81.諜報員、温泉に入る
マイトが口を開いた。
「そういえばばさ、前にドラゴンの谷に連れて帰った古代生物のあの黒いのはどうなったの?」
その言葉を聞いてラーシャの顔が少し曇る。
古代生物の黒いの、それは以前成長のために冒険者達を食糧にしていた謎の生物。
善悪もわからず自分が何者かも分からずにいた子供のような生物。ガエン達が襲われそうになり、ラーシャの魔力が暴走しかけ、ゼノがその生物が何者なのか調べるためにドラゴンの谷に連れ帰ったのだった。
マイトの問いに、ゼノは静かに湯飲みを置いた。
「安心しろ。」
その一言だけで、ラーシャの強張っていた表情がわずかに和らぐ。
「もう人を襲うことはない。」
「本当か!」
マイトがぱっと顔を輝かせる。
ゼノは頷いた。
「あれは悪意で襲っていたわけではなかった。ただ、生きるための術を知らなかっただけだ。」
アッシュは耳を傾ける。
「今はドラゴンたちが、食べてもよい獲物と、決して口にしてはならぬものを教えている。」
「ドラゴンが先生役ってわけか。」
ガエンが団子を頬張りながら笑う。
「ああ。最初は狩りすら満足にできなかったが、今では少しずつ覚え始めている。」
ゼノの口調には、どこか親が子を見守るような優しさがあった。
「人を襲う必要はもうない。食べられる獣や魔物を狩ることを学んでいる。」
ラーシャは胸に手を当て、小さく息を吐く。
「……よかった。」
「あの子、本当に何も知らなかっただけなんだね。」
マイトも安心したように微笑む。
ダグラスは静かに問い掛ける。
「正体は分かったのか。」
その瞬間、ゼノの表情が少しだけ真剣になった。
「……まだだ。」
店内が静まり返る。
「ドラゴンの古い文献、石碑、伝承……思いつく限り調べている。」
ゼノは腕を組み、静かに続けた。
「だが、確証を得られるものは見つかっていない。」
「竜王でも分からねぇのか。」
ガエンが珍しく感心したように言う。
「あれほど古い存在となると、我の知識だけでは及ばぬ。」
ゼノは苦笑した。
「今はドラゴンの長老たちにも調査を頼んでいる。」
「長老たち?」
アッシュが思わず聞き返す。
その言葉は初めて耳にするものだった。
ゼノは頷く。
「我よりもさらに古い時代を知る者たちだ。」
「えっ?」
マイトが目を丸くする。
「ゼノより年上なの?」
「生きた年月だけならな。」
ゼノは穏やかに答えた。
「彼らは普段、人前へ姿を現さぬ。世界の移り変わりを静かに見届ける、古きドラゴンたちだ。」
「そんなドラゴンがまだいるなんて……。」
ラーシャも驚きを隠せない。
ゼノは窓の外へ視線を向ける。
「彼らならば、あの生物を知っているかもしれん。」
「でも、すぐには分からないの?」
マイトが首を傾げる。
「長老たちは世界各地で眠りについたり、瞑想に入っていたりすることも多い。」
ゼノは静かに笑った。
「連絡を取り、文献を照らし合わせ、意見を集めるだけでも時間がかかる。」
「だから調査中なんだな。」
ガエンは納得したように頷く。
「ああ。」
ゼノは力強く答えた。
「急いで誤った結論を出すより、時間をかけても真実を見極める方がよい。」
その言葉には、何千年も生きてきた竜王らしい重みがあった。
アッシュは黙ってその話を聞いていた。
(ドラゴンの……長老たち。)
竜王よりも古い存在。
そんな生き物が、この世界のどこかで今も生きているというのか。
諜報員として世界中の情報を集めてきたつもりだった。
だが、そんな存在の話は一度も耳にしたことがない。
(古代生物……そして、竜王より古いドラゴンたち。)
知らないことばかりだ。
胸の奥で、恐怖とは違う感情が静かに芽生えていく。
知りたい。
世界には、自分がまだ見たことも、聞いたこともない秘密が数え切れないほど眠っているのかもしれない。
アッシュは気づかぬうちに、少しだけ身を乗り出していた。
その様子に最初に気付いたのは、ガエンだった。
団子をもう一本手に取りながら、にやりと笑う。
