35.諜報員、驚く
翌朝。
湖畔には朝靄が立ち込め、鳥のさえずりが静かに響いていた。
ガエンは大きく伸びをし、欠伸を一つ。
「よーし、今日も出発だ。」
「うん!」
マイトは元気よく返事をし、荷物を馬車へ積み込んでいく。
ラーシャは焚き火の始末を終え、ダグラスはいつものように無言で荷物を運ぶ。
アッシュも自然と手伝いに加わっていた。
もう誰も彼を警戒していない。
諜報員だと知った今でも、ごく当たり前の旅の仲間として接している。
その空気に、アッシュは少しだけ苦笑した。
(……本当に変わった人達だ。)
やがて全員が馬車へ乗り込み、御者が手綱を鳴らす。
馬車はゆっくりと街道を走り始めた。
午前中いっぱい雪道を進み続ける。
しかし昼が近づくにつれ、景色が少しずつ変わり始めた。
街道脇に積もっていた雪は薄くなり、白一色だった大地に茶色い土が見え始める。
木々の枝を覆っていた氷も消え、小さな緑の芽が顔を出していた。
「おっ。」
ガエンが窓の外を見て笑う。
「抜けたな。」
マイトも身を乗り出す。
「ほんとだ! 雪がない!」
冷たい風だった空気は、いつの間にか柔らかくなっている。
窓から吹き込む風も、頬を刺すような冷たさではなく、春を思わせる穏やかな暖かさを含んでいた。
ラーシャは静かに目を細める。
「氷雪地帯を完全に抜けましたね。」
「助かったぁ。」
ガエンは肩を回す。
「さすがに毎日寒いのは堪える。」
「俺は結構好きだったけどな。」
マイトが笑う。
「雪合戦できるし。」
「お前は年中遊ぶことしか考えてないな。」
ガエンが呆れながら笑う。
「えへへ。」
馬車はさらに進む。
道端には黄色や紫の小さな花が咲き始め、小川には雪解け水が勢いよく流れていた。
アッシュは窓の外を眺め、小さく息をつく。
「……暖かい。」
その一言に、ラーシャが微笑む。
「クリアフォル周辺は特殊ですからね。この先は過ごしやすい土地が続きます。」
「こうして景色が一気に変わるものなんですね。」
「世界は広いぞ。」
ガエンが腕を組む。
「だから旅は面白い。」
「それに。」
マイトが目を輝かせる。
「暖かい地方は食べ物も変わるよ!」
「結局そこか。」
ガエンが笑う。
「だって楽しみじゃん!」
そのやり取りを見ていたアッシュは、思わず吹き出した。
「ふふ……。」
「お。」
ガエンが振り向く。
「笑ったな。」
「いえ……。」
アッシュは少し照れくさそうに口元を押さえる。
「皆さんといると、退屈する暇がありません。」
「そりゃ良かった。」
ガエンは豪快に笑った。
馬車は暖かな風を受けながら、緑が広がる街道を南へと進んでいく。
遠くの地平線には、次なる目的地バルファードへと続く街道が、どこまでもまっすぐ伸びていた。
昼過ぎ、街道沿いの休憩所で馬車が止まる。
屋根付きの東屋と井戸があるだけの簡素な場所だったが、暖かな陽気のおかげで旅人たちは皆、ほっとした表情を浮かべていた。
「ふぅー!」
ガエンは真っ先に分厚い防寒着を脱ぎ、肩を回す。
「やっと軽くなった!」
「暑いくらいだね。」
マイトも手袋やマフラーを外し、嬉しそうに伸びをする。
ラーシャもコートを丁寧に畳み、荷物へしまった。
ダグラスは無言で外套を脱ぐと、いつもの黒装束だけになった。
アッシュも少し迷った末、ゆっくりと防寒着を脱ぐ。
現れたのは黒を基調とした軽装。
口元を覆う布はそのままだが、袖口から覗く肌には人間よりわずかに赤みがあり、指先の爪は少しだけ鋭い。
ガエンはちらりと見たが、特に何も言わない。
「よし、水飲んだら出発するか。」
「うん!」
短い休憩を終えると、一行は再び馬車へ乗り込んだ。
軽くなった服装のおかげで、車内もずいぶん過ごしやすい。
馬車が再び街道を走り始める。
しばらく穏やかな沈黙が続いたあと、アッシュが静かに口を開いた。
「……一つ、お聞きしてもいいですか。」
「ん?」
ガエンが顔を向ける。
アッシュは少し言いづらそうに目を伏せた。
「実は私は……悪魔族なんです。」
車内が静かになる。
だが、その静けさは驚きではなかった。
