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⑩修学旅行!!(後半)

「――はい、それじゃあ各自部屋で三十分休憩! 荷物を整理したらロビー集合! 遅れた班は夕食抜きだからなー!」

引率の教諭による拡声器越しの怒号が、歴史ある温泉街の一角に建つホテルの廊下を駆け抜けた。

生徒たちは一斉に歓声を上げ、それぞれの客室へと雪崩れ込んでいく。賑やかな足音と弾けた笑い声が壁を伝い、空間そのものを熱く染め上げていく。

そんな喧騒の只中において、東雲琥珀だけは魂の抜けた泥人形のように、完全に廊下の隅で硬直していた。

(…………。)

(来た。ついに来てしまったぞ……この、修学旅行という名の死の迷宮が。)

脳裏を過るのは、数日前に女子更衣室で目撃した悪夢のような光景や、肉体の構造的な秘密が露見したときの阿鼻叫喚の地獄絵図だ。精神のキャパシティが限界を突破し、膝が笑い始めたその時だった。

「琥珀ちゃーーん! 早く早くー!」

「うわっ!?」

ぐいっと強引に腕を掴まれ、視界の端がぐらりと大きく揺れる。

振り返れば、沙耶が満面の笑みを咲かせながら琥珀の腕にギュッと身体を密着させ、有無を言わせず引っ張り回してきた。よりによって、彼女が引きずるキャリーケースのレインボーラメが、夕暮れの廊下でやたらと毒々しく光り輝いている。

(近い、近いって!! 腕から伝わってくる体温と柔らかさが、無駄に解像度高すぎるんだけど!)

「待ってってば! 腕がもげる! 関節が逆方向に曲がる!」

「置いてくよー! ほら、走る走る!」

エレベーターホールへと駆ける二人の背後から、結乃がトタトタと静かな足音を響かせて追い付いてきた。彼女はすっと眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる。

「……観測データ。現在、琥珀の心拍数、推定142回毎分。」

「実況するな! なんで脈拍まで見ただけで分かるんだよ!」

「汗量増加、および視線の遊泳。顕著な挙動不審。……実にわかりやすい。」

「うるさいわ!」

軽妙に言い返しつつも、到着したエレベーターに乗り込む。五階のボタンが点灯し、扉が開くと、同じ階に割り当てられた他の女子グループがロビーからはしゃぎながら現れた。

「あ、琥珀ちゃんたち同じ階じゃん!」

「あとで部屋遊びに行くねー!」

「夜は絶対、女子だけでガチの暴露大会しよ!」

その「暴露大会」という不穏な単語の響きに、琥珀はビクッと脊髄反射的に肩を跳ね上げた。

(終わった……私の平穏な日常が、今、音を立てて崩れ去った……)

「琥珀ちゃん、聞いてる?」

(終わったぁぁぁ!!)

「聞いてるけど精神が死んでる!」

「え? 何が終わってるの?」

沙耶がきょとんと無邪気な首をかしげる。その混じり気のない瞳の眩しさに、琥珀は眩暈を覚えた。

一方の結乃は、冷静に手元の案内図と部屋番号を照らし合わせ、こくりと頷く。

「五〇八号室。ここだ。」

電子カードキーが鈍い音を立てて緑色のランプを灯し、重厚な扉がゆっくりと滑らかに開いた。

「おぉぉーー!! 広い!!」

沙耶が歓声を上げ、まっ先に畳敷きの和室へと飛び込んでいく。

窓の向こうには、古都・京都の夕暮れの街並みが静謐に広がっていた。暮れなずむ空の下、瓦屋根が連なる風情ある景色は息を呑むほど美しく、これから始まる旅の非日常を鮮やかに告げている。

(……すげぇ。本当に、私、京都に来たんだな……)

張り詰めていた神経がほんの少しだけ弛緩し、琥珀は窓の外のパノラマにほんの一瞬だけ胸を熱くさせた。

だが。

(――って、浸ってる場合かぁぁぁ!!)

琥珀の視線は、部屋の奥の床の間に綺麗に畳まれて置かれた四人分の浴衣、そしてその傍らに無慈悲なまでに並べられた、大浴場行きの「編み籠」へと釘付けになった。

(夕食前に入浴してもいいぞって、さっき添乗員が……つまり、今から全員で大浴場になだれ込む流れになるじゃねぇか……っ!)

背筋を冷たい汗が一本、スッと滑り落ちる。

その逃げ場のない絶望の淵で、沙耶がクルリと振り返った。手にしていた浴衣をふわりと抱え込みながら、天使のような笑顔を向ける。

「ねぇねぇ琥珀ちゃん、みんなで一番風呂行こ!」

(…………え?)

