36.竜王、説教をする
竜王と勇者と魔王軍幹部と一緒に温泉に入った後、アッシュは部屋に戻って報告書を書いてから眠りについた。
その翌朝。
朝日が障子越しに差し込み、宿の廊下には味噌汁の香りが漂っていた。
アッシュは目を覚ますと身支度を整え、一階の食堂へ向かう。
「……。」
暖簾をくぐった瞬間、思わず足が止まった。
「お、起きたか。」
ガエンが焼き魚を頬張りながら手を上げる。
「おはようございます。」
ラーシャが微笑み、マイトも元気よく手を振る。
「おはよー!」
ダグラスは黙って茶をすすっている。
そして、その隣では、
「……。」
何事もないような顔で焼き魚を箸でほぐしているゼノ。
あまりにも自然な光景だった。
(竜王が……普通に朝食を食べている。)
昨日までなら想像すらできなかった光景である。
「どうした。」
ゼノが顔を上げる。
「座らぬのか。」
「……い、いえ。」
慌てて席へ着くアッシュ。
宿の女将が笑顔で朝食を運んできた。
「はい、お待たせしました。」
焼き魚、白米、味噌汁、温泉卵、漬物。
ごく普通の朝食だ。
しかしその向かいでは、世界最強クラスの竜王が味噌汁を飲んでいる。
どうにも現実感がない。
ガエンはそんなアッシュを見て吹き出した。
「まだ慣れねぇか?」
「……慣れる方がおかしいと思います。」
「ははは!」
一同が笑う。
ゼノだけは静かに味噌汁を置いた。
「美味いものは、美味い。」
「その通りだ。」
ダグラスが短く頷く。
「身分で飯の味は変わらん。」
「そういうこと。」
ガエンも茶碗を持ち上げる。
「肩書なんて飯食う時には関係ねぇ。」
アッシュは思わず苦笑した。
(この人達は、本当に変わっている。)
魔王軍。勇者。竜王。
本来なら決して同じ食卓を囲むことなどない面々が、朝から焼き魚の焼き加減について話している。
常識がまたひとつ崩れていく。
食事が一段落すると、ガエンは大きく伸びをした。
「さて、今日はどうする?」
マイトが尋ねる。
ガエンは指を一本立てた。
「出発は明日だ。今日は丸一日自由。」
ラーシャも頷く。
「馬も休ませないといけませんしね。温泉街を見て回るのもいいですし、お土産を見るのも楽しそうです。」
「俺は甘いもん食いたい!」
マイトが真っ先に言う。
「昨日見つけた温泉まんじゅう、まだ食べてないんだ。」
「朝からか。」
ダグラスが呆れたように言う。
「別腹だから!」
「お前の腹はいくつある。」
再び笑いが起きる。
ガエンはアッシュへ視線を向けた。
「アッシュ。」
「はい。」
「お前も好きに過ごせ。」
「え?」
「せっかく温泉街にいるんだ。」
「諜報だ任務だって考えるのは、今日は休み。」
アッシュは少し困ったように笑う。
「そんな日があってもいいんでしょうか。」
「あるある。」
マイトが即答する。
「休まないと疲れちゃうし。」
ラーシャも優しく頷いた。
「心を休める時間も、大切ですよ。」
アッシュはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……では、お言葉に甘えます。」
「よし。」
ガエンは満足そうに立ち上がる。
「今日の目標!」
拳を掲げる。
「温泉街を満喫する!」
「おー!」
マイトだけが勢いよく拳を上げた。
ラーシャは苦笑し、ダグラスは無言で席を立つ。
ゼノは静かに湯呑みを置いた。
「ならば、我も少し街を歩くとしよう。」
その一言で、アッシュの箸がぴたりと止まる。
(竜王が……温泉街を散策。)
またしても、誰も想像できない一日が始まろうとしていた。
宿を出ると、朝の温泉街はすでに活気に満ちていた。
石畳の道の脇には土産物屋が軒を連ね、湯気の立ち上る足湯には旅人たちが腰掛けている。
硫黄の香りと、どこか甘い菓子の匂いが風に乗って流れてきた。
