37.穴、不気味な気配を漂わす
その後も旅は続いた。
昼を過ぎ午後になり、太陽がゆっくり西へ傾いていく。山岳地帯の影が長く伸び始めた頃だった。
先頭を歩いていたマイトがふと足を止める。
「ん?」
同時だった。
隣を歩いていたゼノも顔を上げる。
金色の瞳が遠くを見る。
ガエンが気付く。
「どうした。」
マイトは山の尾根を見た。
「今。」
ゼノも同じ方向を見ている。
「いたな。」
空気が張り詰めた。
ラーシャが杖を握る。
ナラも羽音を止めた。
「何が?」
マイトは指をさす。
遥か遠く山の岩場、夕日に照らされた場所。
ほんの一瞬だけ黒い影が立っていた。
人影にも見える。獣にも見える。
だが次の瞬間消えた。
そこには何もいない。
ガエンが目を凝らす。
「見えねえ。」
「消えた。」
マイトが言う。ゼノも頷く。
「逃げたな。」
「知り合い?」
ナラが気軽に聞く。
ゼノは首を横に振った。
「知らん。」
「じゃあ敵?」
「分からん。」
「味方?」
「分からん。」
「結局分からないじゃん。」
「分からんものは分からん。」
ゼノは真顔だった。
だがその時マイトが珍しく真剣な顔になる。
「でも。」
全員が見る。
マイトは消えた岩場を見つめていた。
「なんか。」
少し考える。そして首を傾げた。
「見られてる気がする。」
その言葉に。
ガエンの背筋を冷たいものが走った。
なぜならマイトは基本的に危機感がない。
美味しい匂いを追って魔物の巣に入る。
珍しい石を見つけて行方不明になる。
崖から落ちても平然としている。
そんな男だ。
そのマイトが。
「見られてる気がする。」
そう言った。
ゼノも静かに目を細める。
「うむ。」
珍しく同意した。
「かなり前からな。」
ガエン達の表情が固まる。
「かなり前から!?」
「朝からだ。」
「もっと早く言え!」
思わず叫ぶガエン。
だがゼノは不思議そうな顔をした。
「出てこぬからな。」
「だからって!」
「気にならなかった。」
「なるだろ普通!」
ナラは笑っている。
ラーシャは半泣きである。
ラーシャは杖を抱きしめるように握った。
「わ、私もう帰りたいです……。」
「まだ何も起きてないぞ。」
ガエンが言う。
「それが一番怖いんです!」
正論だった。
マイトはそんなやり取りを聞きながら空を見上げる。
「暗くなってきたね。」
全員が空を見る。
いつの間にか山の稜線に太陽が沈みかけていた。
山岳地帯は日が落ちるのが早い。
周囲は急速に薄暗くなり始めている。
「今日はどこかで野営だな。」
ガエンが地図を確認する。
「近くに休憩用の広場があったはずだ。」
「了解。」
マイトが頷く。
「じゃあ行こう。」
そして一行は再び進み始めた。
周囲は徐々に夜の色へ染まっていく。
やがて視界が悪くなり始めた頃、ナラがふわりと前へ飛び出した。
「はいはいー。」
小さな手を前に突き出す。
ぽうっ。
柔らかな白い光が生まれた。
光球は一行の頭上を漂い、周囲を昼間ほどではないが十分見渡せる程度に照らす。
「便利だな。」
ガエンが感心する。
「でしょー?」
ナラは得意げに胸を張った。
「ピクシーだからね!」
「関係あるのかそれ。」
「多分ある!」
「多分かよ。」
いつもの調子だった。
しかし、その時だった。
先頭を歩いていたマイトが足を止める。
「ん?」
光球の明かりが前方の岩壁を照らす。
ゼノも立ち止まった。
「どうした。」
ガエンが尋ねる。
マイトは地面を指差した。
「穴。」
全員が近付く。
そこには山肌の根元にぽっかりと黒い穴が開いていた。直径は三メートルほど。
洞窟にも見える。
だがガエンは眉をひそめた。
「……なんか変だな。」
「うん。」
マイトも頷く。
自然の洞窟なら入口付近に風化した岩や崩れた土がある。
だが目の前の穴は違った。まるで巨大な何かが地面をくり抜いたように綺麗だった。輪郭が妙に整っている。
ゼノが近付き穴の縁を指でなぞった。
「自然ではないな。」
その一言で全員の空気が変わる。
ラーシャが恐る恐る覗き込む。
光球が中を照らした。だが奥は見えない。闇が続いている。
