⑦お泊まり会
月曜日。
教室の前で、琥珀は小さく息を吐いた。
(……気まずい。)
昨日のことが頭から離れない。結乃は秘密を知ろうとしていた。でも最後には聞かなかった。
「友達だから」
その言葉だけが、何度も頭の中を巡っていた。
意を決して、ガラガラと音を立てて教室のドアを開けた。
「おはよー!」
聞き慣れた元気な声。沙耶が大きく手を振っていた。いつもと変わらない、太陽みたいな笑顔だ。
「お、おはよう」
「ねぇねぇ! 今日さ、放課後ヒマ? うち来ない?」
返事をする間もなく、沙耶が机へ身を乗り出してきた。
「ゲームあるし、映画も観れるし、お菓子もいっぱいある! 三人で遊ぼ!」
いつもの怒涛の勢いだった。昨日の出来事なんて、何も知らない。だからこそ、その無邪気な笑顔が今の琥珀には本当にありがたかった。
「私は行く」
背後から、結乃があっさり答えた。いつの間にか琥珀の後ろに立っていたらしい。
「早いな」
「断る理由ない。日常フェーズにおける観察も不可欠」
結乃は相変わらずのポーカーフェイスだ。沙耶が期待に満ちた目で琥珀を見る。
「琥珀ちゃんは?」
「……うん。予定ないし、行こうかな」
「やったぁ! じゃあ決まり! 今日は私んちで女子会だね!」
女子会、というワードに一瞬だけ琥珀の心臓がビクッと跳ねた。
⸻
放課後。三人はそのまま沙耶の家へ向かった。
到着した場所は、立派な門構えの広い一軒家だった。
「すご……」
思わず声が漏れる。
「普通だよ?」
「屋敷じゃない」
結乃が間髪入れずに即答する。
「敷地面積から推測するに、都内の平均値よりかなり広い。おそるべき一般人の感覚麻痺」
「そうなの?」
沙耶は本当に分かっていないらしい。「上がって上がって!」と二人を部屋へ促した。
⸻
それからは、まさに絵に描いたような放課後のひとときだった。
まずはテレビゲーム。沙耶が持ってきた格闘ゲームを三人でプレイした。
「うりゃりゃりゃりゃ! 必殺技連打ー!」
大騒ぎする沙耶を、結乃は寸分の無駄もないボタン操作で完封していく。さすがは世界レベルの頭脳だ。完全にゲーム空間を支配していた。
「うわあああ! 結乃容赦ない! 琥珀ちゃん助けて!」
「よし、仇を取ってやる!」
琥珀が参戦する。元男子のプライドにかけてコンボを叩き込むが、結乃は恐ろしい速度でこちらの癖を学習し、完璧に対策されて琥珀もボコボコにされた。
「……強い。強すぎる。なんなんだよお前の脳内スペック……」
「ただのパターン認識」
その後は、山のようなお菓子をつまみながら、人気のホラー映画を観ることになった。
部屋の明かりを暗くして、上映開始。
暗闇の中、結乃がポップコーンを口に運びながら、ぼそりと呟いた。
「この構造だと、次は右から出る」
直後、画面の右側から血塗れの幽霊が飛び出してきた。
「きゃああっ!」
沙耶が叫んで琥珀にしがみついてくる。
(うおっ!? 近い、沙耶、密着しすぎ……!)