「お、珍しい顔してんな。」
アッシュははっとして姿勢を戻した。
「い、いえ……。」
「気になるんだろ?」
ガエンは気楽な口調で言う。
「聞きたいことがあるなら聞いとけよ。ゼノが機嫌よく話してくれてるなんて、そう何度もあるもんじゃねぇ。」
「おい。」
ゼノがじろりと見る。
「我はいつも機嫌が悪いと言いたいのか。」
「違う違う。」
ガエンは笑いながら手を振った。
「普段は必要なことしか喋らねぇだろ。今日は昔話までしてくれてるじゃねぇか。」
マイトも元気よく頷く。
「確かに! 今なら何聞いても答えてくれそう!」
「何でも、とは言っておらぬ。」
ゼノは苦笑しながら湯飲みを口元へ運ぶ。
「答えられることなら、だ。」
そのやり取りを見て、アッシュは少し迷う。
相手は竜王。自分のような一介の諜報員が、軽々しく質問していい相手ではない。
しかし、
「遠慮するな。」
ゼノは静かに言った。
「知ろうとすることは悪いことではない。」
その一言が、背中を押した。
アッシュは姿勢を正し、ゆっくりと口を開く。
「……では、一つだけ。」
「うむ。」
「竜王様ほどのお方でも、分からないことがあると仰いました。」
ゼノは静かに頷く。
「ある。」
「それでも調べ続けるのは、なぜでしょうか。」
店内が静かになる。
アッシュは続けた。
「私は諜報員として、情報を集めることが仕事です。ですが、多くの者は分からなければ推測で結論を出したがります。」
少し息を吸う。
「ですが竜王様は、何百年、何千年かかっても真実を探そうとしている。その違いは……何なのでしょうか。」
ガエンたちも口を挟まず、ゼノへ視線を向けた。
ゼノはしばらく黙っていたが、やがて穏やかに微笑む。
「簡単なことだ。」
静かな声が茶屋に響く。
「誤った知識は、無知より恐ろしい。」
アッシュは息をのむ。
「知らぬなら、学び直せばよい。」
ゼノはゆっくりと続ける。
「だが、間違いを真実と思い込めば、人はその先も誤り続ける。」
金色の瞳が真っ直ぐアッシュを見つめた。
「だから我は、分からぬ時は『分からぬ』と言う。」
その言葉は穏やかだったが、長い時を生きてきた者だけが持つ確かな重みを帯びていた。
アッシュは静かに頭を下げる。
「……勉強になります。」
ガエンは腕を組み、うんうんと大きく頷く。
「ほらな。聞いて正解だったろ。」
「ガエンさんは、その教えを実践していますか?」
ラーシャがくすっと笑いながら尋ねる。
ガエンは胸を張った。
「もちろん!」
間髪入れずにダグラスが口を開く。
「分からなくても勢いで突き進む。」
「違いねぇ。」
ゼノが小さく笑う。
「否定はできんな。」
「おいおい、全員そろってひでぇな!」
ガエンが大げさに肩を落とくと、茶屋には再び穏やかな笑い声が広がった。アッシュもまた、その輪の中で自然と笑みを浮かべていた。
茶屋を出る頃には、すっかり日も傾いていた。
温泉街には湯けむりが立ち上り、硫黄の香りが風に乗って漂ってくる。
宿へ戻る途中、ガエンが鼻をひくつかせた。
「……温泉だな。」
「そうだね。」
マイトも嬉しそうに頷く。
「せっかく温泉の街まで来たんだし、入らないともったいないね!」
「賛成です。」
ラーシャも微笑む。
「旅の疲れも取れますし。」
アッシュは嫌な予感しかしなかった。
「……まさか。」
ガエンが振り向く。
「もちろん、お前も入るぞ。」
「え。」
「何だその反応。」
「い、いえ……私は別に……。」
「遠慮すんなって。」
ガエンは肩を叩く。
「温泉なんてみんな一緒だ。」
(そこなんだ……問題は。)
アッシュは心の中で頭を抱えた。
諜報員として人前で肌を晒すことはほとんどない。
古傷もある。
体には隠している装備の癖もある。
何よりも、
(この人たち、本当に遠慮というものを知らない。)
「では私は女湯へ行きますね。」
ラーシャはにこりと笑う。
「皆さん、ごゆっくり。」
「おう。」
ガエンが手を振る。
「のぼせんなよ。」
「ガエンさんこそです。」