「こ、こんな場所、地図にありましたっけ……。」
「いや。」
ガエンは首を振った。
「載ってない。」
ナラが穴の周囲を飛び回る。
「誰か掘ったとか?」
「山岳地帯の岩盤をか。」
ガエンが言う。
「普通の人間じゃ無理だろ。」
その時ゼノがゆっくり穴の奥へ視線を向けた。
金色の瞳がわずかに細まる。
「……。」
珍しく無言だった。
マイトも覗き込む。
そして。
「あれ?」
首を傾げる。
「どうした。」
ガエンが聞く。
マイトは穴の奥を指差した。
「今。」
全員が見る。
しかし何も見えない。
「何かいたのか?」
「いたような。」
「ような?」
「うん。」
マイトは困った顔になる。
「誰かと目が合った気がした。」
ラーシャの顔色が一気に青くなった。
「や、やめてください!」
その瞬間。
ごうっ。
穴の奥から冷たい風が吹き出した。
全員の髪が揺れる。
ナラの光球もふらりと揺れた。
冷たい風は一瞬だった。
だが、その場にいた全員が妙な感覚を覚えた。
まるで風ではない。
誰かの吐息が穴の奥から流れてきたような。
ラーシャは反射的にガエンの後ろへ隠れる。
「い、嫌です! 絶対嫌なやつです!」
「落ち着け。」
そう言いながらガエンも内心では全く落ち着いていなかった。
ナラもさすがに笑顔を引っ込める。
「うーん……なんか変。」
ゼノは黙ったまま穴を見つめている。
マイトは相変わらず興味津々で一歩前へ出た。
「入ってみる?」
「却下だ!」
ガエンのツッコミが即座に飛んだ。
「夜だぞ! しかも正体不明の穴だぞ!」
「でも気になる。」
「俺だって気になる!」
「じゃあ。」
「入らん!」
「なんで?」
「なんでだと思う!?」
いつものやり取り。
だがその最中だった。
ぱたん。
小さな音が響く。
全員が振り向く。
そこには一人だけ今まで何が起きても全く興味を示さず、本を読み続けていた男がいた。
罪人、死霊使いゼル=グラード。
彼は静かに本を閉じていた。
ガエンが思わず目を見開く。
「……お前、何を?」
反応がない。
ゼルは穴を見ていた。
それも今まで見せたことのないほど真剣な目で。
「興味持つなんて珍しいね。」
ナラが言う。
ゼルはゆっくり歩き出した。
誰も止めない。
というより止めるのを忘れた。
あのゼルが自分から動いたのだ。
本を読んでいる時以外ほとんど何にも興味を示さない男が。
一歩。また一歩、穴へ近付く。
風が吹く。
黒い髪が揺れる。
そして穴の縁まで来たゼルは、しばらく何も言わず奥を見つめた。
数秒の沈黙。
やがて。
「……なるほど。」
初めて興味深そうな声が漏れた。
全員の視線が集まる。
ガエンが聞く。
「何か分かったのか。」
ゼルは答えない。
代わりにしゃがみ込み、穴の縁の岩へ触れた。
指先でなぞる。
そしてほんの僅かに眉が動いた。
「面白いですね。」
ラーシャが震える。
「そ、その面白いは良い意味ですか……?」
「知りません。」
最悪の返答だった。
ガエンが頭を抱える。
「頼むから詳しく言え。」
ゼルはゆっくり立ち上がった。
そして穴の奥へ視線を向けたまま言う。
「この穴。」
全員が息を呑む。
「掘られたものではありません。」
「は?」
ガエンが眉をひそめる。
「じゃあ何だ。」
ゼルは少しだけ考えるように沈黙し。
そして静かに告げた。
「何かが通った跡です。」
その瞬間。
全員の背筋に悪寒が走った。
ガエンが乾いた声を出す。
「……何かって何だ。」
ゼルは答えない。
代わりに穴の奥を見続ける。
まるで遥か先にいる何かを見ているように。
そして本当に僅かにゼル=グラードが笑った。
「さて。」
その声に全員が嫌な予感を覚えた。
「久しぶりに退屈しなさそうですね。」
その直後穴の奥深くから。
カラン。
何か硬いものが転がる音が聞こえた。
まるで。誰かがこちらへ向かって歩き始めたかのように。
カラン。
また音がした。今度は少し近い。
全員が無言になる。
穴の奥。
光の届かない闇の中。
何かがいる。
そう理解した瞬間だった。
ずるり。
闇が動いた。
「――っ!」
ラーシャが息を呑む。