ガエンは「ああ、やっぱり」というように頷き、マイトも「そうだったんだ」と素直に受け止める。
ラーシャは微笑み、ダグラスも無言のままだ。
アッシュの方が戸惑ってしまう。
「……あまり驚かれないのですね。」
「牙で何となく分かってた。」
ガエンがあっさりと言う。
「隠してる理由があるなら聞かねぇだけだ。」
「そういうこと。」
マイトも笑顔で頷いた。
アッシュは目を瞬かせたあと、小さく苦笑する。
「本当に皆さんは……。」
少しだけ肩の力を抜いたアッシュは、続けて尋ねた。
「魔王軍には……悪魔族の方もいらっしゃるのですか?」
ガエンは即座に頷いた。
「いるぞ。」
「結構いるよ。」
マイトも続ける。
「悪魔族だけじゃない。オーガもいるし、ダークエルフもいるし、獣人もいるし、リザードマンもいる。」
「吸血鬼やゴーレム、スライムなどもいますね。」
ラーシャが指を折りながら付け加える。
「種族はかなり多様です。」
アッシュは少し驚いたように目を見開いた。
「そんなに……。」
「魔王バラムは種族で差別しないからな。」
ガエンが腕を組む。
「働く気があるなら歓迎って感じだ。」
「もちろん悪いことをしたら怒られるけどね。」
マイトが笑う。
「そこは誰でも同じ。」
アッシュは静かに窓の外へ視線を向ける。
(悪魔族だからではなく、一人の仲間として扱う……。)
バルファードでは、悪魔族であることを理由に警戒されたことも一度や二度ではない。
だからこそ、この何気ない会話が、不思議なくらい胸に残った。
「……そういう魔王軍なのですね。」
ラーシャは優しく微笑む。
「ええ。ですから、あなたが悪魔族だと聞いても、私たちにとっては『そうだったのですね』という程度のことですよ。」
「それより。」
ガエンがニヤリと笑う。
「アッシュ、お前は甘い物は好きか?」
「……はい?」
あまりに話題が急転換したため、アッシュは思わず間の抜けた声を上げる。
「この先の街に有名な菓子屋があるらしいんだ。」
「楽しみだよね!」
マイトが身を乗り出す。
「また食べ歩きですか……。」
ラーシャが少し呆れたように笑う。
「旅の楽しみだからな!」
ガエンは豪快に笑い、馬車の中には再び穏やかな笑い声が広がった。
アッシュはその様子を眺めながら、小さく笑みを浮かべる。
(……本当に、不思議な人たちだ。)
そう思いながら、暖かな風が吹き込む窓の外へ、静かに視線を向けた。
馬車は街道をのんびりと進み続ける。
午後の日差しは柔らかく、青空には白い雲がゆっくりと流れていた。
暖かな地方へ入ったことで旅人の姿も増え、反対方向から来る馬車や商人と何度もすれ違う。
やがて日が傾き始めた頃、遠くに湯気のような白い煙がいくつも立ち上っているのが見えてきた。
「お。」
ガエンが窓の外を指差す。
「あれか。」
アッシュも身を乗り出す。
「煙……ですか?」
ラーシャが微笑んだ。
「あれは温泉の湯気ですよ。」
「温泉?」
「地面からお湯が湧き出る場所なんだ。」
マイトが嬉しそうに説明する。
「入ると疲れが吹っ飛ぶよ!」
「へぇ……。」
アッシュは興味深そうに眺める。
馬車が坂を下ると、その街の全景が見えてきた。
あちこちの建物の屋根の向こうから白い湯気が立ち上り、石畳の通りには旅館や土産物屋が立ち並んでいる。
木造の建物が多く、街全体がどこか落ち着いた雰囲気に包まれていた。
「着いたぞー!」
御者が声を張り上げる。
「温泉の街、トウセンだ!」
馬車はゆっくりと停車した。
ガエンは大きく伸びをする。
「ふぅー、結構走ったな。」
「温泉だー!」
マイトは今にも飛び降りそうな勢いだ。
ラーシャは苦笑する。
「まだ宿も決まっていませんよ。」
「そうだった。」
マイトは照れ笑いを浮かべた。
荷物を降ろそうとしたその時、御者が手綱をまとめながら振り返る。
「ちょっといいか?」
「ん?」
ガエンが顔を向ける。
御者は馬たちを優しく撫でながら言った。
「この子たちもだいぶ頑張ってくれたからな。ここでしっかり休ませる。」
馬たちは鼻を鳴らしながら、水桶の方へ歩いていく。