「うわぁ……!」
マイトの目が輝く。
「あれだ!」
一直線に向かった先には、蒸したての温泉まんじゅうを売る店。
「一つください!」
店主から受け取るなり、熱々を頬張る。
「……っ、うまぁ!」
幸せそうに目を細めるマイト。
「皮がふわふわ! あんこもしっとりしてる!」
「そんなに美味いのか。」
ガエンが一つ買って口へ運ぶ。
「……お、確かに。」
「でしょ!」
ラーシャも小さく一口食べる。
「甘さが上品ですね。」
アッシュも勧められて食べてみる。
「……これは。」
思わずもう一口。
「美味しいです。」
「だろ?」
マイトはすでに二個目を注文していた。
「お前、本当に食うな。」
ダグラスが呆れる。
「今日は食べ歩きの日だから!」
胸を張るマイトに、一同は苦笑する。
その一方で。
「……。」
ゼノだけは別の店の前で立ち止まっていた。
炭火の上で、香ばしい匂いを漂わせながら焼かれている鮎。
「ほう。」
店主が顔を上げる。
「兄さん、一本どうだい?」
「いただこう。」
焼き上がった鮎を受け取ると、ゼノは静かにかぶりついた。
ぱりっ。
皮が心地よい音を立てる。
香ばしい香りと、淡白で上品な身。
「……美味い。」
短い一言だったが、その表情はどこか満足そうだった。
ガエンが横から覗き込む。
「気に入ったか。」
「川魚は久しい。」
ゼノは尾の先まで丁寧に食べ進める。
「この香ばしさは良い。」
店主は感心したように笑った。
「兄さん、食べ方が綺麗だねぇ。」
「骨まで無駄なくいただく。」
「鮎も本望だ。」
ガエンが笑う。
「竜王に褒められた鮎だな。」
店主はもちろん相手が竜王だとは知らず、豪快に笑っていた。
「また寄ってくれ!」
「うむ。」
穏やかに頷くゼノ。
そんな何気ないやり取りを見ながら、アッシュはぼんやり思う。
(世界の頂点に立つ存在が……屋台で鮎を食べている。)
誰に対しても威圧することなく、普通の旅人として街を歩く。
その姿は、昨日まで抱いていた竜王の印象とはあまりにも違っていた。
その後も一行はのんびりと温泉街を歩き続ける。
湯気の立つ温泉玉子を売る屋台。
色鮮やかな風車が並ぶ露店。
湯の花を詰めた小袋や木彫りの土産物。
マイトはあちこちへ目を輝かせ、ガエンは適当に冷やかし、ラーシャは可愛らしい小物を眺め、ダグラスは無言で付き添う。
やがて、人通りが少しずつ減り始めた。
坂道を登るにつれ、硫黄の匂いが一段と濃くなる。
地面のあちこちから白い蒸気が立ち上っていた。
「ここまで来ると源泉が近いですね。」
ラーシャが周囲を見回す。
岩肌の隙間から絶えず熱湯が湧き出し、小さな湯川となって流れている。
「あった!」
マイトが前方を指差した。
少し開けた場所に、大勢の観光客が集まっている。
中央には丸い岩場。
その中心には大きな穴が開いており、湯気が絶えず噴き上がっていた。
「間欠泉だ。」
ガエンが説明する。
「一定の時間になると、勢いよく熱湯が噴き出すらしい。」
「自然とは不思議なものですね。」
ラーシャが感心する。
周囲には木製の柵が設けられ、「危険・立入禁止」と書かれた札が立っている。
「もうすぐ噴き出しますよ!」
近くにいた案内人が観光客へ声をかけた。
人々は期待した様子で穴へ視線を向ける。
アッシュも思わず身を乗り出した。
(これが……間欠泉。)
軍事国家で育った彼にとって、こうした自然現象を間近で見る機会はほとんどない。
ゼノも静かに穴を見つめる。
「地の呼吸が形となったものか。」
その金色の瞳には、長い時を生きてきた竜ならではの静かな興味が宿っていた。
次の瞬間、地の底から低い唸りのような音が響き始めた。
ごごごごご……
地の底から響く低い音が、足元をわずかに震わせる。
「来るよ!」
案内人が声を張り上げた。
次の瞬間、
ゴォォォォォッ!!