柔らかい感触が二の腕に当たり、琥珀の脳内は大パニックだ。しかし結乃の淡々とした予言は止まらない。
「この金髪の人物は死亡確率七十八%。……ほら、すぐやられる」
結乃がそう言うと、画面の中のキャラクターが悲鳴を上げて引きずり込まれた。
「予測が百発百中すぎて逆に怖いよお前!!」
琥珀が思わずツッコむ。怖がる沙耶をよそに、結乃の恐るべき洞察力と、それを前にしても動じない琥珀の妙な冷静さが浮き彫りになっていく。気付けば時計の針は夜の十時を回っていた。
「あ、もうこんな時間! 帰る?」
沙耶が壁の時計を見る。窓の外は真っ暗闇だった。
「……危ない。夜間の女子高校生の単独行動は推奨できない」
結乃が真面目な顔で呟く。
「じゃあ! 私の部屋でみんなで寝よ! お母さんにも『いいよ』って言われたし、お泊まり決定!」
「また勝手に決める」
結乃がふっとため息をつく。
「朝に帰宅するより安全。私は沙耶の提案に同意する」
「え、結乃も!? ……う、うーん。分かった、じゃあお言葉に甘えようかな。姉貴には連絡しとく」
「やったぁー! 初お泊まり会だー!」
沙耶が飛び跳ねて喜ぶ。琥珀はスマホを取り出し、璃子に連絡を入れた。すぐに『変態だねー』とからかいの返信が返ってきた。
⸻
お泊まりが決まり、さあお風呂に入ろうという時、仕事から帰ってきた沙耶のお母さんが申し訳なさそうな顔で部屋にやってきた。給湯器の調子が悪く、お湯が出なくなってしまったらしい。
「あちゃー、お風呂壊れちゃったかぁ……」
沙耶は一瞬がっかりした顔をしたが、すぐに目を輝かせた。
「あ、でも大丈夫! レトロで大きな銭湯が近くにあるの! よーし、銭湯に行こ!」
「せ、銭湯!?」
沙耶の提案に、琥珀の心臓が本日何度目かの跳ね方をした。家のお風呂なら順番に入るという言い訳もできたが、銭湯となれば話は別だ。逃げ場がない。
「いい。銭湯、日本の伝統文化を体験する絶好の機会」
結乃までノリノリになり、琥珀は断るタイミングを完全に失ってしまった。
「そうと決まれば、はいこれ! 二人の着替えね!」
沙耶がクローゼットから大きめのTシャツやスウェットを引っ張り出してくる。
沙耶の部屋着を着た二人の姿は、かなり不揃いだった。
現在の琥珀の身長は百五十六センチ。女の子としては平均的だが、百六十三センチと少し高めな沙耶の服を着ると全体的に少しぶかぶかで、袖から指先が少し覗くくらいの絶妙なサイズ感になる。元男子としては少し落ち着かないシルエットだ。
一方、百五十二センチとさらに小柄な結乃は、完全に服に溺れていた。萌え袖どころか、完全に長すぎて腕が一本も出てこない。裾も引きずりそうなほどだ。
「……身体の規格に対して、衣服のサイズが著しく過剰。歩行時の転倒リスクが跳ね上がる」
結乃が長い袖をブラブラさせながら無表情で言う。
「あはは! 結乃ちっちゃくて可愛い! これじゃ歩けないね。あ、じゃあ中一の時に使ってたスウェットならいけるかも! 待ってて!」
沙耶はそう言うと、タンスの奥から少し小さめの部屋着を持ってきて結乃に渡した。
「それと、パンツは使ってない新品のあげるから安心して! 実はさ、サイズ間違えて中学生用の一回り小さいやつ買っちゃったのが三枚あるんだよね。返品も面倒だから、それそのまんま結乃にあげる!」
「……感謝する。ジャストサイズ。私の体型は中学一年生レベルで停滞しているという事実の証明」
「そこは気にしないで!」
そんな賑やかな準備を終え、三人はバスタオルと借りた服をバッグに詰め込み、近くの銭湯へ向かうことになった。ガラガラと引き戸を開け、男湯と女湯に分かれた暖簾をくぐり、当然のように『女湯』へと足を踏み入れる。琥珀の心の中で、かつてあった男子としての境界線が、少しずつ形を変えていくのを感じていた。
(本当に、入るんだよな……俺、いや私……)
脱衣所で沙耶と結乃がためらいもなく服を脱ぎ始める中、琥珀はガチガチに緊張しながらゆっくりと服を脱いだ。
否応なしに視界に入ってくる、二人のありのままの姿。沙耶の健康的で引き締まった身体と、結乃の白くてどこか神秘的なプロポーション。
中身が男子の琥珀からすれば、本来なら脳がバグって鼻血を吹いて気絶してもおかしくない大イベントのはずだった。しかし──。
(……あれ?)
琥珀は、自分の心臓がまったくバクバクしていないことに気がついた。もちろん、目の保養というか「うわ、すごいな」とは思う。けれど、かつて男だった頃に抱いていたような、ドギマギするような理性の危機や、変な興奮がこれっぽっちも湧き上がってこないのだ。
(なんでだ? 私がもう完全に女の身体になっちゃったからか……?)