「というわけで。」
御者は笑顔で続けた。
「この街には二泊する。」
「二泊?」
マイトの目がぱっと輝く。
「やったー!」
ガエンも頷く。
「馬も生き物だからな。休ませるのは大事だ。」
「ええ。」
ラーシャも同意する。
「ここまで長距離を走り続けてくれましたから。」
アッシュは少し意外そうな表情を浮かべた。
「予定を変えてでも馬を休ませるのですね。」
御者は穏やかに笑う。
「旅は急ぎ過ぎると、ろくなことにならない。馬が元気でいてくれるからこそ、安全に目的地まで行けるんだ。」
その言葉に、アッシュは静かに頷いた。
「……なるほど。」
「それじゃ。」
ガエンが両手を叩く。
「二日間は温泉の街を満喫できるってことだな!」
「温泉! 美味しいご飯! 甘い物!」
マイトは指を折りながら満面の笑みを浮かべる。
「全部楽しむ!」
「全部食べるの間違いでは?」
ラーシャが苦笑すると、ガエンが豪快に笑った。
「ははは! 違いねぇ!」
ダグラスは相変わらず無言だったが、ほんのわずかに口元が緩んだようにも見えた。
夕暮れの空を茜色に染めながら、温泉街トウセンには湯気がゆらゆらと立ち上っている。
二日間の束の間の休息が、一行を静かに迎えようとしていた。
宿に荷物を置いた一行は、身軽な格好で温泉街トウセンの石畳を歩いていた。
夕暮れの街は賑わいを見せ、湯気の立ち上る足湯には旅人たちが集まり、土産物屋からは甘い饅頭の香りが漂ってくる。
「おっ、温泉まんじゅうだ!」
マイトが早速反応する。
「まずは街を一周してからだ。」
ガエンが笑いながら頭を軽く小突く。
「えぇー。」
「二泊あるんですから、逃げませんよ。」
ラーシャも微笑む。
ダグラスは相変わらず無言で後ろを歩いていた。
アッシュはそんなやり取りを見ながら、どこか穏やかな気持ちで街並みを眺めていた。
(……本当に気楽な人たちだ。)
その時だった。
ガエンの足がぴたりと止まる。
「……お?」
視線の先。人混みの中を、一人の青年が歩いていた。
艶のある黒髪、黄金に輝く瞳、質素な旅装束を身にまとっているが、その立ち姿には不思議な威厳があった。
「あ。」
マイトが目を丸くする。
「ゼノ!」
ラーシャも思わず微笑む。
「竜王様。」
ダグラスも小さく会釈した。
青年はゆっくりとこちらを向き、柔らかく笑う。
「久しいな、皆。」
ガエンが豪快に笑った。
「おお! ゼノじゃねぇか!」
「こんな所にいたのか!」
マイトも駆け寄る。
「温泉に入りに来たの?」
「いや、少し用事があってな。」
ゼノは穏やかに答える。
その様子を見ていたアッシュだけは、全身が凍り付いていた。
(ま、まさか……。)
金色の瞳。この圧倒的な存在感。
そしてラーシャが口にした言葉。
――竜王様。
アッシュの顔から血の気が引く。
(竜王……ゼノ……。)
悪魔族であるアッシュにとって、竜王とは伝説そのもの。
魔王に匹敵するとまで言われる世界最強格の存在。
敵対すれば、生き残れる保証などどこにもない。
気付けば膝がわずかに震えていた。
ゼノはその様子を見ると、小さくため息をつき、ゆっくりとアッシュの前まで歩み寄る。
「悪魔か。」
「は……はい……。」
声まで震える。
ゼノは穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「悪魔が震えるな。」
その一言は静かだった。
だが、不思議と責める響きはない。
「……え?」
アッシュは思わず顔を上げる。
ゼノは金色の瞳でまっすぐ見つめながら続けた。
「悪魔族は誇り高き種族だろう。力が及ばぬ相手を前にしても、必要以上に恐怖へ飲まれるものではない。敬意は持て。だが、恐怖に心まで支配されるな。」
穏やかな声だった。
それでも、その言葉には竜王として何千年も生きてきた重みがあった。
アッシュは息を呑む。
「……申し訳、ありません。」
「謝る必要はない。」
ゼノは小さく笑う。
「我を恐れる者は多い。だが、恐怖は視野を狭める。それでは本来持つ力も知恵も発揮できぬ。」
