78.軍師王、語られる
しばらく黙っていたアッシュは、小さく笑った。
「……そうでしたか。」
覆面の奥で目を細める。
「噂は……本当だったんですね。」
「ん?」
ガエンが首を傾げる。
「バルファードでも報告が上がっていました。」
アッシュは静かに語り始める。
「『世界を旅する魔王軍の一団は、各国でスポンサー契約を結び、運動会なる催しを開こうとしている』と。ですが諜報部では誰も信じませんでした。」
苦笑する。
「高度な隠語だろう、と。軍事同盟の暗号ではないか。あるいは各国へ潜入するための偽装工作ではないか、と。」
ガエン達は顔を見合わせ、次の瞬間。
「ぶはははははっ!」
ガエンが腹を抱えて笑い出した。
「考えすぎだろ!」
マイトも吹き出す。
「ただ運動会したいだけなのに!」
ラーシャは口元を押さえ、上品に笑う。
ダグラスだけは表情を変えず、小さく呟いた。
「まあ……普通は信じない。」
その一言に、今度はアッシュまで肩を震わせて笑ってしまった。
「ええ。」
諜報員として初めてだった。
報告書に書かれていた内容が、信じられないほど馬鹿馬鹿しく、そして完全に事実だったのは。
焚き火を見つめながら、ガエンは苦笑した。
「しかし、そんな理由だけでここまで警戒されるとはな。」
薪がぱちりと音を立てる。
「軍師王レムルスってのは、ずいぶん慎重なんだな。」
その名を聞いた瞬間。
アッシュの表情から笑みが消えた。
「……慎重。」
小さく呟く。
「ええ。それだけではありません。」
焚き火の炎を見つめたまま、静かに続ける。
「レムルス王は、私が知る限り、この大陸で最も恐ろしい軍師です。」
マイトが首を傾げる。
「そんなに強いの?」
「武勇ではありません。」
アッシュは首を横に振った。
「頭脳です。」
その一言だけで、空気が少し引き締まる。
「レムルス王は、どんな小さな違和感も見逃しません。商人が一人増えた。兵士が一人減った。街道を通る馬車の数がいつもより一本多い。それだけで何かを疑い始めます。」
ガエンは「へぇ」と感心したように腕を組んだ。
アッシュはさらに続ける。
「敵が嘘をつくことも計算済み。本当のことだけを話していても、その本当の話を利用して罠を張ってくる。」
ラーシャが静かに頷いた。
「情報を読むのではなく、人の思考そのものを読むタイプですか。」
「その通りです。」
アッシュは頷く。
「だからバルファードではこう言われています。」
少し間を置いて、低い声で告げた。
「『レムルス王を騙そうとするな。騙そうと思った時点で、すでに読まれている』と。」
マイトが思わず目を丸くする。
「すごい人なんだ……。」
「ええ。」
アッシュは苦笑した。
「諜報部では、レムルス王への報告書に推測を書くことは禁じられています。推測を書けば、その推測が生まれた理由まで質問される。理由を書けば、その根拠を求められる。根拠を書けば、証拠を持ってこいと言われる。証拠を持っていけば、その証拠が本物である証拠を求められる。」
ガエンが思わず吹き出した。
「面倒くせぇな!」
「だからこそ軍師王なのです。」
アッシュは真顔で答える。
「中途半端な情報を最も嫌うお方です。」
ダグラスが腕を組んだまま呟く。
「疑うことをやめない男か。」
「はい。」
アッシュは静かに頷いた。
「そして一度『敵』と判断した相手には、一切容赦しません。」
焚き火が揺れる。
「戦が始まる前に兵糧を断ち、補給路を潰し、同盟を切り崩し、逃げ道まで塞ぐ。気づいた頃には、戦う前から勝負が終わっています。」
その話を聞いても、ガエンは不敵に笑った。
「なるほど。」
腕を組み、炎の向こうを見つめる。
「そりゃ会うのが楽しみになってきた。」
アッシュは思わず目を見開いた。
「……楽しみ、ですか?」
「頭の切れる相手なんだろ?」