ラーシャはくすりと笑い、そのまま女湯へ向かっていった。
◇◇◇
男湯。
湯気がもうもうと立ち込める広い岩風呂。
「ふぃ~~~っ!」
真っ先に声を上げたのはガエンだった。
「生き返る!」
「気持ちいいー!」
マイトも肩まで湯に浸かり、満面の笑みを浮かべる。
ダグラスはいつもの無表情のまま静かに湯へ入り、小さく目を閉じた。
ゼノも静かに岩へ腰掛ける。
人の姿ではあるが、その所作にはどこか竜王らしい気品があった。
そして、アッシュだけが、湯船の縁で固まっていた。
「……。」
「どうした?」
ガエンが首を傾げる。
「いや、その……。」
「早く入れ。」
ダグラスが短く言う。
「は、はい……。」
意を決して湯へ足を入れる。
「あっ……。」
思ったより熱い。
しかし肩まで浸かると、冷え切っていた身体がじんわりと温まっていく。
「……これは。」
思わず力が抜けた。
「いいだろ?」
ガエンが笑う。
「……ええ。」
アッシュも素直に頷いた。
「想像以上です。」
「だろだろ!」
ガエンは得意げである。
その時、マイトが思い出したように笑った。
「あ、そういえばドラゴンって温泉好きなんだよね。」
アッシュが目を瞬かせる。
「ドラゴンが……ですか?」
「ああ。」
ゼノが静かに頷く。
「好む者は多い。」
「へぇ。」
ガエンも感心する。
「知らなかった。」
「身体を温め、翼や筋肉を休めるにはちょうどよい。」
ゼノは湯気の向こうを眺めながら続ける。
「ドラゴンの谷にも温泉は幾つもある。」
「そうそう!」
マイトが笑顔で手を叩いた。
「俺も前に掘るの手伝ったし!」
「掘る?」
アッシュが聞き返す。
「うん。」
マイトは懐かしそうに笑う。
「前にさ、拡声石を取りにビルムと一緒にドラゴンの谷へ行ったことがあったんだ。」
「拡声石?」
「声を大きく遠くまで届ける魔石だ。」
ゼノが補足する。
「祭事や集会で用いることもある。」
「そのに時ね。」
マイトは楽しそうに話し始めた。
「ちょうどドラゴンたちが、『新しい温泉が欲しい!』って騒いでてさ。」
ガエンが吹き出す。
「そんな理由でか?」
「うん。」
「それでおじさんのドラゴンが、『岩盤の下に湯脈があるはずだ』って言って。」
マイトは両手で掘る真似をする。
「俺も一緒に岩をどかしたり、穴を広げたりして手伝ったんだ。」
「勇者が温泉掘りか。」
ダグラスがぼそりと言う。
「いやぁ、あの時は大変だったよ。」
マイトは苦笑する。
「ドラゴンのみんな、完成する前から『まだか』『まだ湧かないか』って周りで待ってるんだもん。」
ガエンは腹を抱えて笑った。
「想像できる!」
ゼノもわずかに口元を緩める。
「待ちきれぬ者は昔から変わらぬ。」
「で、最後に岩を割った瞬間。」
マイトは両手を大きく広げた。
「どばーっ!って熱いお湯が噴き出して!」
「おお。」
アッシュも思わず身を乗り出す。
「ドラゴンたち、大歓声だったよ。」
マイトは笑いながら続ける。
「そのまま全員飛び込もうとして、親方ドラゴンに止められてた。」
ゼノはため息をついた。
「湧きたては熱すぎる。」
「確かに。」
ガエンは肩を震わせる。
「茹でドラゴンになるところだったな。」
「温度が落ち着いた途端、一斉に飛び込んでた。みんな本当に嬉しそうだったなあ。」
マイトも目を細める。
「親子で入ってるドラゴンもいたし、小さい子が泳いで怒られたりしてさ。」
アッシュは静かに聞いていた。
(ドラゴンが……温泉で親子そろってくつろぐ。)
自分の知っているドラゴン像とは、あまりにも違う。
恐ろしい魔獣ではなく、家族で温泉を楽しみ、子供を叱り、笑い合う存在。
その光景を想像すると、不思議と口元が緩んだ。
「……見てみたいものですね。」
その一言に、ゼノは穏やかに頷いた。
「機会があれば、いずれ見せてやろう。」
アッシュは一瞬目を丸くしたあと、小さく頭を下げる。
「……その時は、ぜひ。」
そしてアッシュは目を閉じて、規格外の存在達との出来事を心に刻むのだった。