轟音とともに、白い熱湯の柱が天高く噴き上がった。
「おおっ!」
観光客たちから一斉に歓声が上がる。
十数メートルはあろうかという湯柱が青空へ向かって一直線に伸び、太陽の光を受けて細かな飛沫が虹色に輝いた。
辺り一面が白い蒸気に包まれ、熱気がふわりと押し寄せる。
「すごーい!」
マイトが目を輝かせる。
「思ってたより高い!」
ガエンも腕を組みながら感心したように頷いた。
「こりゃ迫力あるな。」
ラーシャは思わず胸の前で手を合わせる。
「自然の力とは、本当に偉大ですね……。」
ダグラスも珍しく視線を上へ向けたまま呟く。
「人の力では敵わんな。」
アッシュは言葉を失っていた。
(これほどの湯が……地面から。)
柱は轟音を響かせながら吹き続け、湯煙が風に流れていく。
軍事国家バルファードでは巨大な攻城兵器や魔導砲も見てきた。
だが、それらとはまるで違う。
誰かが造ったものではなく、大地そのものが生み出す力。
思わず息をのむしかなかった。
「……美しい。」
気付けば、そんな言葉が口から漏れていた。
ゼノは静かに頷く。
「うむ。」
短い返事だった。
しかし、その瞳は噴き上がる間欠泉を見つめたまま動かない。
「数百年ぶりに見ても、飽きぬものだ。」
「数百年……。」
アッシュが思わず聞き返す。
ゼノは穏やかに答えた。
「我が若き頃にも見た。」
「若き頃って何年前なんだ?」
ガエンが苦笑する。
ゼノは少し考えるように空を見上げた。
「正確には覚えておらぬ。」
「覚えてないのかよ。」
「長命ゆえな。」
あまりにも自然な返答に、一同から笑いが漏れる。
マイトは間欠泉を見上げながら感心した。
「ドラゴンって、こんなのも昔から見てるんだ。」
「山も川も、火山も。」
ゼノは静かに言う。
「長く生きれば、大地の変化を見る機会も多い。」
その言葉には、自慢する響きはなかった。
ただ、長い時を生きた者だけが知る事実を語っているだけだった。
やがて、勢いよく噴き上がっていた湯柱は少しずつ細くなり、
ゴォォ……
という音も静まっていく。
最後に大きく湯を吹き上げると、
しゅううう……
白い蒸気だけを残して、間欠泉は静けさを取り戻した。
辺りには拍手が起こる。
「いやぁ、見事だった!」
「初めて見た!」
観光客たちは満足そうに笑い合い、それぞれ帰り始めた。
マイトも満面の笑みで振り返る。
「来てよかったね!」
「ああ。」
ガエンも笑う。
「温泉まんじゅうだけじゃなく、こういうのも旅の醍醐味だ。」
アッシュも静かに頷いた。
「……はい。」
諜報員として各地を巡ってきた。
しかし任務ではない旅で見る景色は、こんなにも心に残るものなのかと、少しだけ驚いていた。
その時、ゼノが山の方へゆっくりと視線を向ける。
「この先に、小さな展望台がある。」
「知ってるんですか?」
ラーシャが尋ねると、ゼノは微かに笑った。
「昔はよく、あそこで昼寝をした。」
「竜王が?」
ガエンが吹き出す。
「温泉入って、鮎食って、展望台で昼寝か。」
「実に平和だな。」
ダグラスがぽつりと言う。
ゼノは少しだけ肩をすくめた。
「良き場所であれば、誰しも同じことを考える。」
その言葉に、一同は顔を見合わせる。
「じゃあ行ってみよう!」
マイトが元気よく先へ駆け出した。
「展望台なら景色も良さそう!」
「走るな、転ぶぞ。」
ガエンが笑いながら後を追い、一行は湯煙の立ち上る山道を、展望台へ向かってゆっくりと歩き始めた。
山道は緩やかな上り坂になっていた。
両脇には背の高い木々が並び、木漏れ日が石畳をまだらに照らしている。
