血塗られる歴史
数週間後。
マルティナが屋敷を訪ねてきた。
いつものように紅茶を用意させ、庭園の東屋へ向かう。
けれど、その日のマルティナは妙に口数が少なかった。
「どうしたの?」
私は訊いた。
「……何がですの?」
「なんだか、元気がないわ」
「元気がないのではありませんわ」マルティナは紅茶を一口飲んだ。「怒っているのです」
「誰に?」
「アルフォンス侯爵に」
「……」
私は黙った。また、アルフォンス侯国だ。
「父が昨夜、王都から戻ってきたのですけれど……かなり怒っていましたわ」
「何があったの?」
「アルフォンス侯爵が、王国から派遣された役人を追い返したそうなの」
「役人を?」
「ええ」マルティナの声が低くなる。「しかも、領内への立ち入りさえ拒否したんですわ」
「……それは、かなりまずいんじゃない?」
「ええ。かなり」
マルティナはカップを置いた。それから随分悩んだ素振りを見せてから小さく頭を振った。
「……それだけではありませんわ」
「まだあるの?」
「アルフォンス侯爵は、兵を集め始めていますの」
私は息を止めた。
「……兵を?」
「かなり大規模な徴兵と聞いてますわ」
庭園を吹き抜けた風が、妙に冷たく感じられた。
「戦争でも始めるつもりなの? テヌールと?」
「そこまでは分かりません。ただ……父は警戒しています」
「ラバン様が?」
「ええ……。父が言っていましたわ。アルフォンス侯国は、もう王国に対して不満を言っているだけではない」
「……じゃあ、何をしているの?」
「準備しているのだと」
「……何の?」
マルティナは答えなかった。
ただ、静かに私を見つめていた。宰相の娘であるマルティナが、ここまで真剣な顔をすることは珍しかった。
「オフィーリア」
「……なに?」
「グラント様に、念のため確認しておいてください」
「何を?」
「テヌールの軍が、いつでも動かせる状態にあるのか」
その言葉を聞いた瞬間。胸が押しつぶされそうになった。
嫌でも身近に迫る『戦争』の二文字。私は覚悟なんてできていなかった。
ゲーム内のグライアス王国との戦争は勝つことが前提のシナリオだった。普通に勝利が約束されていたし、これを乗り越えてマリーとレヴナスが結ばれるという、ただのイベント上の記号のようなものだった。
でもこのエンディング後の世界では何が起こるかわからない。
「……どんなシナリオが待っているってのよ」
思わず呟いた。
「オフィーリア?」
「ううん……何でもない」
私は笑った。それは誰かに借りたような不自然な笑みだった。
その日の夜。
私は父の執務室を訪ねた。
「お父様」
「どうした?」
「軍のことで聞きたいことがあるの」
「軍?」
父は書類から顔を上げた。
「ええ」
私は一度、息を吸った。
「もしも――国内で、何か起きたら」
父の表情が変わった。
「……何か、とは?」
「その……反乱とか」
沈黙……。それは長い沈黙だった。
そして父は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「…オフィーリア」
「はい」
「その話を、誰から聞いた?」
「マルティナから少しだけ」
「そうか……」
父は窓の外を見た。暗闇の向こうには、王都の明かりが見える。
「ならば、覚えておきなさい」
「……何を?」
「戦争は、国境の向こうからやってくるとは限らん」
その言葉に、私は何も答えられなかった。父は続けた。
「そして一度始まった争いは、始めた者だけでは止められない。……そういうものだ」
私は自分の部屋に戻ってからも、なかなか眠れなかった。
窓の外には、いつもと変わらない王都の夜景が広がっている。街には明かりが灯り、人々はいつも通り暮らしているように見える。
何も変わっていない。そう思いたかった。
そんな不穏な日々の中で、嬉しい知らせもあった。
マリーに、女の子が生まれたのだ。彼女から手紙に書かれていた。
娘の名前は――クローディアだと。
「……女の子なんだ」
思わず頬が緩んだ。本当なら、すぐにでも会いに行きたかった。
けれど、最近の城下や街道の様子を警戒した父から、しばらく外出を控えるよう言われていた。
私はカタリナに頼んで手紙の返事とお祝いの品を届けさせた。マリーに最後に会ったのは三ヶ月前だった。
