⑪温泉って、こんなに疲れる場所だっけ?
「ほら、琥珀ちゃんも籠持って!」
沙耶が、いかにも温泉宿といった趣の漂う小さな編み籠を、楽しそうに琥珀の胸元へトントンと押しつけてくる。浴衣の裾を少しだけ翻しながら、彼女はすでに自分の籠を腕にかけてウキウキとした笑みを浮かべていた。
「それ何入れるんだよ?」
「タオルとか着替えとか!」
「……私、何も持ってないんだけど」
「じゃあ琥珀ちゃんは私の荷物持ちね!」
「なんでだよ! 私の荷物はどこ行ったんだよ!」
ツッコミを入れる琥珀をよそに、その横を結乃が一切の迷いなく淡々と通り過ぎていく。
「私は自分の籠を持つ。」
「そこは普通だな……」
「琥珀の籠も持つ。」
「え?」
「二人分。」
「なんで!?」
「琥珀が遅いから。」
「理由が雑!」
結乃は淡々とした表情のまま、自分の分と琥珀の分の籠を両手に抱えてスタスタと歩き出す。
「出発する。」
「結乃まで自然に進行役に回るなよ……」
「夕食までのタイムリミット、残り四十二分。」
「なんでそんな正確な数字を秒単位で勝手に弾き出すんだよ!」
わいわいと騒がしい足音を立てながら、三人は大浴場へと続く長い廊下を進んだ。
廊下を歩く間も、沙耶はなぜか琥珀の腕にぴたりとくっついている。制服のときとは違う、薄手な浴衣の布越しに伝わる体温が妙に生々しくて、琥珀は変に背筋が伸びてしまった。
「ねえ、琥珀ちゃん」
「……なんだよ」
「温泉、楽しみ?」
「……うん。」
「ほんとに?」
「……ほんとは、ちょっと緊張してる。」
沙耶は少しだけ目を丸くして、それからふわりと柔らかく笑った。
「そっか。じゃあ、よかった」
「……なんでだよ」
「だって、ずっと部屋でそわそわしてたからさ」
「っ……!」
図星を突かれた琥珀は、あわてて視線をそらす。沙耶はそれ以上深掘りしてこなかったが、繋いでいる腕の力をほんの少しだけ強めた。それがなんだか、こそばゆくて、でも不思議と悪くなかった。
やがてたどり着いた大浴場。
のれんをくぐり、脱衣所に入るなり、沙耶が突然ぴょんと飛び跳ねた。
「そうだ! お風呂の前に勝負しよっか!」
「勝負?」
「よーし! 誰が一番早く浴衣を着直せるか勝負!」
「なんで風呂上がりの前にまた着替える前提の競技が始まるんだよ!」
「琥珀ちゃん遅そう!」
「私は着替えに関してはいたって普通だ!」
「三十秒経過。」
「結乃、まだ脱衣所に入ったばかりだろ! なんで勝手にストップウォッチ機能起動して実況始めてんだよ!」
脱衣所からすでにカオスな空気を漂わせつつ、三人はようやく湯気の立ち込める浴場へと足を踏み入れた。
ざぶん、と湯船に肩まで浸かった瞬間、琥珀の全身から脱力感が盛大に漏れ出た。
「はぁ~~~~~~…………。生き返る……」
「極楽だねえ」
「……ふふ、悪くない。」
心地よい水音を聞きながらまったりしていたところ、沙耶がまたしても不穏な(しかし最高に楽しそうな)笑みを浮かべた。
「ねえ! せっかくだし温泉っぽいことしようよ!」
「温泉っぽいこと?」
「誰が一番長く入ってられるか勝負!」
「いや、私は遠慮する……」
「あれ? 琥珀ちゃん、逃げるの?」
「……やる。」
煽りに弱すぎる自分を呪いつつ、琥珀が返事をすると、結乃が静かに手を挙げた。
「客観的データに基づく現在の勝率。琥珀が最下位。」
「始まる前から負け判定するな!」
こうして始まった耐久勝負。しかし、数分も経つと――。
「……暑い。」
「まだいけるよー!」
「問題ない。」
「いやお前ら強すぎだろ……!」
茹でダコを通り越して真っ赤になった琥珀が真っ先に音を上げ、さらにその数分後には、普段クールな結乃までもが目を白黒させ始めた。
「……結乃?」
「…………。」
「……暑い。」
「お前もかよ!」
「これは……温泉側の熱量設定が高すぎる。」
「温泉のせいにするな!」
だが、これで終わらないのが今回の修学旅行である。
「ねえ、あそこサウナもあるよ? ちょっと入ってみない?」
「サウナか……。私、あんまり入ったことないな」
軽い気持ちでサウナ室に足を踏み入れたのが運の尽きだった。
ただでさえ長湯で体力を削られていた琥珀に、サウナの熱気と乾燥が容赦なく牙を剥く。