遠くでは川のせせらぎが聞こえ、時折、硫黄の香りを含んだ風が吹き抜けた。
「空気が気持ちいい!」
先頭を歩くマイトが大きく息を吸い込む。
「温泉街とはまた違う匂いだね。」
「山の風と温泉の蒸気が混じっているのでしょう。」
ラーシャも穏やかに微笑んだ。
しばらく歩くと、木々が途切れた。
目の前には木造の小さな展望台。
手すり越しには、温泉街全体が見渡せる絶景が広がっていた。
「……おお。」
ガエンが思わず声を漏らす。
眼下には湯煙を上げる温泉街。
屋根の並ぶ街並みの向こうには川が流れ、その先には緑深い山々が幾重にも連なっている。
あちらこちらから立ち上る白い湯煙が風に流れ、まるで雲が街に降りてきたようだった。
さらに遠くには、先ほどまでいた間欠泉から細く立ち上る蒸気も見える。
「すごい……。」
アッシュは思わず息をのんだ。
「街が全部見える。」
「綺麗ですねぇ……。」
ラーシャも目を細める。
ダグラスは静かに腕を組み、
「戦場とは縁のない景色だな。」
と呟いた。
「こういう場所で昼寝したくなる気持ち、ちょっと分かるかも。」
マイトが笑う。
ガエンも柵にもたれながら頷いた。
「確かにな。時間を忘れそうだ。」
しばらく誰も喋らなかった。
吹き抜ける風だけが静かに頬を撫で、鳥の鳴き声が山々へ響いていく。
旅を続ける者たちは、それぞれの思いで景色を眺めていた。
その静寂の中、不意にゼノが金色の瞳を細める。
「……ふむ。」
その声だけで、ガエンが振り返った。
「どうした?」
ゼノは展望台からさらに奥、山道の先にある森へ視線を向けたまま答える。
「騒がしい者たちがおる。」
「獣ですか?」
ラーシャが尋ねる。
ゼノは首を横に振った。
「違う。」
耳を澄ませるように一瞬目を閉じる。
「足音が十二。武器を携え、息を潜めている。」
アッシュの表情が引き締まる。
「待ち伏せ……。」
「そのようだ。」
ゼノは小さくため息をついた。
「またか。」
どこか呆れたような声音だった。
ガエンが苦笑する。
「知り合いじゃないよな?」
「知らぬ。」
ゼノは即答した。
「だが、この道は観光客も通る。放置すれば旅人が襲われるだろう。」
マイトも展望台の下を見下ろす。
「盗賊?」
「恐らくな。」
ゼノは静かに踵を返した。
「少々、説教をしてくる。」
その言い方は、まるで道端に落ちた石をどかしに行く程度の軽さだった。
アッシュは思わず目を瞬かせる。
(竜王の言う『説教』とは……。)
色々と想像したが、不安しか湧いてこない。
ガエンは肩を竦めて笑う。
「盗賊ども、ご愁傷様だな。」
「行こう。」
ゼノは淡々と森へ向かって歩き始める。
一行も顔を見合わせると、その後を追って静かな山道を進み始めた。
山道を数分ほど進むと、木々の隙間が少し開けた場所へ出た。
そこには粗末な野営の跡があり、岩陰や木の陰に武器を持った男たちが潜んでいる。
まだこちらには気づいていないつもりなのだろう。
だが、ゼノは隠れる気などまるでなかった。
そのまま堂々と歩いていく。
「……いたな。」
ガエンが一言だけ呟く。
「十二人、ぴったりですね。」
ラーシャも小さく頷いた。
盗賊たちはようやく異変に気づき、一人、また一人と姿を現す。
剣、斧、槍。
思い思いの武器を構えながら、じりじりと包囲を狭めてきた。
その様子を見ても、ガエンは欠伸を一つ。
「終わるまで座ってるか。」
そう言うと近くにあった大きな岩へどかりと腰を下ろした。
「そうだね。」
マイトも隣へ腰掛け、足をぶらぶらさせながら眺め始める。
「何秒で終わるかな?」
「数えるだけ無駄だ。」
