92.魔力、また暴走する
軍事国家バルファードの城にある訓練所。
そこは実際の戦闘訓練を行えるように広い敷地と壁側には外への被害が出ないように施された防御結界魔法、そして東西南北に四ヶ所出入口がある。
その一つ、北側の出入口だけ大きく鉄格子になっている。
北側の出入口の先には捕えた魔物が待ち構えている。
つまりこの訓練所は魔物と戦闘が出来るようになっている。
その訓練所に今、ラーシャが一人立っている。
(なぜ私はここにいるのでしょうか?)
ダークエルフの整った顔、だがその眉は不安げに少し下がっている。
(どうしてこうなったのでしょうか?)
杖を胸に抱えて立っているその姿は、少し震えている。
ラーシャは周囲を見回した。
高い石壁。
兵士達が見守る観覧席。
そして北側の鉄格子の向こうから聞こえる、低いうなり声。
「…………。」
ラーシャは小さく首を傾げた。
(本当に、どうしてこうなったのでしょう。)
──遡ること、およそ一時間前の謁見の間。
レムルスは玉座に腰掛けたまま、静かに口を開いた。
「……スポンサー契約については、前向きに考えよう。」
その一言に、兵士達の表情が少し和らぐ。
だが、レムルスはそこで言葉を切ると、鋭い眼差しをガエン達へ向けた。
「しかし。」
空気が再び引き締まる。
「報告書には、お前達一人ひとりの戦闘能力も記されていた。」
ガエンは静かに頷く。
「オーガのガエン。死神ダグラス。勇者マイト。」
レムルスは三人を順番に見た。
「お前達の実力は、戦場での戦果の報告で十分確認できている。」
そして最後に、ラーシャへ視線が向く。
「だが。」
ラーシャはびくりと肩を震わせた。
「ダークエルフ、ラーシャ。」
「は、はい。」
「お前だけは実戦の報告が少ない。」
ラーシャは困ったようにガエンを見る。
(そんな目で見られても困ります……。)
レムルスは立ち上がった。
「実際に見せてもらおう。訓練所で魔物と戦ってもらう。」
その瞬間だった。
「ちょっ、待った!」
ガエンが思わず一歩前へ出る。
その横ではマイトも珍しく慌てた様子だった。
「レムルス王、それは.....」
「やめた方がいいと思うよ!」
兵士達は首を傾げる。
二人がこれほど焦る姿は意外だった。
レムルスは眉をひそめる。
「なぜだ?」
ガエンは頭をかいた。
「いや……その……。」
マイトも苦笑いを浮かべる。
「ラーシャは、ちょっと普通じゃないから……。」
「普通ではない?」
レムルスが問い返す。
ガエンは言葉を選ぶように口を開いた。
「強いとか弱いとか、そういう問題じゃない。」
「説明が難しいんだ。」
マイトも真剣な表情で頷く。
「色々と大変な事になるから。」
「だから、あまり気軽に魔物を相手にさせない方が……。」
しかしレムルスは腕を組み、静かに首を横へ振った。
「なおさら見てみたい。」
「……。」
「軍事国家の王として、自国と契約を結ぶ相手の実力は、自分の目で確かめねばならん。」
その意思は固かった。
ガエンは額を押さえる。
「マジかよ……。」
ダグラスだけは腕を組んだまま、小さく笑う。
「まあ、止めても無駄だろう。王様の目で見たいって言うなら見てもらえばいい。」
ガエンはため息をついた。
「後で驚いても知らないぞ……。」
一方その頃。
「え?」
ラーシャだけは話についていけていなかった。
「私は何をすれば……。」
アッシュが爽やかな笑顔で一礼する。
「ではラーシャ殿、こちらへ。」
「え、あの、ちょっと待ってください。」
「すぐ終わります。」
「え? 終わる? 何がですか?」
「訓練です。」
「訓練……?」
そのまま半ば流されるように歩かされるラーシャ。
後ろではガエンとマイトが同時に額へ手を当てていた。
「……間に合わなかったか。」
「ラーシャ、ごめん……。」
そして数十分後。
軍事国家バルファードの訓練所。
ラーシャは一人、広い訓練場の中央に立っていた。
(だから……。)
杖をぎゅっと抱きしめる。
(どうして私はここにいるのでしょうか……?)