「あれ……? なんか急に、空気が吸いづらく……頭がぐるぐるする……」
「ちょっ、琥珀ちゃん!?」
「顔色が生気のない赤ワインみたいになってるよ!」
「結乃、手伝って!」
「了解。緊急事態につき、全力を出す。」
沙耶と結乃の二人がかりでサウナ室から引きずり出され、脱衣所の畳の上にひっくり返る琥珀。
「ふぅ……死ぬかと思った……。」
濡れた冷たいタオルを額に載せられ、ペットボトルの水を渡される。
「水分補給。致死量を避けるためにも今すぐ飲む。」
「……ありがとう、結乃。命拾いした。」
その横で、沙耶は先ほどまでの元気さが嘘のように、青い顔をしてガタガタと震えていた。
「琥珀ちゃん……っ」
沙耶の声がかすかに震えていた。
「ほんとに……怖かったんだから……」
「……沙耶?」
「もう、あんな無茶しないでよ……っ」
いつもの無邪気な笑顔は消えていた。
琥珀は、そのときになって初めて気づいた。
――沙耶は、本気で自分のことを心配してくれているのだと。
「……ごめん。もう無理はしないからさ。」
琥珀が少しバツが悪そうに謝ると、沙耶は潤んだ瞳をぱちくりとさせ、それからふっと力を抜いて笑った。
「……うん。なら、許す。」
その瞬間、琥珀の胸の奥が、サウナの熱とは違う別の理由で、妙に締め付けられるように熱くなった。
「……よし、生還記念に三人で写真撮ろ!」
「急だな!? 待て、私の髪ボサボサだし顔も真っ赤だぞ!」
「それも思い出!」
「パシャ」
「おい勝手に撮るな!」
画面を覗き込むと、そこには茹でダコのような顔で白目を剥きかけた琥珀と、それを複雑な表情で(しかしどこかホッとした顔をして)覗き込む二人の姿が収まっていた。
「サウナ前から赤かった。」
「結乃、追い打ちをかけるな!」
「これ、今日の記念に待ち受けにしよーっと!」
「やめろ、私の黒歴史を世に晒すな!」
ドタバタの末にようやく部屋へ戻り、夕食の時間。
旅館の大広間に用意されたのは、テーブルを埋め尽くすほどの豪華な料理の数々だった。
(…………。)
サウナでの一件ですっかりエネルギーを枯渇させていた琥珀は、目の前の絶景を前に本能の赴くまま箸を動かしていた。
「琥珀ちゃん、それ三皿目だよ?」
「……。」
「さっきまでサウナで死にかけていた人間とは思えない食いつきだな。」
「命を取り戻した人間は飯を食うんだよ。」
「サウナで消費したカロリー以上に食べてない?」
「結乃、これ以上言ったら戦争だからな。」
すると、沙耶がクスッと笑いながら自分の小皿からプリンを差し出してきた。
「じゃあ、私のデザートのプリンもあげる!」
「……いいのか?」
「うん!」
「沙耶……お前、天使か?」
「じゃあ半分こね!」
「やっぱり一瞬で堕天したわ!」
「あ、そうだ。琥珀ちゃん、ちゃんと水分とってる?」
食事中も、沙耶は何度も琥珀のコップを気にかけながら覗き込んでくる。
「飲んだって。ほら、空っぽだろ。」
「ほんと?」
「ほんとだよ。」
「ならよしっ!」
さらに、お肉を取り分けた結乃が箸でひょいと差し出してくる。
「琥珀ちゃん、これ食べる?」
「食べる。」
「はい、あーん」
「いや自分で食べるわ!」
「じゃあ結乃にあーん」
「それは嫌。」
(……いつの間にか、こういうやり取りを普通にできるようになったな。)
ワイワイと騒がしい夕食の最中、不意に別のテーブルからクラスメイトの女子が話しかけてきた。
「そういえばさー」
「……ん?」
「昼の恋バナ、まだ琥珀ちゃんに答えてないよね?」
「…………。」
「「「……。」」」
「なんで夕食の席まで持ち越すんだよ!!」
広間に響く琥珀の絶叫。
「結局、琥珀ちゃんは誰が一番安心するの?」
「だからみんなだって!」
「ほんとかなー?」
「……。」
「結乃まで黙るな! 怖い!」
顔を真っ赤にしてツッコミを入れる琥珀の姿に、周囲からクスクスと笑い声が漏れた。
夕食のあとは、旅館の売店へお土産探し。
「うわ、この八つ橋の種類めちゃくちゃ多くないか?」
「私は実用性重視で、一番日持ちする抹茶クッキーにする。」
「ねえ、三人でお揃いの買おうよ!」
沙耶が楽しそうにカエルの形をした木彫りの小さなキーホルダーを三人分手に取る。
「合理的。三人の記念品として適切。」