ダグラスは木の幹へ背を預け、腕を組む。
まるで退屈な見世物でも待つような態度だった。
一方、ラーシャは周囲を見回すと、
「あ、薬草があります。」
と嬉しそうにしゃがみ込み、山道の脇に生えていた薬草を一本ずつ丁寧に摘み始めた。
「あとで乾燥させれば使えそうですね。」
誰一人として盗賊を警戒していない。
アッシュだけが取り残されたように立ち尽くしていた。
「え……ちょ、ちょっと待ってください!」
慌ててガエンたちを見る。
「戦わないんですか!?」
「ん?」
ガエンはきょとんとした。
「ゼノがいるし。」
「いや、そういう問題では……!」
マイトも笑顔で手を振る。
「大丈夫、大丈夫。」
「大丈夫って……。」
アッシュは盗賊たちと仲間たちを交互に見比べる。
(なんでこんなに落ち着いていられるんだ……。)
その時だった。
「なめるなぁぁぁ!」
盗賊の一人が怒号を上げ、剣を振りかざしてゼノへ一直線に飛び込んだ。
「死ねぇ!」
勢いよく振り下ろされる刃。
しかしゼノは動かなかった。
ただ静かに右手を上げ、
人差し指を一本だけ突き出す。
カンッ!!
乾いた金属音が山に響いた。
振り下ろされた剣は、その細い人差し指に受け止められ、ぴたりと止まっていた。
「……なっ。」
盗賊の目が見開かれる。
両手で力任せに押し込む。
だが、剣は一寸たりとも動かない。
ゼノはため息を一つついた。
「力任せでは届かぬ。」
次の瞬間、人差し指で剣を軽く弾いた。
キィンッ!
剣はあっさりと弾き飛ばされ、盗賊の手から離れて宙を舞う。
「うわっ!?」
盗賊が体勢を崩した、その額へ。
コツン。
ゼノの人差し指が軽く触れた。
「がっ!?」
たったそれだけで盗賊の巨体は地面を何度も転がり、木の根元まで吹き飛ぶ。
土煙が舞い上がった。
男は白目を剥いたまま、ぴくりとも動かない。
静寂が訪れる。
盗賊たちの顔から血の気が引いた。
一方、岩に座るマイトはのんびりと呟く。
「一人。」
「あと十一人だな。」
ガエンが退屈そうに答える。
ダグラスは腕を組んだまま目を閉じる。
「やはり一撃か。」
ラーシャは薬草を籠へ入れながら微笑んだ。
「根まで傷つけないようにしないと。」
そしてアッシュだけが口を半開きにしたまま固まっていた。
「…………人差し指だけで?」
諜報員として数え切れないほどの強者を見てきた。
だが、人差し指一本で剣を止め、そのまま相手を気絶させるなど常識のどこにも存在しない光景だった。
盗賊たちは互いに顔を見合わせる。
「ば、化け物だ……!」
誰かが震える声で呟いた。
「ひ、ひるむな! 一斉にやれ!」
頭目らしき男が怒鳴ると、残る十一人が一斉に飛び出す。
剣が閃き、斧が唸り、槍が突き出される。
だがゼノは一歩も退かなかった。
「遅い。」
その一言と同時に、姿がふっと消える。
「なっ──」
盗賊たちが目で追うより早く、
コツ。
コツ。
コツ。
まるで肩を軽く叩くような音が、山道に次々と響いた。
「ぐはっ!」
「ぎゃっ!」
「うあぁ!」
一人、また一人と宙を舞う。
ある者は木の幹へぶつかり、ある者は茂みに突っ込み、ある者は地面を転がって目を回した。
ゼノがしていることは極めて単純だった。
人差し指で額を軽く突くだけ。
それだけで全員が戦闘不能になっていく。
最後に残った頭目が震えながら後ずさる。
「く、来るな……!」
ゼノは静かに歩み寄る。
「来るなと言うなら、最初から旅人へ近寄らねばよかった。」
「ひっ……!」
頭目が斧を振り上げる。
ゼノはその斧を二本の指で摘まみ、
ぱきん。
まるで乾いた枝でも折るように、刃だけを真っ二つにしてしまった。