「琥珀?」

(いやいやいやいや、待て待て待て! 私は中身が元男子なんだぞ!? 一緒にお湯に浸かったが最後、歴史の教科書に載るレベルの大惨事になるだろ……!)

内なる絶叫で白目を剥きかけたその時、開け放たれたままの扉から、隣室の女子たちがぞろぞろとなだれ込んできた。

「ねぇねぇ、こっちの部屋も一緒にお風呂行こうよ!」

「人数多い方が絶対楽しいじゃん!」

(増えたぁぁぁぁ!! 人数が倍になってるじゃねぇか!)

完全包囲。逃げ場ゼロ。

「あはは……そうだね、みんなで行けたら、楽しい、ね……」

強烈な引きつり笑いを顔面に貼り付けるのが、今の彼女にできる精一杯の抵抗だった。

「その前に、荷物整理が先。」

結乃の冷徹にして的確な一言によって、修羅場へ直行しそうだった空気が一瞬だけ引き戻される。沙耶は「あ、その手があったか!」と目を輝かせ、持参した巨大なキャリーケースを勢いよく床に倒した。

バサァッ!!

トランクの口が開いた瞬間、雪崩を打ったように大量のお菓子が畳の上に盛大に飛び散った。

ポテトチップス、チョコレートのファミリーパック、色とりどりのグミ、高級クッキーの缶、そして大量のラムネ。

「えへへ……ちょっと買いすぎちゃった。」

「ちょっとどころの騒ぎじゃねぇよ! 修学旅行じゃなくて売店でも開く気かおい!」

琥珀の全力のツッコミに、部屋中の女子たちがドッと沸き返る。

結乃は床に散らばった糖分の山を、冷徹な検察官の眼差しで見下ろした。

「分析。三日間の滞在期間を考慮しても、このカロリー量は明らかにオーバースペック。摂取すれば消費カロリーの超過は二・七倍。……確実にデブる。」

「単語のチョイスとキレ味が辛辣すぎない!?」

賑やかな笑い声が和室の天井裏へ反響する中、沙耶がチョコの小袋をプチッと乱暴に引き裂き、琥珀の隣へピトッと隙間なく身体を寄せてきた。

「はい、あーん!」

「えっ、ちょっ――んぶっ!?」

有無を言わさず、口元へ甘いチョコレートが押し込まれる。

「おいしい?」

「……ぉ、おいしいけどさ! 物理的な距離感がちょっとバグってないか!?」

「えー? いいじゃん、減るもんじゃないし!」

沙耶は悪びれもせずケラケラと笑い、結乃もまた、どこか満足げに「……ふむ、糖分補給の重要性は理解した」と小さく呟く。

(……こういう他愛のない時間だけを切り取れば、本当に、ごく普通の楽しい修学旅行なんだけどな。)

しかし、その平穏な日常の仮面は、次の瞬間にはもう剥ぎ取られる運命にあった。

「じゃあ、荷物の片付けも終わったし、みんなで浴衣に着替えちゃおー!」

沙耶の底抜けに明るい掛け声を合図に、部屋を陣取っていた女子たちが、何の躊躇もなく一斉に制服のブラウスのボタンへと手をかけた。

(…………っ!?)

琥珀の全身の毛穴という毛穴が、一斉に逆立った。

目の前で、何段もの防壁が崩壊するかのように、次々とシャツが脱ぎ捨てられていく。

(まっ、待て待て待て待て! なんだこの圧倒的な女子部屋のリアルな生態系は……っ!)

(女子って、こんなに平気で他人の目を気にせず服を脱ぎ捨てる生き物なのか……!? 文化の壁が厚すぎて、脳内の血管が焼き切れるわ!!)

あまりの刺激の強さに顔面を真っ赤に染め上げ、琥珀は両手で自分の目をガッチリと覆い隠した。

指の隙間から不覚にも景色が漏れそうになるたび、心の中で阿鼻叫喚の地獄絵図がループする。

――だが、その混乱の渦中で、ふと冷徹な現実が彼女の脳裏を殴りつけた。

(……待てよ?)

(これだけ目の前で女子たちが無防備に着替えているというのに……不思議と、かつての男としての下心が疼くような感覚は、驚くほど綺麗にゼロだ……。むしろ、脳の奥底が『これは同じ女子の着替えなのだ』と、あまりにも自然にその光景を受け入れ始めている……?)