彼女は今頃どうしているだろうか? 母親らしい顔つきになっているのだろうか? 今すぐ会いたかったがそれも叶わない。
せめて、彼女からの手紙の返事を楽しみに待とう。そう思っていた。
だが、マリーからの手紙が届くことは二度となかった。
それから、しばらくの時が過ぎた。
アルフォンス侯国からの抗議は続いていた。
そんなある日、父から不穏な話を聞かされた。
「アルフォンスが、国境付近で軍事演習を行うそうだ」
「……軍事演習?」
「ああ。領内の兵士の練度を確認するためだそうだ」
父は地図を広げた。指がさし示した演習の予定地は、テヌールとの境界に近い。
「わざわざ、こんな場所で?」
「だからこそ、こちらも警戒せざるを得ない」
テヌールも兵を国境付近へ移動させた。互いに攻撃する意思はない。
そう言いながら、両軍は向かい合った。
そして――事件は起こった。
演習中、両軍の兵士が衝突したのだ。それは小さな小競り合いだった。だが、死者が出てしまった。
アルフォンス侯国は、テヌール軍が先に境界を越えたと主張した。
こちらは、それを否定した。しかし互いの主張は平行線を辿る。
やがて王国が介入し、アルフォンス侯国に兵を撤退させるよう命じた。
だが、アルフォンスはその命令を拒否した。
「もう、演習ではありませんわ」
ある日、お忍びで訪ねてきたマルティナが、そう呟いた。
その言葉通りだった。
ついには王国軍が動き、双方に引くことが出来ないところまできてしまった。
しかし懸念はあった。グライアス王国との戦争で疲弊していたテヌールの兵力はいまだ不十分だった。その間に兵力を蓄えていたアルフォンス侯国との戦いは予想以上に厳しくなるだろう。
そう父グラントは言っていた。
それでも、きっとどうにかなるはず。私は心のどこかでそう思っていた。
しかし、その考えが、どれほど甘かったのか。私はすぐに思い知らされることになった。
*
その日、テヌールの城下で、大規模な火災が発生した。火元は、有力貴族の屋敷だった。
最初は、ただの火事だと思われていた。
けれど――炎は一つではなかった。別の場所からも煙が上がり、やがて城下の至るところで火の手が上がり始めた。
「……何が起きているの?」
私は屋敷の窓から、燃え上がる街を見つめていた。
遠くから、怒号が聞こえる。逃げ惑う人々の姿も見えた。
そして、それから間もなく。
屋敷の中まで騒がしくなった。
「お嬢様!」
一人の使用人が、血相を変えて駆け込んでくる。
「領民たちが暴動を起こしています!」
「暴動……?」
「税の引き下げを求めていた者たちが武器を取り、城下で暴れているようです!」
私は窓の外へ視線を戻した。
血走った目で走り回る男たち。その中には、剣や農具を手にした者までいる。
兵士たちが必死に鎮圧に奔走する。だが、父グラントやレヴナスが従えた主力軍はまだアルフォンスとの戦いの最前線にいる。
城下に残された兵だけで、この規模の暴動を抑えるのは難しい。
それでも、クレール家には私兵がいる。
屋敷の門前では、彼らが必死に暴徒を食い止めていた。
「お嬢様、ここは危険です! お逃げください」
ノックもなしに一人の私兵が飛び込んでくる。その軽装の鎧にはおびただしいほどの血が染み込んでいる。
「逃げる? ……逃げると言ってもどうやって?」
「地下です!」
「地下……?」
「この屋敷には、有事のための隠し通路があるはずです!」
「そんなものが……わかったわ」
そう言って私はハッとなった。侍女のカタリナの姿が見えない。
「待って、カタリナはどこに行ったの?」
私は訊ねた。逃げるならカタリナも連れて逃げないと。
「先ほどから姿が見えません」
使用人が答える。
「そんな……どこに行ったの?」
その時、門の方から大きな歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
「……何?」
私は窓へ駆け寄った。
城壁の向こうから、黒煙が立ち上っている。
「え……」
その直後だった。城壁の上に掲げられていたテヌールの旗がゆっくりと倒れた。間もなくして、代わりに見慣れない旗が翻る。
「あれは……」
「ザンカスト侯国!?」
私兵が困惑気味に声を上げる。
どうして、ザンカストの兵がここにいるの?