「…………。」
頭目は折れた斧を見つめたまま固まる。
そして。
コツン。
額を軽く突かれた。
「ぎゃああっ!」
頭目は豪快に宙を舞い、仲間たちの山へ突っ込んで気絶した。
山道は静まり返る。
ガエンが立ち上がって伸びをする。
「終わったか。」
「十二人。」
マイトが指を折って数え、満足そうに頷いた。
「ぴったり。」
ダグラスも腕を解く。
「予定通りだな。」
アッシュだけは未だに固まっていた。
「……終わった。」
ゼノは服についた埃を軽く払う。
「さて。」
倒れた盗賊たちの前に立つと、金色の瞳で一人ひとりを見回した。
気絶していた盗賊たちも、うめき声を上げながら次々に目を覚ましていく。
目の前には、自分たちを一瞬で壊滅させた男。
誰一人、武器を拾おうとする者はいなかった。
ゼノは静かに口を開く。
「聞け。」
その声は大きくない。
だが、不思議と山全体へ響くような重みがあった。
「力とは奪うためにあるのではない。」
盗賊たちは息を呑む。
「弱き者から金を奪い、旅人を脅し、自らを強者と思い込む。」
ゼノは小さく首を振った。
「それは強さではない。」
頭目が恐る恐る顔を上げる。
「じゃ……じゃあ何が強さなんだ……。」
「守ることだ。」
即答だった。
「己より弱き者を守り、家族を守り、仲間を守り、己の誇りを守る。」
山風が静かに吹き抜ける。
「お前たちは十二人いて、一人の旅人すら正面から相手に出来なかった。」
盗賊たちは俯いた。
「数だけ集めても、心が腐れば力は腐る。」
誰も反論しない。
「働け。」
ゼノは淡々と続ける。
「山には木がある。街には仕事がある。腕があるなら荷運びも出来る。鍛冶屋の手伝いも出来る。汗を流して得た銭は少なくとも胸を張って使える。」
頭目は震えながら拳を握る。
「俺たちにも……やり直せるのか……。」
「生きている限りはな。」
ゼノは静かに答えた。
「だから命は取らなかった。」
盗賊たちは互いの顔を見つめ、やがて深く頭を下げた。
「……すまなかった。」
その様子を見届けたラーシャは、摘んできた薬草を小鍋で煎じ始める。
湯気とともに爽やかな香りが立ち上った。
「傷はちゃんと治しましょうね。」
彼女は優しく微笑み、薬草をすり潰して軟膏のようにすると、一人ひとりの打撲や擦り傷へ丁寧に塗っていく。
「少し冷たいですよ。」
「あ……。」
盗賊の一人が思わず見上げる。
陽の光を受けたラーシャの髪が柔らかく揺れ、その穏やかな笑顔は山の空気よりも澄んで見えた。
「痛みはすぐ引きますから。」
「は、はい……。」
別の盗賊もぽかんと見つめる。
「こんな俺たちに……手当てを……。」
「怪我をしている方を放ってはおけません。」
ラーシャは何事もないように答え、次の盗賊の腕へ薬を塗る。
盗賊たちは誰もが頬を赤くし、言葉を失っていた。
一人が小声で呟く。
「……き、綺麗だ。」
「女神みたいだ……。」
「俺、初めてこんな優しくされた……。」
その囁きに周囲の盗賊たちも思わず何度も頷く。
少し離れた場所でその様子を見ていたマイトがくすりと笑った。
「見惚れちゃってるね。」
ガエンも苦笑する。
「まあ、ラーシャはああいう性格だからな。」
ダグラスは静かに鼻を鳴らした。
「傷を治され、心まで折られたか。」
そしてアッシュは、盗賊たちがゼノには震え上がり、ラーシャには見惚れているというあまりにも対照的な光景を見つめながら、小さく呟いた。
「……この一行、本当に何なんだ。」
その時盗賊の一人が、薬を塗ってもらいながら、おずおずと口を開いた。
「その……。」
ラーシャは顔を上げ、にこりと微笑む。