結乃もすぐに同意する。
「お前ら、こういう時だけ結託するな! ……まあ、反対はしないけどさ。」
結局、三人お揃いのキーホルダーをカバンにつけることで落ち着いた。
琥珀が家族用の棚の前でふと足を止め、どれにしようか迷っていると、沙耶がひょっこり顔を覗かせてくる。
「――で、誰に買うの、琥珀ちゃん?」
「……家族に決まってるだろ。」
「へえー?」
「なんだよ、その意味深な『へえー』は。」
「別にー? 恋人にお揃いのキーホルダーとかじゃないんだなーって。」
「だから誰が買うかそんなハイカラなものを!」
夜。部屋でのひととき。
修学旅行の定番といえば、夜のお菓子パーティーである。
畳の上に広げられた京都の銘菓を囲みながら、三人はまったりと過ごしていた。
「ねえ、先生見回り来ないかな?」
「絶対大丈夫じゃないだろ、そんなフラグ立てるな!」
その瞬間。
コン、コン。
『……先生です。部屋の電気消しなさい』
全員の動きがピタリと止まった。
「「「終わったぁぁぁ!!」」」
一瞬で全員が布団へダイブし、頭からすっぽり布団をかぶる。
『お前ら、まだ起きてるだろ。声聞こえたぞ』
「……寝てます。」
沙耶が震え声で叫ぶ。
『今しゃべったの誰だ』
「……夢です。」
「無理があるだろ!!」
布団の中で琥珀が思わずツッコミを入れる。
扉の向こうで先生が呆れたような溜息をつく気配がし、やがて足音が遠ざかっていった。
「……ふぅ……危なかった……。」
全員が布団から頭を出し、顔を見合わせてから、どっと脱力したように笑い出した。
やがて消灯時間となり、部屋の電気が落とされる。
静まり返った暗闇の中、布団を並べた空間に、沙耶のひそひそ声が響いた。
「……ねえ、琥珀ちゃん。」
「ん……?」
「昼の質問、まだ答えてないよね。」
「…………この話、まだ引きずるのかよ。」
「もちろん。」
「結乃、お前も起きてるだろ。」
「起きてる。」
「寝たふりくらいしてくれ!」
「……で、誰が一番安心するの?」
暗闇の中で、琥珀は布団をぎゅっと握りしめた。
(昔の私は、こんなふうに誰かと布団を並べて笑うことなんて、一度も想像したことがなかった。)
(男子だった頃の自分に戻れないことを、ずっと怖がっていた。)
(でも――)
(今は、不思議なくらい怖くない。)
「……そっか。」
私は小さく笑った。
「……お前らといるとさ、変に肩の力が抜けるんだよ。本当に……安心する。」
「じゃあさ、沙耶は?」
沙耶が少し嬉しそうに息を弾ませたあと、いたずらっぽく続ける。
「沙耶は誰といると一番安心するの?」
「…………」
「沙耶?」
「……ひみつ。」
沙耶はふふっと笑った。
けれど、その声はいつもの明るさより、ほんの少しだけ小さかった。
「だって、今言ったら……変わっちゃいそうだから。」
「……何が?」
「ううん。なんでもない。琥珀ちゃんには、まだ秘密。」
(……なんだよ、それ。)
「結乃は?」
「私は、琥珀がいてくれて助かっている。」
「……そっか。それだけ?」
「それに――」
「?」
「……やっぱり何でもない。」
「なんだよ! 最後まで言えよ!」
不意に胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……私、今。完全にこの輪の中にいるんだな。)
かつての男子だった自分を忘れさせるほど自然に、今の自分がここにいる。
修学旅行って、こんなに温かくて、楽しいものだったんだ――。
「……じゃあ、今度こそ寝るか」
「うん。おやすみ、琥珀ちゃん」
「おやすみ」
その瞬間――。
ゴゴゴゴゴ……。
「……え?」
畳が、わずかに揺れた。
「地震……?」
次の瞬間。
バチンッ。
部屋の明かりが消えた。
「きゃっ!」
暗闇の中で、何かが倒れる音がした。
「沙耶!?」
「琥珀ちゃん……!」
声がした。
けれど、いつもの沙耶の声じゃなかった。震えている。
「……怖い」
「……大丈夫。大丈夫だから」
そう言いながら、琥珀は手を伸ばした。その手を、沙耶が強く握り返す。
「……離れないで」
「……うん」
「絶対?」
「絶対」
しばらく、二人とも何も言わなかった。ただ、暗闇の中で互いの手だけが繋がっていた。