北側の巨大な鉄格子の向こうでは、兵士達が解放の準備を始めていた。
その様子を見ながら、ガエンは小さく呟く。
「……頼むから、一体だけにしてくれよ。」
その言葉の意味を、この場にいる兵士達はまだ誰も理解していなかった。
北側の鉄格子の前。
兵士長がレムルスへ一礼する。
「陛下、準備が整いました。」
レムルスは静かに頷いた。
「相手は。」
「ブラッドウルフ五体です。」
その報告に、観覧席の兵士達から感心したような声が上がる。
「ブラッドウルフか。」
「あれなら実力を見るには丁度いい。」
「Aランク冒険者でも油断すれば命を落とす魔物だ。」
鋭い牙。
全身を覆う血のように赤黒い毛並み。
群れで獲物を狩る凶暴な魔物。
一体でも危険。
五体なら、新兵ではまず生還できない。
レムルスはラーシャへ視線を向けた。
「ラーシャよ。」
「は、はい!」
「無理なら降参しても構わん。」
「え……。」
「実力を見るだけだ。命を懸けろとは言わん。」
ラーシャは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます……。」
だが。
(降参って……どうやるのでしょう。)
既に頭の中は真っ白だった。
その様子を見た兵士達は苦笑する。
「本当に大丈夫か?」
「震えてるぞ。」
「杖を持つ手まで震えてるじゃないか。」
「本当に魔王軍幹部か?」
そんな囁きが広がる。
一方、観覧席の端。
ガエンは腕を組みながら、ひたすら落ち着かない様子だった。
「ラーシャー!」
訓練場中に響く大声。
「無理して戦わなくていいぞ!怖かったら逃げろー!」
兵士達がぽかんとする。
「応援がそれなのか……?」
その隣でマイトも両手を口に添える。
「ラーシャー!大丈夫だからね!落ち着いて! 深呼吸!魔力だけは抑えて!」
最後の一言だけ、やけに切実だった。
ラーシャは二人を見る。
「あ……。」
少しだけ安心したように微笑む。
「ガエンさん……勇者様……。」
ガエンは必死に親指を立てた。
「そうそう、その調子!何にも考えるな!絶対に慌てるなよ!」
マイトも何度も頷く。
「君なら大丈夫!いつも通りだからね!お願いだから落ち着いて!」
その必死さに兵士達は首を傾げる。
「随分と心配しているな。」
「仲間思いなんだろう。」
しかし。
ダグラスだけは腕を組んだまま、小さく呟いた。
「……もう遅い気がするがな。」
兵士長が大きく手を振る。
「鉄格子、開門!」
ガガガガガガガガ……!!
巨大な鎖が音を立てる。
鉄格子がゆっくりと持ち上がった。
その奥の暗闇から。
──グルルルル……。
低く唸る声。
次の瞬間。
ドッ!!