「はい?」
男は耳まで真っ赤にしながら頭を掻いた。
「あ、あんた……名前を聞いてもいいか?」
周囲の盗賊たちも思わず身を乗り出す。
「そうだ、恩人の名前くらい知りたい。」
「教えてくれないか。」
ラーシャは少しだけ首を傾げると、いつも通り穏やかな笑みを浮かべた。
「はい、もちろんです。」
胸にそっと手を当てる。
「私は、魔王軍幹部のラーシャと申します。」
その瞬間。
山道の空気が凍りついた。
「…………。」
盗賊たち全員の笑顔が固まる。
「……え?」
一人が間の抜けた声を漏らした。
「ま、まお……。」
別の男が青ざめる。
「魔王軍幹部……?」
全員の視線がラーシャへ集まり、次の瞬間には一斉にゼノ、ガエン、ダグラス、マイトへ向いた。
ガエンが腕を組んだまま呟く。
「言ってなかったか。」
マイトが首を傾げる。
「言ってなかったね。」
ダグラスは短く答えた。
「聞かれなかった。」
盗賊たちの顔色は見る見るうちに白くなっていく。
「ま、待て……。」
頭目が震える指でマイトを指差した。
「あんた……まさか……。」
マイトは気軽に手を挙げた。
「マイトだよー。」
「え?」
「勇者でーす。」
「…………。」
頭目の口がぱくぱくと開閉する。
「じゃ、じゃあ……。」
今度はゼノを見る。
「こ、この人は……。」
アッシュが思わず小さく呟いた。
「竜王ゼノ様です……。」
「…………。」
盗賊たちの思考が完全に停止した。
数秒後。
「申し訳ありませんでしたぁぁぁぁぁっ!!」
ドサッ!
十二人全員が、息の合った見事な土下座を決めた。
額を地面へ叩きつける勢いで伏せる。
「命だけはお助けください!」
「俺たち、相手を間違えました!」
「旅人だと思ったんです!」
「まさか魔王軍幹部と勇者様と竜王様までいるなんて思いませんでしたぁ!」
土下座の列は壮観だった。
ラーシャは慌てて両手を振る。
「あ、頭を上げてください。誰も怒っていませんから。」
しかし誰一人として顔を上げない。
「顔を上げろと言われても上げられません!」
「畏れ多すぎます!」
「俺たちなんかが直視していい方々じゃありません!」
マイトは思わず吹き出した。
「あはは! さっきまで襲ってきた人たちと同じとは思えないね。」
ガエンも肩を揺らして笑う。
「切り替えが早すぎるだろ。」
ダグラスは呆れたように息をついた。
「現実を理解する能力だけは高いらしい。」
アッシュは盗賊たちを見つめながら苦笑する。
「その反応が……普通なんですよね。」
ゼノは土下座したまま震える盗賊たちを見下ろえ、静かに口を開いた。
「肩書きで恐れる必要はない。」
盗賊たちはぴくりと肩を震わせる。
「恐れるべきは、己の過ちを改めぬことだ。」
その言葉に、頭目は額を地面につけたまま力強く頷いた。
「はい……! 二度と盗みは働きません!」
「真面目に働きます!」
「今日からやり直します!」
ラーシャは優しく微笑みながら頷いた。
「その気持ちを忘れなければ、きっと大丈夫ですよ。」
その柔らかな一言に、盗賊たちは感極まったように声を詰まらせる。
「ありがとうございます……ラーシャ様……!」
山道には、先ほどまでの殺伐とした空気はもう残っていなかった。代わりに、十二人の元盗賊が何度も頭を下げる姿と、それを穏やかに見守る一行の姿だけがあった。
盗賊たちが何度も頭を下げる中、一人の若い盗賊がおそるおそるガエンへ視線を向けた。
「あ、あの……。」
「何だ。」
「オーガのお兄さんは……その、何者なんですか?」
ガエンは少しだけ考えるように顎へ手を当て、それからあっさりと答えた。