アッシュは自然と背筋を伸ばした。
「……はい。」
ゼノは満足そうに頷く。
「それでいい。」
するとガエンが肩をすくめた。
「相変わらず先生みたいなこと言うな。」
「昔から変わらないね。」
マイトも笑う。
ラーシャはくすりと笑いながらアッシュへ向いた。
「竜王様は厳しいようで、とても面倒見がいい方なんですよ。」
「そうだったのですね……。」
緊張はまだ完全には消えない。
だが先ほどまでの震えは、もう止まっていた。
ゼノは一行を見渡し、穏やかに笑う。
「さて、せっかく温泉街で会ったのだ。積もる話もある。まずは茶でも飲みながら話そうではないか。」
「賛成!」
マイトが真っ先に手を挙げる。
ガエンはニヤリと笑った。
「どうせなら甘味付きな。」
「やっぱりそこですか。」
ラーシャが呆れたように笑うと、ゼノも珍しく小さく吹き出した。
「ふふ……相変わらずだな、お前たちは。」
夕暮れの温泉街に、穏やかな笑い声が響く。
アッシュはその輪の後ろを歩きながら思う。
(竜王……。あれほどの存在が、こんなにも自然に皆と笑っているなんて……。)
世界には、まだ自分の知らない景色が数多くある。
そんなことを、アッシュは初めて実感していた。
ゼノに案内され、一行は温泉街の一角にある落ち着いた茶屋へと入った。
木の香りが漂う店内には、湯気の立つ急須と甘味が並び、窓の外には夕日に染まる街並みが見えている。
「いらっしゃいませ。」
店員に案内され、六人は大きな座卓へ腰を下ろした。
「おっ、この団子うまそうだ。」
ガエンは早速お品書きを眺める。
「俺、この温泉まんじゅう!」
マイトも迷わず注文する。
「甘い物ばかりですね……。」
ラーシャは苦笑しながら温かい煎茶を頼んだ。
ダグラスは黙って湯飲みだけを注文する。
アッシュだけは、まだどこか落ち着かない様子で座っていた。
注文が済み、お茶が運ばれてくると、ゼノが静かに口を開く。
「ところで、お前たちは今どこへ向かっている?」
ガエンは湯飲みを手に取りながら答えた。
「軍事国家バルファードだ。」
「ほう。」
ゼノが静かに頷く。
「何か用事でもあるのか。」
「魔王バラムの運動会を開くためのスポンサー探しだ。」
ガエンはさらりと言った。
アッシュは思わず心の中で叫ぶ。
(普通に言うのか……。)
ゼノも一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに納得したように微笑んだ。
「なるほど。あの魔王らしい発想だ。」
「だろ?」
ガエンは笑ってお茶を一口飲む。
「そのスポンサー候補の一つがバルファードってわけだ。」
「なるほど。」
ゼノは穏やかに頷いた。
その時だった。
ガエンが湯飲みを机に置き、何気ない口調で言う。
「で、このアッシュなんだけどな。」
アッシュの肩がびくりと跳ねる。
「バルファードの諜報だ。」
「ぶっ!」
マイトが飲みかけのお茶を危うく吹き出しそうになる。
「ガエンさん!」
ラーシャが慌てて止める。
だがガエンは平然としていた。
「いや、隠す必要もねぇだろ。」
アッシュは完全に固まっていた。
(終わった……。竜王様の前で正体まで……。)
恐る恐るゼノを見る。
だがゼノは驚くどころか、深いため息をついた。
「……ガエン。」
「ん?」
「お前は変わらんな。」
ゼノは額に手を当て、呆れたように続けた。
「諜報員というものは、正体を知られても周囲には伏せておくのが礼儀だ。」
「そうなのか?」
ゼノは即座に言い切る。
「本人が隠している以上、わざわざ口に出してやるものではない。」
「でも本人にはもうバレてるって分かってたぞ?」
「だからといって、公言してよい理由にはならん。」
穏やかな口調なのに、一切反論を許さない。
ガエンは頭を掻いた。
「そういうもんか。」
「そういうものだ。」
ゼノは小さく息を吐く。
「お前はもう少し、人の立場というものを考えろ。」
「悪ぃ悪ぃ。」
ガエンは全く悪びれた様子もなく笑った。
その様子に、ゼノは再びため息をつく。
「本当に、お前という男は……。」