いや、違う。琥珀は自分の胸元へと視線を落とした。
(……自分のこの身体を、毎日毎日見すぎてるからだ!)
鏡の前で嫌というほど見せつけられている美少女としての自分の肉体。そのせいで、同年代の女子の裸を見ても、脳が『日常の延長線上にあるもの』として自動的に処理してしまっているのだ。
自分がこの女子の空間にいることが、少しずつ当たり前になりつつある。その事実に、琥珀はわずかな戸惑いを覚えた。
「琥珀ちゃん、早く入ろー!」
「琥珀、置いていく」
「あ、ああ、今行く!」
どこか呆然としながら二人の後を追い、浴場に入り、体を洗って軽く湯船に浸かった。大きな富士山の絵を眺めながら浸かるお湯は、驚くほど心地よかった。
すると、さっとお湯から上がった沙耶がサウナの扉を指差した。
「あ、サウナもあるじゃん! ちょっとだけ入ってみようよ!」
「……賛成。サウナによる発汗作用はデトックス効果が高い」
二人に引っ張られるようにして、琥珀もサウナ室の重い扉を開けた。
ムッとする猛烈な熱気と、どこか静まり返った空間。三人は並んで雛壇に座る。
開始からわずか一、二分。琥珀は、ふと隣の沙耶に目を向けた。
サウナの熱気で、沙耶の全身がじっとりと汗ばんでいる。濡れた髪が首筋に張り付き、健康的な白い肌がいつもより少し色っぽく見えた。湯船の中では『日常』としてスルーできていたはずなのに、この狭くて熱い空間のせいか、急に「女の子」として意識させられるような、妙な生々しさが迫ってくる。
(……ッ!?)
ドクン、と心臓が変な跳ね方をした。
かつて男だった頃の理性が、一瞬だけ「やべぇ、なんか緊張する……」と警報を鳴らす。
「ふぅー、やっぱりサウナは熱いねぇ。琥珀ちゃん、大丈夫?」
沙耶が無邪気に顔を覗き込んできて、琥珀は思わずのけ反った。
「だ、大丈夫! ちょっと熱気がすごくて……私、先に、出るわ!」
これ以上ここにいたら変な汗まで出てきそうだ。琥珀は逃げるようにサウナ室を飛び出した。
「ふぅー……っ!!」
外に出た瞬間、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込む。琥珀は赤くなった顔を両手で覆った。
(……いやいや、今のドギマギは絶対に違う。サウナが暑すぎて心拍数が上がったのを、脳が勝手に勘違いしただけだ。熱気のせい、全部熱気のせい……!)
そう自分に必死に言い聞かせながら、琥珀はシャワーの冷水を頭から浴びて、火照った身体と雑念を綺麗に洗い流した。
少し遅れて、沙耶と結乃も「あちちち!」と言いながらサウナ室から出てきた。
「あ、琥珀ちゃんもうシャワー浴びてる! 私たちも浴びて、水風呂いこ!」
三人で汗をしっかりとシャワーで流してから、ひんやりとした水風呂へと足を浸す。
「冷たーーーいっ!! でも気持ちいいいぃ!」
沙耶が生き返ったように声を上げる。
「……ん、脳内の乳酸が急速に分解されていく感覚。これが世に言う『ととのう』というバグ技……」
結乃も隣で心底気持ち良さそうに目を細めていた。
冷たい水に包まれながら、琥珀はさっきのドギマギを水に流すように、ふぅと深い息を吐き出した。女子としての心地よさに、どうしても身を委ねてしまう自分がいた。
⸻
湯船から上がり、広々とした銭湯の脱衣所で体を拭く。ここで沙耶が「あ、忘れてた!」と、自分のバッグからビニール入りの新品のパンツを取り出した。
「はいこれ、さっき言ってたやつ! 三枚全部あげる!」
脱衣所のベンチで、沙耶が結乃にそのまんまポンと手渡す。
「……ありがたく受け取る。これで向こう三日間の下着ローテーションが確定した」
結乃は淡々とそれを受け取り、さっそく中一サイズのスウェットと一緒に身に付けた。今度はサイズがぴったりで、ちゃんと手足も出ている。琥珀も少し大きめのTシャツをすっぽりと被り、髪をタオルでガシガシと拭きながら、二人のやり取りを見て小さく笑った。
湯上がりのポカポカとした気だるさと、夜風の涼しさを感じながら、三人は沙耶の家へと戻り、敷かれた大きな布団の上に並んだ。部屋の中にはシャンプーのいい香りが充満している。
(空間の女子力が限界突破してる……!)