「俺も魔王軍幹部だ。」
「…………。」
盗賊たちの動きがぴたりと止まる。
「え。」
「幹部。」
「また……。」
頭目が震える声を漏らした。
「じゃ、じゃあ、その隣の鎌を持ってる人は……。」
ダグラスが静かに口を開く。
「ダグラス。」
短く名乗ったあと、淡々と続けた。
「魔王軍幹部だ。」
「…………。」
再び沈黙。
そして。
「ええぇぇぇぇっ!?」
十二人の叫び声が山中へ響き渡った。
「ぜ、全員幹部だったのかよ!?」
「勇者様までいるし!」
「竜王様までいるし!」
「俺たち今まで生きてたのが奇跡じゃねぇか!」
一人が震えながら周囲を見回し、最後にアッシュを見つけた。
「あ、あんたは……?」
突然話を振られたアッシュは少し戸惑う。
「え、俺ですか?」
「頼む……もう『魔王軍幹部です』とか言わないでくれ……。」
その必死な願いに、アッシュは苦笑した。
「俺は違います。ただの悪魔族です。バルファードの住民です。」
盗賊たちは互いに顔を見合わせる。
「幹部じゃ……ない?」
「違います。」
「竜王様でも?」
「違います。」
「勇者様でも?」
「違います。」
「……よかったぁぁぁ……。」
十二人が一斉に胸をなで下ろした。
「やっと普通の人がいた……。」
「悪魔族だけど一番安心する……。」
「普通じゃない気もするけど、もう感覚が麻痺してきた……。」
アッシュは思わず苦笑を深める。
「その反応、少し複雑ですね。」
マイトは肩を揺らして笑った。
「アッシュだけ安心枠になってる。」
ガエンも豪快に笑う。
「比較対象が悪すぎるだけだ。」
ダグラスは小さく頷いた。
「竜王、勇者、魔王軍幹部三人。その中では一番常識的だ。」
「ありがとうございます……で、いいんでしょうか。」
アッシュは何とも言えない表情を浮かべ、一同の笑いを誘った。
やがてゼノが静かに踵を返す。
「話は終わりだ。街へ戻るぞ。」
「はい。」
ラーシャも小鍋を片付け、全員が歩き始める。
盗賊たちは道端に並び、一行の姿が見えなくなるまで深々と頭を下げ続けていた。
「本当にありがとうございました!」
「絶対に更生します!」
「今度会う時は胸を張って会えるようになります!」
ラーシャは振り返り、柔らかく手を振る。
「応援しています。」
その一言に、元盗賊たちは何度も力強く頷いた。
夕方、一行は温泉街へ戻ってきた。
石畳の通りには夕餉の支度をする香りが漂い、湯気が街全体を優しく包み込んでいる。
宿へ戻ると、女将が笑顔で迎えた。
「お帰りなさいませ。今日はずいぶん遅くまでお出かけでしたね。」
「少し寄り道をしていました。」
ラーシャが微笑んで答える。
荷物を部屋へ置くと、翌日の出発に向けた準備が始まった。
ガエンは荷物を点検しながら保存食の残りを確認する。
「食料は十分だな。」
マイトは地図を広げ、次の目的地までの道筋を指でなぞった。
「ここから街道を進んで、しばらくすればバルファード方面への分岐だね。」
ダグラスは鎌の刃を静かに研ぎ、その切っ先を確認する。
「問題ない。」
ラーシャは乾燥させた薬草を丁寧に袋へ詰め替えていた。
「今日使った分も補充できました。」
一方、アッシュは旅支度を整えながら、一行を見回す。
竜王。勇者。魔王軍幹部三人。そして自分。
「……何度考えても、とんでもない旅だ。」
そう呟くと、マイトが笑顔で肩を叩いた。
「慣れるよ。」
「慣れません。」
即答するアッシュに、部屋中から笑い声が上がる。
笑いの絶えないまま夜は更けていき、一行は翌日の出発に備えて、それぞれ静かに休息を取るのだった。