何かが穴の奥から這い出てくる。
だが、それは生き物ではなかった。
少なくとも誰も生き物だとは思えなかった。
黒かった。ただ黒い。輪郭がない。頭も腕も脚もない。
それなのに前へ進んでいる。
まるで空間から切り取られた夜そのものが地面を這っているようだった。
光球の明かりが当たる。
しかし照らせない。
光が黒に触れた瞬間、吸い込まれるように消えていく。
ナラが目を見開いた。
「なにこれ。」
誰も答えられない。
黒い何かは穴からゆっくりと這い出てくる。
ぐにゃり。
形が変わる。液体のように見えた。だが次の瞬間には煙のようになった。そしてまた影のようになる。
どれも違う。
何にも似ていない。
だからこそ不気味だった。
ガエンが拳を握る。
「おいゼル。」
「はい。」
「これ何だ。」
「.......。」
ゼルは無言でそれを見つめる。
そしてぽつりと言った。
「死霊の集合体。」
ゼルの言葉に全員が固まった。
「死霊?」
ガエンが聞き返す。
ゼルは頷いた。
「正確には違いますね。一人や二人ではありません。」
黒い何かを見つめながら続ける。
「大量です。」
その瞬間。
ずるり。
黒い塊の表面が波打った。
そして人の顔が浮かび上がった。
「――ッ!?」
ラーシャが悲鳴を飲み込む。
顔だった。
男。
女。
老人。
若者。
無数。
苦痛に歪んだ顔が黒い表面から次々と現れては沈み、現れては沈む。
まるで溺れているように。
「た、助け――」
声が聞こえた。
誰かの声。
次の瞬間。
「いやだ。」
別の声。
「帰りたい。」
「痛い。」
「暗い。」
「誰か。」
何十人もの声が重なった。
ナラの顔から血の気が引く。
「これ……。」
ゼルが静かに言う。
「行方不明になった冒険者達でしょう。」
ガエンが歯を食いしばる。
最近この山で増えていた失踪事件。
冒険者。
薬草採取者。
行商人。
戻ってこなかった者達。
その全てが今目の前にいる。
死者として。
ずるり。
黒い集合体がさらに前へ出る。
だがゼルは眉をひそめた。
「おかしいですね。」
「何がだ。」
「死霊が自分で動いていない。」
全員が顔を向ける。
ゼルは穴の奥を指差した。
「見てください。」
誰も見えない。
だがゼルだけは見えているらしい。
「糸です。」
「糸?」
「死霊を繋ぐ霊力の糸。」
その声は僅かに低かった。
「全部、奥へ伸びている。」
その言葉にガエンの背筋を冷たい汗が流れた。
つまり目の前の怪物は本体ではない。
操り人形だ。
死者の残骸を無理矢理繋ぎ合わせただけのもの。
では操っている本体はどこにいる。
答えは一つだった。
穴の奥。
さらに深く。
その時だった。
黒い集合体の口が一斉に開いた。
数十人の声が重なる。
『みつけた。』
全員が凍り付く。
『みつけた。』
『みつけた。』
『みつけた。』
声が反響する。
だがその声は冒険者達のものではない。
もっと幼い。もっと歪んだ。
何か別の存在の声だった。
ゼルの目が細くなる。
「……なるほど。」
珍しく本当に興味を示した顔だった。
『みつけた。』
『またきた。』
『こんどはいっぱい。』
『たのしい。』
その瞬間穴の遥か奥。光の届かない闇のさらに向こうで何かが笑った。
ケタケタケタケタ。
子供のような笑い声。
だが聞いた瞬間、本能が理解する。
人間ではない。
絶対に違う。
ナラが震える声を出した。
「ねえ。」
誰も返事をしない。
「今の聞こえたよね。」
ガエンは無言で拳を構える。
ラーシャは杖を握る手が震えていた。
そして、ずっと能天気だったマイトでさえ初めて穴の奥を見て眉をひそめた。
「変だな。」
その一言に全員が振り向く。
マイトは首を傾げている。
「なんであんなに死霊がいるんだろ。」
ゼルが答える。
「餌でしょう。」
「餌?」
「ええ。」
ゼルの金色の瞳が闇を見据える。
「奥にいる何かは、餌を集めている。」
「何のために。」
数秒の沈黙。
そして死霊使いは静かに告げた。
「育つためです。」
空気が凍った。
その直後、穴の奥から。
ズズズズズズズ――――。
巨大な何かが身じろぎする音が響いた。