赤黒い影が飛び出した。
ブラッドウルフ五体が土煙を巻き上げながら訓練場へ飛び出す。
黄金色の瞳が、一斉にラーシャを捉えた。
「グルァァァ!!」
五体が牙を剥く。
ラーシャの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「ひっ……。」
心臓が激しく鼓動する。
(む、無理です。)
一歩後ろへ下がる。
(こんなの無理です。)
また一歩。
(食べられます。)
ブラッドウルフ達はじりじりと距離を詰める。
唸り声。鋭い牙。獣臭。
全てがラーシャの恐怖を煽る。
「いや……。」
杖を握る手が震える。
「来ないで……。」
その声は震えていた。
「お願い……。」
ガエンが青ざめる。
「まずい。」
マイトも息を呑む。
「ラーシャ!」
ラーシャの呼吸が乱れる。
(怖い。)
胸が締め付けられる。
(怖い怖い怖い怖い。)
頭の中が恐怖だけで埋め尽くされる。
その瞬間。
ゾワッ。
ラーシャの足元から、黒紫色の魔力が滲み出た。
最初は煙のように。
しかし次の瞬間には、濁流のような魔力が地面を這い始める。
「……!」
レムルスの瞳が鋭く見開かれた。
「この魔力は……。」
兵士達の笑みが消える。
空気が重い、呼吸がしづらい。
まるで巨大な存在に睨まれているような圧迫感。
「な、なんだ……?」
「身体が……重い……。」
ラーシャ自身も気付いていなかった。
恐怖に反応した膨大な魔力が、理性の制御を離れ始めていることに。
黒紫の魔力は渦を巻き、訓練場全体を包み込み始める。
石畳がミシミシと音を立て、空気そのものが震える。
ブラッドウルフ達は突進寸前の姿勢のまま、初めて本能的な恐怖を覚えたように後ずさりした。
「クゥゥ……。」
「キャン……。」
獰猛な魔物が、まるで自分たちこそが獲物になったかのように尾を下げる。
ガエンは額に手を当てて大きくため息をつく。
「……始まっちまった。」
マイトも苦笑いを浮かべながら呟く。
「だから言ったのに……。」
そしてレムルスは、訓練場の中央で怯えながら涙目になっている一人のダークエルフを見つめ、初めて背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(この娘……まさか、自分でこの魔力に気付いていないのか……?)
レムルスは玉座から勢いよく立ち上がった。
「まずい!」
その瞬間だった。
ピシッ。
乾いた音が訓練場に響く。
訓練場全体を覆っていた巨大な防御結界。
その透明な壁に、一本の細い亀裂が走った。
「……!」
兵士長の顔色が一瞬で変わる。
「け、結界に……!」
ピシッ。
ピシピシッ。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がっていく。
観覧席の兵士達も青ざめた。
「嘘だろ……。」
「防御結界だぞ……?」
「王国最高峰の魔導士達が張った結界だぞ!」
誰も信じられなかった。
戦ってもいない。
魔法を放ってもいない。
ただ恐怖で漏れ出した魔力だけで、結界が悲鳴を上げている。
レムルスは思わず叫ぶ。
「兵士達! 今すぐブラッドウルフを退場させろ!!」
「は、はい!」
兵士達は返事をした。
だが誰一人として動けない。
足が床に縫い付けられたようだった。
「ぐっ……!」
「か、身体が……。」
「魔力に押さえ付けられて……。」
膨大すぎる魔力の圧力。
それだけで全身が震え、呼吸すら苦しい。
剣を握ることも、前へ踏み出すこともできない。
レムルスは歯を食いしばった。
(これほどの威圧……!)
その視線の先では、ブラッドウルフ達が完全に腰を抜かしていた。
「キャゥゥ……。」
「クゥーン……。」
先ほどまで牙を剥いていた魔物達が、小さく鳴きながら地面に伏せて震えている。
しかし、ラーシャの魔力は止まらない。
黒紫色の奔流はさらに勢いを増し、防御結界の亀裂も広がり続ける。
ピシッ!
ガガガガ……。
結界全体が軋み始めた。
「このままでは結界が持たん!」
レムルスが叫んだ、その瞬間。
「ダグラス!」
ガエンが立ち上がる。
「分かってる!」
二人は同時に観覧席から飛び降りた。
ドォン!!
着地と同時に土煙が舞い上がる。
「お、おい!」
「飛び降りたぞ!」
兵士達が驚く間もなく。
ガエンは一番近くのブラッドウルフを軽々と抱え上げた。
「悪いな! 今日はお前らの負けじゃねぇ!」
「キャンッ!?」
ダグラスも二体まとめて首根っこを掴む。
「ほら、お前達も帰るぞ。」
「クゥゥン……。」
まるで子犬のように大人しく運ばれていくブラッドウルフ達。
残る二体もガエンが脇に抱え込み、そのまま鉄格子の中へ放り込んだ。
「入ってろ!」
ガシャン!!
兵士長は我に返る。
「と、扉を閉めろ!!」
「は、はい!」
兵士達は震える身体を必死に動かし、鉄格子を閉じる。
ガガガガガ……。
ようやくブラッドウルフ達は檻の中へ戻された。




