも冷たい森でもなかった。
見慣れた、懐かしい、あの東京都内の居酒屋の光景だった。
「大丈夫ですか?」
隣に座っていたデバッグチームの同僚が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「グラス、空いてますよー。何か飲みます?」
「あ……」
何を言われているのか、頭が追いつかない。目の前に差し出された飲み放題メニューを見つめる。
「……カシスオレンジ」
「はい?」
「……カシスオレンジ、お願いします」
彼女は少し不思議そうな顔をしながら、近くを通った店員を呼び止めた。
「カシスオレンジ、一つお願いします。……もしかして、酔ってます?」
「いや……」
私は自分の手を見つめた。そこにあったのは華奢な貴族の令嬢の手ではない。見慣れた、二十五歳の自分、早乙女千佳の手だった。
……あれ? 私は今まで、何をしていた?
頭の奥に、あまりに鮮明すぎる凄惨な光景がフラッシュバックのように蘇る。
燃え盛る屋敷。血に濡れたマリー。腕の中で泣き叫ぶ赤ん坊。
そして、暗闇を覆い尽くしたあの青い光。
「……私は」
周囲を見回した。そこにいるのは、『千年を綴る五線譜』のゲーム制作チームのスタッフたちだった。
「主題歌、ついに決まったんだって?」
「ああ。歌い手の人選、めちゃくちゃいいよな」
「俺、あの人、配信者やってた頃からずっと推してたんですよ」
楽しそうな笑い声が上がる。
「でも納期、これ間に合うんですか?」
「間に合わすんだよ」
「ブラックだなぁ」
またドッと笑いが起こる。
「私、マルティナが好きなんですよねー。あのキャラ、絶対人気出ますって」
「分かる。ああいう子、刺さる人には刺さるよな」
それは何一つ変わらない日常の会話。……なのに。私にはその光景が、まるでガラス越しに見ているかのようにひどく遠く物に感じられた。
「これ、売れますかね?」
誰かが不安そうに言った。
「かなり期待はしてるんですけど」
「売れるんじゃないか?」
そんな会話をしていたときだった。少し離れた席にいたシナリオライターの岩井さんが、酒の勢いもあってか、珍しく饒舌に口を開いた。
「なあ」
「はい?」
「この『千年を綴る五線譜』ってタイトルさ」岩井さんは楽しそうにグラスを弄んだ「マリアベルが奏でる『千年のノクターン』のことを指してると思ってるだろ?」
「違うんですか?」
「ああ。違う」
何人かが顔を見合わせた。
「実はな」岩井さんはニヤリと笑った「『千年』っていうのは、テヌール侯国の歴史そのものを書こうと思ってるんだ」
「……歴史?」
「そう。だから本当は、その先もある」
「その先って……続編構想ですか?」
「まあ、そんなところだ」
スタッフたちから小さくざわめきが起こる。
「実はマリアベルはな――」
その名前を聞いた瞬間、私の心臓がドクンと跳ね上がった。
「エンディングのあとに起こる侯国の反乱に巻き込まれて、命を落とすんだ」
「え?」
「マリアベルが?」
「ちょっと待ってくださいよ。さすがにそれは……」
驚きの声が飛び交う中、岩井さんはむしろ楽しそうに話を続けた。
「そこでテヌールは滅びる」
その言葉に、胸の奥が冷たく締め付けられる。何故そんな残酷な話を笑顔で語るの?
「でもな。マリアベルは、一人の娘を残していた」
「娘……?」
「ああ。その子を親友だったオフィーリアが引き取って、密かに育てる」
「えっ、オフィーリアが?」
「その子の名前は――クローディア」
クローディア。その名前に思わず息を呑んだ。
「カシスオレンジでーす」
店員が差し出してきたグラスを私は震える手で受け取った。その間も岩井さんの構想は続いている。
「十五歳になったクローディアが、滅亡したテヌールを再建するために動き始める。そこで何人かの男たちと出会って……そこから次のゲームが始まる」
「それ、完全に続編じゃないですか」
「そういうこと」
スタッフたちは口々に意見を交わし始めた。
「いや、でもマリアベルを殺すのはどうなんです?」
「絶対ファン荒れますよ。せっかく本編で幸せになったのに……」
「だからこそだよ」岩井さんは笑った「ハッピーエンドの、その先だ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中でバラバラだったすべてのパズルが恐ろしい精度で組み上がった。
そうだ。これは過去の記憶だ。
私は知っている。確かに前世の私は、居酒屋で岩井さんからこの話を聞いていたんだ。
あの時は、ただの与太話だと思っていた。
世に出ることもない、酔ったライターの残酷な続編構想だと。
でも違った。
あれは設定資料集にも載らない、あの世界の確定した未来、裏設定だったんだ!
「……テヌールは」私の唇がガタガタと震える「滅びる……?」
そうだ。
テヌールは滅びる。マリーは死ぬ。そしてオフィーリアは……国を失い、追手から逃げ惑いながら、マリーの遺児であるクローディアを十五歳になるまで隠れ潜んで育て上げるんだ。
あの大好きなマリーを失った絶望の中で。
追撃の恐怖と貧困に耐えながら、十五年もの歳月を、ただその子を守るためだけに捧げる――。
それが、オフィーリアに用意された未来だった。
私は自分の胸元を強く掴んだ。
「私は……オフィーリアは……」
声にならない。けれど、理解してしまった。
自分にこれから待ち受けている、凄惨たる十五年間の過酷な運命を。
「……あれ?」
突如、視界がぐにゃりと歪み、瞼が鉛のように重くなった。
酒のせいじゃない。何かが私を引っ張っている。
「早乙女さん?」
隣の同僚の声が、海底に沈むように遠ざかっていく。
「う……ん…」
「ちょ、大丈夫ですか?」
「……ねむ、い」
意識が漆黒の闇へと落ちていく。
騒がしい居酒屋のざわめきも、店員の声も、グラスの触れ合う音も、すべてが消え去っていく。
私はどこへ、行くのだろう?