答えを考える暇もなかった。ザンカスト兵は騎馬を用いてクレール家の門を呆気なく突破した。
彼らの怒涛の進撃の前に、クレール家の私兵が次々と倒れていく。
火矢が放たれ、屋敷の周囲にも炎が上がった。
「ザンカストはアルフォンスと繋がっていたのか!?」私兵が顔を歪めながら叫んだ「こうなるとリース侯国も恐らく……!」
「どうして……? どうしてこんなことに?」
「お嬢様、いち早くお逃げください! そのお召し物ではすぐに身分がバレてしまいます。今すぐ使用人の私服にお着替えください。殿方は一度退室を」
もう、思考が追いつかなかった。私は使用人に促されるままにドレスを脱ぎ、平民の服へと着替える。
ドレスを脱ぎ捨てたままにしたら、乗り込んできたザンカスト兵に変装を疑われる。何故かそこだけ冷静になり、私はドレスをしまうためにワードローブを開いた。
「あ……」
まるで導かれるように私の視線は小さな小箱に向けられた。その中には約四年前にクアンタームから受け取った青い宝石の埋め込まれたペンダントが入っていた。
藁にもすがる思いだった。私はそのペンダントを首に掛ける。
「……行きましょう」
私は部屋を後にして、私兵の後に続き、地下室へと向かった。
地下室へ降りると、私兵の男が壁際へ歩み寄った。
「ここです」
男は石壁に埋め込まれた小さな金具を手探りで探し、いくつかの場所を順番に押していく。
やがて、ガコンという重い音が響き、目の前の石壁がゆっくりと奥へ沈む。
「……開いた」
奥へと続く長い暗闇。私たちは壁に手を突きながら足を踏み入れる。
「執事のダース氏に、この仕掛けを聞いていたのです」
男は言った。
「……ダースは?」
私が尋ねても、彼は答えなかった。ただ、俯いた。
「……そう」
それだけで十分だった。
狭い通路だった。壁も床も石造りで、湿った空気が肌にまとわりつく。
遠くから、屋敷の外で響く怒号や剣戟の音が聞こえていた。
「恐らく、もうすぐです」
私兵がそう言った。
やがて、前方に淡い光が見えてきた。
「出口……?」
私は安堵しかけた。が、何かがおかしい。
私兵も足を止めた。
「……変ですわね」
「……ええ。明るすぎる」
「……」
隠し通路の出口は恐らく閉ざされているはずだ。
それなのに。前方から差し込んでくる光は、隙間から漏れている程度にしてはあまりにも明るかった。
まるで――昼間の太陽が、そのまま地下まで入り込んでいるような。
その時だった。
「なんで!? きゃあああっ!」
悲鳴が響いた。
「……!」
私たちは顔を見合わせた。
直後、陽の光が差し込む階段の上から、何かが転げ落ちてきた。何度も身体を打ちつけながら、それは階段を落ちてくる。
「なに……?」
それが階段の途中で止まった。
見覚えのある服。長い銀色の髪。そして、割れた眼鏡。
「……え?」私は一歩、後ずさった。「カタリナ……?」
返事はなかった。胸からはおびただしい量の血が流れている。
割れた眼鏡の奥で虚ろな瞳が、こちらを見ていた。
疑う余地などなかった。彼女は、既に死んでいた。