琥珀が布団の端っこで小さくなっていると、沙耶が急に立ち上がった。
「さて! ここからがお泊まり会の本番です! 一番最初に寝ちゃった人、明日の朝ごはんのお皿洗い担当ね!」
「……何その地味に嫌なゲーム」
「最後まで起きてた人の勝ち! 夜更かしして喋り倒すの!」
「意味分からん。睡眠不足は脳のパフォーマンスを低下させるだけ」
「いいの! 楽しければ!」
⸻
しかし、ゲーム開始からわずか十分後。
「…………」
沙耶の頭が、コクン、と前に倒れた。数秒後にはまたコクン。
「……」
「……」
琥珀と結乃は、寝そべったまま無言でその様子を見つめる。
「はっ! 寝てないよ! 私はまだ起きてる!」
「寝てた。完全に意識がシャットダウンしていた」
結乃が容赦なく即答する。
「寝てないってば! ちょっとディープな考え事をしてただけ!」
「目閉じてた。呼吸の周期も睡眠時のそれに移行していた」
「むぅぅ!」
沙耶は悔しそうに頬を膨らませ、ガシッと自分の枕を掴んだ。
「こうなったら! 眠気なんて物理で吹っ飛ばす! 枕投げ開始ー!!」
「は?」
ボフッ! ボフッ!
無防備だった琥珀の顔面に、柔らかい枕がクリーンヒットする。
「痛っ! なにするんだよ!」
「えへへ! 当たったー! 逃げろー!」
「参戦。これは有効な覚醒手段」
結乃までが、いつになく目をギラつかせて自分の枕を持ち上げた。
「おい、結乃まで!? 待て、お前ら──」
ボフッ! ボフッ!
「二対一はずるいって! 待て、私の枕をくらえ!」
いつしか、琥珀も恥ずかしさを忘れて夢中で枕を投げ返していた。三人の笑い声が、夜の部屋に響き渡った。
⸻
それからさらに十分後。
「はぁ……」
「疲れすぎ……」
「もう限界……」
体力尽きた三人は、それぞれの布団の上へとバタバタ倒れ込んだ。しばらくの間、誰も動かない。
「すぅ……、すぅ……」
一番最初に規則正しい寝息を立て始めたのは、もちろん言い出しっぺの沙耶だった。
結乃が首だけを動かして、小さく呟いた。
「……寝た」
琥珀が小さく苦笑する。
「自分でルール決めたのにな。本当にあいつは自由っていうか……」
「皿洗い決定。明日の朝、不当性を訴える確率百%」
「だな。明日よろしくって感じだ」
「了解」
二人は、沙耶を起こさないように声を潜めながら、ふふっと小さく笑い合った。部屋は急に静かになる。さっきまでの大騒ぎが嘘みたいだった。
確かな信頼感が、この静寂の中で完成していく。
結乃が再び天井を見つめ、静かに、ぽつりと口を開く。
「……琥珀」
「ん?」
「昨日の件」
少しだけ間が空く。
「……すまん。詮索しすぎた。秘密を暴こうとして、他人の領域に土足で踏み込むのは非論理的だった。……悪かった」
結乃なりの、ぶっきらぼうで真っ直ぐな謝罪。琥珀は天井を見つめたまま、小さく笑った。
「……いいよ、もう気にしてない。結乃、最後は聞くのやめてくれたしな」
「……友達だから。私の論理回路が、お前の秘密を知ることよりも、今の関係を維持することを選択した」
淡々とした口調だけど、そこに確かな信頼がある。その言葉に、琥珀も男友達と話す時のような、サッパリとした心地よさを感じていた。
「……そっか。ありがとな、結乃」
「うん」
会話が途切れ、部屋は静けさに包まれる。琥珀はそっと掛け布団を胸元まで引き上げ、潜り込んだ。
「眠い。もう限界」
「私も。今日は色々歩き回ったしな」
「じゃあ寝るわ。おやすみ、結乃」
「……おやすみ、琥珀」
その数分後。部屋には、三人の穏やかで優しい寝息だけが静かに響き渡っていた。




