79.諜報員、驚く
翌朝。
湖畔には朝靄が立ち込め、鳥のさえずりが静かに響いていた。
ガエンは大きく伸びをし、欠伸を一つ。
「よーし、今日も出発だ。」
「うん!」
マイトは元気よく返事をし、荷物を馬車へ積み込んでいく。
ラーシャは焚き火の始末を終え、ダグラスはいつものように無言で荷物を運ぶ。
アッシュも自然と手伝いに加わっていた。
もう誰も彼を警戒していない。
諜報員だと知った今でも、ごく当たり前の旅の仲間として接している。
その空気に、アッシュは少しだけ苦笑した。
(……本当に変わった人達だ。)
やがて全員が馬車へ乗り込み、御者が手綱を鳴らす。
馬車はゆっくりと街道を走り始めた。
午前中いっぱい雪道を進み続ける。
しかし昼が近づくにつれ、景色が少しずつ変わり始めた。
街道脇に積もっていた雪は薄くなり、白一色だった大地に茶色い土が見え始める。
木々の枝を覆っていた氷も消え、小さな緑の芽が顔を出していた。
「おっ。」
ガエンが窓の外を見て笑う。
「抜けたな。」
マイトも身を乗り出す。
「ほんとだ! 雪がない!」
冷たい風だった空気は、いつの間にか柔らかくなっている。
窓から吹き込む風も、頬を刺すような冷たさではなく、春を思わせる穏やかな暖かさを含んでいた。
ラーシャは静かに目を細める。
「氷雪地帯を完全に抜けましたね。」
「助かったぁ。」
ガエンは肩を回す。
「さすがに毎日寒いのは堪える。」
「俺は結構好きだったけどな。」
マイトが笑う。
「雪合戦できるし。」
「お前は年中遊ぶことしか考えてないな。」
ガエンが呆れながら笑う。
「えへへ。」
馬車はさらに進む。
道端には黄色や紫の小さな花が咲き始め、小川には雪解け水が勢いよく流れていた。
アッシュは窓の外を眺め、小さく息をつく。
「……暖かい。」
その一言に、ラーシャが微笑む。
「クリアフォル周辺は特殊ですからね。この先は過ごしやすい土地が続きます。」
「こうして景色が一気に変わるものなんですね。」
「世界は広いぞ。」
ガエンが腕を組む。
「だから旅は面白い。」
「それに。」
マイトが目を輝かせる。
「暖かい地方は食べ物も変わるよ!」
「結局そこか。」
ガエンが笑う。
「だって楽しみじゃん!」
そのやり取りを見ていたアッシュは、思わず吹き出した。
「ふふ……。」
「お。」
ガエンが振り向く。
「笑ったな。」
「いえ……。」
アッシュは少し照れくさそうに口元を押さえる。
「皆さんといると、退屈する暇がありません。」
「そりゃ良かった。」
ガエンは豪快に笑った。
馬車は暖かな風を受けながら、緑が広がる街道を南へと進んでいく。
遠くの地平線には、次なる目的地バルファードへと続く街道が、どこまでもまっすぐ伸びていた。
昼過ぎ、街道沿いの休憩所で馬車が止まる。
屋根付きの東屋と井戸があるだけの簡素な場所だったが、暖かな陽気のおかげで旅人たちは皆、ほっとした表情を浮かべていた。
「ふぅー!」
ガエンは真っ先に分厚い防寒着を脱ぎ、肩を回す。
「やっと軽くなった!」
「暑いくらいだね。」
マイトも手袋やマフラーを外し、嬉しそうに伸びをする。
ラーシャもコートを丁寧に畳み、荷物へしまった。
ダグラスは無言で外套を脱ぐと、いつもの黒装束だけになった。
アッシュも少し迷った末、ゆっくりと防寒着を脱ぐ。
現れたのは黒を基調とした軽装。
口元を覆う布はそのままだが、袖口から覗く肌には人間よりわずかに赤みがあり、指先の爪は少しだけ鋭い。
ガエンはちらりと見たが、特に何も言わない。
「よし、水飲んだら出発するか。」
「うん!」
短い休憩を終えると、一行は再び馬車へ乗り込んだ。
軽くなった服装のおかげで、車内もずいぶん過ごしやすい。
馬車が再び街道を走り始める。
しばらく穏やかな沈黙が続いたあと、アッシュが静かに口を開いた。
「……一つ、お聞きしてもいいですか。」
「ん?」
ガエンが顔を向ける。
アッシュは少し言いづらそうに目を伏せた。
「実は私は……悪魔族なんです。」
車内が静かになる。
だが、その静けさは驚きではなかった。
ガエンは「ああ、やっぱり」というように頷き、マイトも「そうだったんだ」と素直に受け止める。
ラーシャは微笑み、ダグラスも無言のままだ。
アッシュの方が戸惑ってしまう。
「……あまり驚かれないのですね。」
「牙で何となく分かってた。」
ガエンがあっさりと言う。
「隠してる理由があるなら聞かねぇだけだ。」
「そういうこと。」
マイトも笑顔で頷いた。
アッシュは目を瞬かせたあと、小さく苦笑する。
「本当に皆さんは……。」
少しだけ肩の力を抜いたアッシュは、続けて尋ねた。