(あ、そうか……。)

(沙耶も、結乃も、この部屋にいる誰もが……こうやって何食わぬ顔で同じ時間を共有し、ここにあるのは、男の視線など存在しない、純粋で絶対的な安心の空間なんだ。)

自分を取り巻く世界が、いつの間にか「女子の生態系」の一部として、彼女の存在をナチュラルに包み込み始めているという現実。

(……最初はあんなに『女の園なんて無理! 怖い!』って怯えてたのにさ。)

(こうやって、当たり前のように女子の輪の中に混ぜてもらえて、みんなと一緒に腹を抱えて笑い合えてる……。)

(ここが、今の私の、本当の居場所なんだな……。)

恐怖と焦燥の裏側に、ほんのりとした温かさと、こそばゆくて涙が出そうなほどの幸福感が胸の奥を満たしていく。

(――って、感動してる場合かぁぁぁ!! 浸ってる場合じゃねぇよ、この直後にガチで大浴場という名の処刑場が待ってんだよ!!)

感動の余韻を自らの一喝で完膚なきまでに叩き潰していると、見違えるような浴衣姿へと変身を遂げた沙耶たちが、一斉に琥珀の方へ振り返った。

「わあーっ! 琥珀ちゃん、その浴衣めちゃくちゃ似合ってる!」

「えっ!?」

「本当だ、すっごく可愛い! ちょっと髪触っていい? ……うわ、シャンプーの匂いめっちゃいい!」

「ほっぺも柔らかくてモチモチ〜!」

「ちょっ、みんな!? 一斉にどこ触って――!」

あっという間に女子たちの群れに囲まれ、艶やかな黒髪をいじられ、柔らかくなった頬をぷにぷにとつままれ、腕をガッチリと組まれる。

「可愛い」という言葉の暴力だけで、部屋のテンションが沸点へと急上昇していく。

「はいはい、みんな並んで! 記念撮影するよ、写真!」

「思い出に残さなきゃ!」

「琥珀ちゃん、こっちの隣空いてるよ!」

沙耶が琥珀の肩にピトッと頬を密着させ、満面の笑みでピースサインを作り上げる。

(近い、近すぎる! でも……やっぱり、すげぇ楽しいな、この空間……っ!)

パシャリと電子音が鳴り響き、スマホの画面の中には、はじけるような笑顔の女子たちと、顔を真っ赤に染めながらもどこか嬉しそうに微笑む琥珀の姿が鮮明に切り取られていた。

だが、記念撮影の熱気がほんの少しだけ落ち着いたその瞬間。

別のクラスから遊びに来ていた女子の一人が、パッと両手をパンと叩いた。

「そうだ! せっかくみんなで浴衣に着替えたんだしさ、修学旅行の夜恒例のやつ、やろっか!」

「いいねー! 修学旅行の夜といえば、やっぱり女子トークでしょ!」

(き、来たぁぁぁ――っ!!)

逃げ道を完全に塞がれた琥珀の背筋を、再び氷のような冷え込みが駆け抜ける。

「この部屋の中で、一番可愛いと思う子は?」

「隣で一緒に眠るなら誰がいい?」

「もし一日だけ男の人になるとしたら、誰を口説く?」

「ねえ、一番『お姉ちゃん』っぽいのは?」

「それなら、逆に『妹』にしたいのは誰?」

「じゃあさ、冗談半分で『恋人にするならこの人』っていうのもアリじゃない?」

矢継ぎ早に飛び出す、甘く無邪気な質問の数々。

女子特有の距離感の近いトークテーマに、部屋の空気が一気に百合じみた甘酸っぱさへと塗り替えられていく。沙耶も目をキラキラと輝かせ、「それ面白そう! やるやるー!」と両手を叩いてはしゃぎ出した。

結乃だけは、部屋の隅の座布団の上にあぐらをかき、どこか意味深で冷徹な、しかし最高に面白がるような目を向けている。

「ふふ、じゃあさ……まずは一番リアクションが新鮮で可愛い、琥珀ちゃんからいこっか!」

「えっ、私!? なんで私なの!?」

「琥珀ちゃん絶対モテるもんね! じゃあ直球で質問、『この部屋の中で、一番一緒にいたい・安心できる子は誰?』ってことで!」

部屋中の視線、そして無数の期待と好奇心が入り混じったキラキラした瞳が一斉に琥珀へと突き刺さる。

(やばい、逃げ道が物理的にゼロだ……っ!)