ガエンは笑う。
「スポンサーの話をするなら、そういう相手のほうが話し甲斐がある。」
アッシュは一瞬言葉を失い、やがて小さく息を吐いて苦笑した。
「やはり……皆さんは普通ではありませんね。普通の人なら、レムルス王の名を聞いただけで身構えます。」
ガエンは肩をすくめる。
「俺達、戦争しに行くわけじゃねぇからな。運動会のスポンサーを頼みに行くだけだ。」
その一言に、アッシュは額を押さえながら小さく笑った。
(この人たちは……レムルス王相手にも、本気でその話しかしないつもりなのか。)
そのあまりの一貫性に、諜報員としての常識がまた一つ音を立てて崩れていくのだった。
焚き火の火が静かに揺れる。
笑いもひと段落した頃、不意にガエンがアッシュへ視線を向けた。
「そういやさ。」
「はい?」
「お前、諜報員だってバレちまったけど。」
ガエンは首をかしげる。
「罰とか受けるのか?」
マイトも心配そうな顔になる。
「怒られたりしない?」
ラーシャも静かにアッシュを見る。
「任務失敗という扱いになる可能性は?」
アッシュは少し考え、苦笑した。
「……多分、大丈夫です。」
「多分?」
ガエンが笑う。
「なんだその歯切れの悪さ。」
「今回の任務は『調査』です。潜入工作でも暗殺でもありません。」
アッシュは焚き火へ視線を落とした。
「正体を隠すことは望ましいですが、それ自体が最優先ではありません。目的は皆さんを観察し、事実を持ち帰ることです。」
「なるほど。」
ラーシャが頷く。
「では、成果さえあれば問題ないと。」
「ええ。」
アッシュは小さく頷いた。
「むしろ……。」
少し困ったように笑う。
「今回ほど報告書を書くのに困る任務もありません。」
「なんで?」
マイトが首をかしげる。
アッシュは真面目な顔で答えた。
「内容が、そのまますぎるからです。『魔王軍幹部一行は運動会開催のためスポンサー集めを行っている。各国で芸人や音楽家も勧誘している。敵対意思は確認できず』……。」
一度口を閉じる。
「これを提出しても、『もっと真面目に書け』と言われる未来しか見えません。」
一同は数秒沈黙し――。
「ぶはははは!」
ガエンがまた腹を抱えた。
「確かに!」
マイトも笑い転げる。
「信じてもらえないよ、それ!」
ダグラスだけが無表情のまま呟く。
「全部、本当だな。」
「だから困るんです。」
アッシュは肩を落とした。
「嘘を一つも書いていないのに、最も信用されない報告書になります。」
ラーシャはくすりと笑う。
「諜報員としては珍しい悩みですね。」
「ええ。」
アッシュも苦笑する。
「普通は証拠が足りなくて悩みます。」
少し間を置く。
「今回は、証拠がありすぎて困っています。」
「絵でも描いてやるか?」
ガエンが冗談半分で言う。
「『魔王軍、運動会スポンサー交渉中』って。」
「余計に偽造だと思われます。」
アッシュは即答した。
「ですよね。」
ラーシャが微笑む。
「でもレムルス王ほどのお方なら、逆に事実だと判断されるかもしれませんよ。」
その言葉に、アッシュは少し考え込んだ。
「……いえ。」
ゆっくり首を振る。
「レムルス王なら、まず私を呼ぶでしょう。『この報告書を書いた理由を説明しろ』と。」
ガエンは笑いながら薪を放り込む。
「大変だな、お前の仕事。」
「ええ。」
アッシュは苦笑を浮かべたまま頷いた。
「ですが、一つだけ断言できます。」
「ん?」
「私は、この旅で見たことを一切脚色せず、そのまま報告します。」
炎を見つめながら、静かに続ける。
「皆さんが敵ではなく、本気で世界中に運動会を広めようとしていることも。レムルス王なら、その報告書を読んでどう判断するか……。」
そう呟くアッシュの声には、諜報員としての緊張と、一人の人間としてのわずかな期待が入り混じっていた。