「魔王軍には……悪魔族の方もいらっしゃるのですか?」
ガエンは即座に頷いた。
「いるぞ。」
「結構いるよ。」
マイトも続ける。
「悪魔族だけじゃない。オーガもいるし、ダークエルフもいるし、獣人もいるし、リザードマンもいる。」
「吸血鬼やゴーレム、スライムなどもいますね。」
ラーシャが指を折りながら付け加える。
「種族はかなり多様です。」
アッシュは少し驚いたように目を見開いた。
「そんなに……。」
「魔王バラムは種族で差別しないからな。」
ガエンが腕を組む。
「働く気があるなら歓迎って感じだ。」
「もちろん悪いことをしたら怒られるけどね。」
マイトが笑う。
「そこは誰でも同じ。」
アッシュは静かに窓の外へ視線を向ける。
(悪魔族だからではなく、一人の仲間として扱う……。)
バルファードでは、悪魔族であることを理由に警戒されたことも一度や二度ではない。
だからこそ、この何気ない会話が、不思議なくらい胸に残った。
「……そういう魔王軍なのですね。」
ラーシャは優しく微笑む。
「ええ。ですから、あなたが悪魔族だと聞いても、私たちにとっては『そうだったのですね』という程度のことですよ。」
「それより。」
ガエンがニヤリと笑う。
「アッシュ、お前は甘い物は好きか?」
「……はい?」
あまりに話題が急転換したため、アッシュは思わず間の抜けた声を上げる。
「この先の街に有名な菓子屋があるらしいんだ。」
「楽しみだよね!」
マイトが身を乗り出す。
「また食べ歩きですか……。」
ラーシャが少し呆れたように笑う。
「旅の楽しみだからな!」
ガエンは豪快に笑い、馬車の中には再び穏やかな笑い声が広がった。
アッシュはその様子を眺めながら、小さく笑みを浮かべる。
(……本当に、不思議な人たちだ。)
そう思いながら、暖かな風が吹き込む窓の外へ、静かに視線を向けた。
馬車は街道をのんびりと進み続ける。
午後の日差しは柔らかく、青空には白い雲がゆっくりと流れていた。
暖かな地方へ入ったことで旅人の姿も増え、反対方向から来る馬車や商人と何度もすれ違う。
やがて日が傾き始めた頃、遠くに湯気のような白い煙がいくつも立ち上っているのが見えてきた。
「お。」
ガエンが窓の外を指差す。
「あれか。」
アッシュも身を乗り出す。
「煙……ですか?」
ラーシャが微笑んだ。
「あれは温泉の湯気ですよ。」
「温泉?」
「地面からお湯が湧き出る場所なんだ。」
マイトが嬉しそうに説明する。
「入ると疲れが吹っ飛ぶよ!」
「へぇ……。」
アッシュは興味深そうに眺める。
馬車が坂を下ると、その街の全景が見えてきた。
あちこちの建物の屋根の向こうから白い湯気が立ち上り、石畳の通りには旅館や土産物屋が立ち並んでいる。
木造の建物が多く、街全体がどこか落ち着いた雰囲気に包まれていた。
「着いたぞー!」
御者が声を張り上げる。
「温泉の街、トウセンだ!」
馬車はゆっくりと停車した。
ガエンは大きく伸びをする。
「ふぅー、結構走ったな。」
「温泉だー!」
マイトは今にも飛び降りそうな勢いだ。
ラーシャは苦笑する。
「まだ宿も決まっていませんよ。」
「そうだった。」
マイトは照れ笑いを浮かべた。
荷物を降ろそうとしたその時、御者が手綱をまとめながら振り返る。
「ちょっといいか?」
「ん?」
ガエンが顔を向ける。
御者は馬たちを優しく撫でながら言った。
「この子たちもだいぶ頑張ってくれたからな。ここでしっかり休ませる。」
馬たちは鼻を鳴らしながら、水桶の方へ歩いていく。
「というわけで。」
御者は笑顔で続けた。
「この街には二泊する。」
「二泊?」
マイトの目がぱっと輝く。
「やったー!」
ガエンも頷く。
「馬も生き物だからな。休ませるのは大事だ。」
「ええ。」
ラーシャも同意する。
「ここまで長距離を走り続けてくれましたから。」
アッシュは少し意外そうな表情を浮かべた。
「予定を変えてでも馬を休ませるのですね。」
御者は穏やかに笑う。
「旅は急ぎ過ぎると、ろくなことにならない。馬が元気でいてくれるからこそ、安全に目的地まで行けるんだ。」
その言葉に、アッシュは静かに頷いた。
「……なるほど。」
「それじゃ。」
ガエンが両手を叩く。
「二日間は温泉の街を満喫できるってことだな!」
「温泉! 美味しいご飯! 甘い物!」
マイトは指を折りながら満面の笑みを浮かべる。
「全部楽しむ!」
「全部食べるの間違いでは?」
ラーシャが苦笑すると、ガエンが豪快に笑った。
「ははは! 違いねぇ!」
ダグラスは相変わらず無言だったが、ほんのわずかに口元が緩んだようにも見えた。




