80.竜王、説教をする
夕暮れの空を茜色に染めながら、温泉街トウセンには湯気がゆらゆらと立ち上っている。
二日間の束の間の休息が、一行を静かに迎えようとしていた。
宿に荷物を置いた一行は、身軽な格好で温泉街トウセンの石畳を歩いていた。
夕暮れの街は賑わいを見せ、湯気の立ち上る足湯には旅人たちが集まり、土産物屋からは甘い饅頭の香りが漂ってくる。
「おっ、温泉まんじゅうだ!」
マイトが早速反応する。
「まずは街を一周してからだ。」
ガエンが笑いながら頭を軽く小突く。
「えぇー。」
「二泊あるんですから、逃げませんよ。」
ラーシャも微笑む。
ダグラスは相変わらず無言で後ろを歩いていた。
アッシュはそんなやり取りを見ながら、どこか穏やかな気持ちで街並みを眺めていた。
(……本当に気楽な人たちだ。)
その時だった。
ガエンの足がぴたりと止まる。
「……お?」
視線の先。人混みの中を、一人の青年が歩いていた。
艶のある黒髪、黄金に輝く瞳、質素な旅装束を身にまとっているが、その立ち姿には不思議な威厳があった。
「あ。」
マイトが目を丸くする。
「ゼノ!」
ラーシャも思わず微笑む。
「竜王様。」
ダグラスも小さく会釈した。
青年はゆっくりとこちらを向き、柔らかく笑う。
「久しいな、皆。」
ガエンが豪快に笑った。
「おお! ゼノじゃねぇか!」
「こんな所にいたのか!」
マイトも駆け寄る。
「温泉に入りに来たの?」
「いや、少し用事があってな。」
ゼノは穏やかに答える。
その様子を見ていたアッシュだけは、全身が凍り付いていた。
(ま、まさか……。)
金色の瞳。この圧倒的な存在感。
そしてラーシャが口にした言葉。
――竜王様。
アッシュの顔から血の気が引く。
(竜王……ゼノ……。)
悪魔族であるアッシュにとって、竜王とは伝説そのもの。
魔王に匹敵するとまで言われる世界最強格の存在。
敵対すれば、生き残れる保証などどこにもない。
気付けば膝がわずかに震えていた。
ゼノはその様子を見ると、小さくため息をつき、ゆっくりとアッシュの前まで歩み寄る。
「悪魔か。」
「は……はい……。」
声まで震える。
ゼノは穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「悪魔が震えるな。」
その一言は静かだった。
だが、不思議と責める響きはない。
「……え?」
アッシュは思わず顔を上げる。
ゼノは金色の瞳でまっすぐ見つめながら続けた。
「悪魔族は誇り高き種族だろう。力が及ばぬ相手を前にしても、必要以上に恐怖へ飲まれるものではない。敬意は持て。だが、恐怖に心まで支配されるな。」
穏やかな声だった。
それでも、その言葉には竜王として何千年も生きてきた重みがあった。
アッシュは息を呑む。
「……申し訳、ありません。」
「謝る必要はない。」
ゼノは小さく笑う。
「我を恐れる者は多い。だが、恐怖は視野を狭める。それでは本来持つ力も知恵も発揮できぬ。」
アッシュは自然と背筋を伸ばした。
「……はい。」
ゼノは満足そうに頷く。
「それでいい。」
するとガエンが肩をすくめた。
「相変わらず先生みたいなこと言うな。」
「昔から変わらないね。」
マイトも笑う。
ラーシャはくすりと笑いながらアッシュへ向いた。
「竜王様は厳しいようで、とても面倒見がいい方なんですよ。」
「そうだったのですね……。」
緊張はまだ完全には消えない。
だが先ほどまでの震えは、もう止まっていた。
ゼノは一行を見渡し、穏やかに笑う。
「さて、せっかく温泉街で会ったのだ。積もる話もある。まずは茶でも飲みながら話そうではないか。」
「賛成!」
マイトが真っ先に手を挙げる。
ガエンはニヤリと笑った。
「どうせなら甘味付きな。」
「やっぱりそこですか。」
ラーシャが呆れたように笑うと、ゼノも珍しく小さく吹き出した。
「ふふ……相変わらずだな、お前たちは。」
夕暮れの温泉街に、穏やかな笑い声が響く。
アッシュはその輪の後ろを歩きながら思う。