その絶望的な沈黙の中、結乃が冷淡に右手を上げ、容赦なくトドメのトスを上げる。

「……観測データ。心拍数、再び160へ急上昇。完全な逃走不能状態。」

「実況するな結乃ぉぉぉ!!」

冷や汗を滝のように流しながら、琥珀は乾いた唇を震わせ、限界まで回転させた脳みそからかろうじて言葉を絞り出した。

「えっと……その、一人に絞るなんて無理だし! みんなといると……自然と、安心できる、かな……!」

一瞬、部屋の空気がフリーズする。

直後――。

「「「きゃーー――っ!! それ反則――っ!!」」」

女子たちの黄色い歓声が、旅館の古い柱をグラグラと揺らした。

「なにそれズルい! 返しがイケメンすぎでしょ!」

「絶対誰か特定の心当たりある顔してるー!」

(ふぅ……命拾いした……っ!)

内心でガクガクと崩れ落ちそうになったその瞬間、座布団の上の結乃がスッと美しい指をさらに立てた。

「……追加の質問。」

「え、な、なに結乃ちゃん……?」

「その『安心できる子』……今、この部屋の、この距離にいる?」

「…………っ!?」

部屋の空気が完全にピタリと止まる。女子たちの目が一瞬にして鋭く、そして最高に面白がるような光を帯びて爛々と輝いた。

「え、待って、それってつまり……灯台下暗しってやつ!?」

「誰!? この中に本命がいるの!?」

「……ふふ、完全に動揺している。」

「補足するな結乃ぉぉぉ!!」

沙耶までが我慢しきれず身を乗り出してきて、琥珀の顔を至近距離で――それこそ鼻の頭が触れ合いそうなほどの距離で覗き込んできた。

「教えて教えて! 誰といると一番安心できるの、琥珀ちゃん!?」

「ち、違うってば! そういう意味じゃなくて――!」

絶体絶命の包囲網。言い逃れのできない、甘酸っぱさと極限の冷や汗が入り交じったカオスな状況へと追い詰められたその瞬間──。

ピーンポーン。

ホテルの無機質な館内放送のチャイムが、これ以上ない絶妙すぎる、あるいは慈悲深いタイミングで鳴り響いた。

『――まもなく、入浴および消灯の時間となります。各部屋の生徒は、速やかに就寝の準備をしてください。』

一瞬の静寂のあと、「えぇーー!」「まだ全然足りないよー!」と不満と名残惜しさの声が部屋中に爆発する。

「続きは明日ね!」「絶対だからね、おやすみー!」

熱を帯びたまま、隣室の女子たちがキャッキャと笑い声を上げながら次々と部屋から引き揚げていった。

重い扉が閉まり、和室にようやく穏やかな静けさが戻る。

「はぁぁぁ……死ぬかと思った……。」

琥珀はその場にフローリングへとヘナヘナと崩れ落ちた。

「琥珀ちゃん、さっきからずっと顔真っ赤だったねー。一体、誰のこと考えてたんだろ?」

沙耶がケラケラと愛らしく笑いながら、上から覗き込んでくる。

(考えてたのは「どうやったらこの修学旅行を無事に生き延びられるか」と……あと、みんなと一緒にいるこの居心地の良さ、かな……)

ぐったりと溶けている琥珀をよそに、沙耶は浴衣の裾をパタパタさせながら軽やかに立ち上がった。

「よしっ! 恋バナの続きはまた明日にするとして……そろそろ大浴場行こっか!」

「みんなで一番風呂、貸し切り状態ですぐ行けるよ!」

その無邪気な一言を聞いた瞬間、琥珀の全身の血液が、音を立ててサーッと逆流していくのが分かった。

(……って、やっぱりそこは逃げ場なしの地獄へ直通じゃねぇかぁぁぁ!!)

「ほら、琥珀ちゃんも自分の籠持って!」

沙耶がまばゆい笑顔で振り返り、無慈悲に手招きをする。


⸻


琥珀の修学旅行最大の試練が、今まさに始まろうとしていた。

沙耶

「ねぇ、普通って修学旅行は二年生じゃない?」


琥珀

「私もそう思った。」


結乃

「作者の都合。」


璃子

「……つまり無理やり?」


作者

「…………。」


琥珀

「否定しないんだ。」


結乃

「実質、認めた。」


作者

「早く修学旅行編が書きたかったんです……。」


沙耶

「勢いだけで!?」


璃子

「まあ、読者の皆さんが楽しんでくれたなら結果オーライかな。」


琥珀

「私たちは振り回されたけどね!」


作者

「8月24日また会いましょう!」

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