――そのとき。
琥珀は気づいた。
自分の手も、震えている。
(……私も、怖いんだ。)
(なのに……)
沙耶の手を離したくなかった。
「……琥珀ちゃん」
「ん?」
「怖くないの?」
「…………怖いよ」
「え?」
「私だって怖い」
琥珀は、小さく笑った。
「でも……沙耶が怖がってるなら、私まで怖がってる場合じゃないだろ」
「…………」
「だから、大丈夫」
そして、沙耶の手をもう一度、ぎゅっと握る。
「私がいるから」
「…………うん」
沙耶の声が震えた。
「……琥珀ちゃんがいるなら、怖くない」
――その言葉を聞いた瞬間。
琥珀の胸が、ドクン、と大きく鳴った。
(……なんでだろう。)
(その言葉……)
(すごく、嬉しい。)
「……二人とも」
結乃の声が、暗闇の中から静かに降ってきた。
「ん?」
「今、手を繋いでる?」
「…………っ!?」
「…………っ!?」
「暗闇でも分かる。」
「なんでだよ!!」
結乃の声だけが、妙に冷静だった。
「沙耶。顔が赤い。」
「見えてないでしょ!?」
「声で分かる。」
「結乃ぉぉぉぉ!!」
暗闇の中での悶絶の末に電気も復旧し、ドタバタのまま再び静寂が訪れた。
そして、翌朝。
朝の光が障子の隙間から差し込んでいた。
琥珀は、昨夜の温かい余韻をぼんやりと感じながら、ゆっくりと目を開けた。
――安心する。この二人といると。
そんな言葉を、自分が口にしたこと。
「……なんか、変な感じだな。」
そう呟いた瞬間。
「……んぅ……。」
妙な違和感に気づく。なぜか、やけに体が温かい。そして、目の前に何やら柔らかい布の感触と、規則正しい寝息がある。
「…………。」
薄目を開けた琥珀の視界に飛び込んできたのは、至近距離にある沙耶の寝顔だった。
さらに、沙耶は昨夜の地震の恐怖がまだ残っているのか、琥珀の腕を自分の枕のように抱え込み、ぴったりと密着して眠っている。
「…………なんで?」
冷や汗を流しながら隣を見ると、結乃がすでに起きていて、冷めた目でこちらを見下ろしていた。
「おはよー、琥珀ちゃん。……んぅ、琥珀ちゃん、あったかい……。」
沙耶が寝ぼけながらさらにキュッと琥珀にしがみつく。
「……結乃。なんで私の布団に沙耶が侵入しているんだよ。」
「昨夜の地震のあと、そのまま移動した。」
「なんで止めなかった!?」
「面白かったから。」
「記録した。」
「結乃、スマホのカメラを向けろなんて言ってない! 消せぇぇぇぇ!!」
「バックアップも取った。」
「何のために!?」
「将来、琥珀がこの写真を見て恥ずかしがるため。」
「そんな未来の私への嫌がらせを今から準備するな!!」
「ちなみに、沙耶にも送った。」
「なんで!?」
「……んぅ?」
沙耶が眠そうに目をぱちくりと開ける。
「写真……?」
「見る?」
「見るー。」
「見るなぁぁぁぁぁ!!」
朝の静寂を切り裂く琥珀の絶叫とバタバタと暴れる音が、修学旅行二日目の盛大な幕開けを告げた。
その頃、部屋の隅に置かれた結乃のガイドブックには、二日目の予定がびっしりと書き込まれていた。
二日目の予定
10:00~ 班別自由行動(八乙女結乃・小夜川沙耶・東雲琥珀班)
14:30 縁結びで有名な神社へ
――そして、その予定表の中には、琥珀がまだ知らない「あるイベント」の文字がひっそりと佇んでいた。
温泉で疲れたはずなのに。
琥珀はなぜか、胸の奥だけが妙に熱かった。
――修学旅行二日目。
まだ、何も知らない。
琥珀「……結乃」
結乃「なに?」
琥珀「昨日の写真、消した?」
結乃「消してない。」
琥珀「なんでだよ!!」
結乃「確認する?」
琥珀「しない!!」
結乃「一枚目。」
琥珀「聞いてない!!」
結乃「サウナで茹でダコになっている琥珀。」
琥珀「それは消せぇぇぇ!!」
結乃「二枚目。」
琥珀「まだあるの!?」
結乃「沙耶に抱きつかれている琥珀。」
琥珀「それは……!」
沙耶「私、その写真好きだよ?」
琥珀「沙耶まで!?」
沙耶「だって、琥珀ちゃん可愛いし」
琥珀「…………」
沙耶「……琥珀ちゃん?」
琥珀「……朝飯食ってくる」
結乃「逃げた。」
沙耶「逃げたねえ」
結乃「写真フォルダに『修学旅行・琥珀』を作成。」
琥珀「作るなぁぁぁぁぁ!!」