(竜王……。あれほどの存在が、こんなにも自然に皆と笑っているなんて……。)
世界には、まだ自分の知らない景色が数多くある。
そんなことを、アッシュは初めて実感していた。
ゼノに案内され、一行は温泉街の一角にある落ち着いた茶屋へと入った。
木の香りが漂う店内には、湯気の立つ急須と甘味が並び、窓の外には夕日に染まる街並みが見えている。
「いらっしゃいませ。」
店員に案内され、六人は大きな座卓へ腰を下ろした。
「おっ、この団子うまそうだ。」
ガエンは早速お品書きを眺める。
「俺、この温泉まんじゅう!」
マイトも迷わず注文する。
「甘い物ばかりですね……。」
ラーシャは苦笑しながら温かい煎茶を頼んだ。
ダグラスは黙って湯飲みだけを注文する。
アッシュだけは、まだどこか落ち着かない様子で座っていた。
注文が済み、お茶が運ばれてくると、ゼノが静かに口を開く。
「ところで、お前たちは今どこへ向かっている?」
ガエンは湯飲みを手に取りながら答えた。
「軍事国家バルファードだ。」
「ほう。」
ゼノが静かに頷く。
「何か用事でもあるのか。」
「魔王バラムの運動会を開くためのスポンサー探しだ。」
ガエンはさらりと言った。
アッシュは思わず心の中で叫ぶ。
(普通に言うのか……。)
ゼノも一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに納得したように微笑んだ。
「なるほど。あの魔王らしい発想だ。」
「だろ?」
ガエンは笑ってお茶を一口飲む。
「そのスポンサー候補の一つがバルファードってわけだ。」
「なるほど。」
ゼノは穏やかに頷いた。
その時だった。
ガエンが湯飲みを机に置き、何気ない口調で言う。
「で、このアッシュなんだけどな。」
アッシュの肩がびくりと跳ねる。
「バルファードの諜報だ。」
「ぶっ!」
マイトが飲みかけのお茶を危うく吹き出しそうになる。
「ガエンさん!」
ラーシャが慌てて止める。
だがガエンは平然としていた。
「いや、隠す必要もねぇだろ。」
アッシュは完全に固まっていた。
(終わった……。竜王様の前で正体まで……。)
恐る恐るゼノを見る。
だがゼノは驚くどころか、深いため息をついた。
「……ガエン。」
「ん?」
「お前は変わらんな。」
ゼノは額に手を当て、呆れたように続けた。
「諜報員というものは、正体を知られても周囲には伏せておくのが礼儀だ。」
「そうなのか?」
ゼノは即座に言い切る。
「本人が隠している以上、わざわざ口に出してやるものではない。」
「でも本人にはもうバレてるって分かってたぞ?」
「だからといって、公言してよい理由にはならん。」
穏やかな口調なのに、一切反論を許さない。
ガエンは頭を掻いた。
「そういうもんか。」
「そういうものだ。」
ゼノは小さく息を吐く。
「お前はもう少し、人の立場というものを考えろ。」
「悪ぃ悪ぃ。」
ガエンは全く悪びれた様子もなく笑った。
その様子に、ゼノは再びため息をつく。
「本当に、お前という男は……。」
マイトは肩を震わせながら笑いをこらえていた。
「怒られてる。」
「ですね。」
ラーシャも苦笑する。
ダグラスは無言のままだったが、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
そして何より驚いていたのは、アッシュだった。
(竜王様は……怒っている相手がガエンさんなのか。私が諜報員であることではなく……。)
ゼノは改めてアッシュへ視線を向ける。
「安心しろ。」
穏やかな声だった。
「諜報は国家に仕える者の務めだ。恥じることではない。」
アッシュは思わず目を見開く。
「……はい。」
「ただし。」
ゼノはちらりとガエンを見る。
「この男のような相手は、最初から隠し通せるとは思わぬ方がいい。」
「おい。」
ガエンが笑う。
「それ褒めてんのか?」
「半分はな。」
ゼノは小さく笑った。
その言葉に、張り詰めていた空気は完全に和らぎ、茶屋には再び穏やかな笑い声が広がっていった。