マイトは肩を震わせながら笑いをこらえていた。
「怒られてる。」
「ですね。」
ラーシャも苦笑する。
ダグラスは無言のままだったが、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
そして何より驚いていたのは、アッシュだった。
(竜王様は……怒っている相手がガエンさんなのか。私が諜報員であることではなく……。)
ゼノは改めてアッシュへ視線を向ける。
「安心しろ。」
穏やかな声だった。
「諜報は国家に仕える者の務めだ。恥じることではない。」
アッシュは思わず目を見開く。
「……はい。」
「ただし。」
ゼノはちらりとガエンを見る。
「この男のような相手は、最初から隠し通せるとは思わぬ方がいい。」
「おい。」
ガエンが笑う。
「それ褒めてんのか?」
「半分はな。」
ゼノは小さく笑った。
その言葉に、張り詰めていた空気は完全に和らぎ、茶屋には再び穏やかな笑い声が広がっていった。
するとマイトが口を開いた。
「そういえばさ、前にドラゴンの谷に連れて帰った古代生物のあの黒いのはどうなったの?」
その言葉を聞いてラーシャの顔が少し曇る。
古代生物の黒いの、それは以前成長のために冒険者達を食糧にしていた謎の生物。
善悪もわからず自分が何者かも分からずにいた子供のような生物。ガエン達が襲われそうになり、ラーシャの魔力が暴走しかけ、ゼノがその生物が何者なのか調べるためにドラゴンの谷に連れ帰ったのだった。
マイトの問いに、ゼノは静かに湯飲みを置いた。
「安心しろ。」
その一言だけで、ラーシャの強張っていた表情がわずかに和らぐ。
「もう人を襲うことはない。」
「本当か!」
マイトがぱっと顔を輝かせる。
ゼノは頷いた。
「あれは悪意で襲っていたわけではなかった。ただ、生きるための術を知らなかっただけだ。」
アッシュは耳を傾ける。
「今はドラゴンたちが、食べてもよい獲物と、決して口にしてはならぬものを教えている。」
「ドラゴンが先生役ってわけか。」
ガエンが団子を頬張りながら笑う。
「ああ。最初は狩りすら満足にできなかったが、今では少しずつ覚え始めている。」
ゼノの口調には、どこか親が子を見守るような優しさがあった。
「人を襲う必要はもうない。食べられる獣や魔物を狩ることを学んでいる。」
ラーシャは胸に手を当て、小さく息を吐く。
「……よかった。」
「あの子、本当に何も知らなかっただけなんだね。」
マイトも安心したように微笑む。
ダグラスは静かに問い掛ける。
「正体は分かったのか。」
その瞬間、ゼノの表情が少しだけ真剣になった。
「……まだだ。」
店内が静まり返る。
「ドラゴンの古い文献、石碑、伝承……思いつく限り調べている。」
ゼノは腕を組み、静かに続けた。
「だが、確証を得られるものは見つかっていない。」
「竜王でも分からねぇのか。」
ガエンが珍しく感心したように言う。
「あれほど古い存在となると、我の知識だけでは及ばぬ。」
ゼノは苦笑した。
「今はドラゴンの長老たちにも調査を頼んでいる。」
「長老たち?」
アッシュが思わず聞き返す。
その言葉は初めて耳にするものだった。
ゼノは頷く。
「我よりもさらに古い時代を知る者たちだ。」
「えっ?」
マイトが目を丸くする。
「ゼノより年上なの?」
「生きた年月だけならな。」
ゼノは穏やかに答えた。
「彼らは普段、人前へ姿を現さぬ。世界の移り変わりを静かに見届ける、古きドラゴンたちだ。」
「そんなドラゴンがまだいるなんて……。」
ラーシャも驚きを隠せない。
ゼノは窓の外へ視線を向ける。
「彼らならば、あの生物を知っているかもしれん。」
「でも、すぐには分からないの?」
マイトが首を傾げる。
「長老たちは世界各地で眠りについたり、瞑想に入っていたりすることも多い。」
ゼノは静かに笑った。
「連絡を取り、文献を照らし合わせ、意見を集めるだけでも時間がかかる。」
「だから調査中なんだな。」
ガエンは納得したように頷く。
「ああ。」
ゼノは力強く答えた。
「急いで誤った結論を出すより、時間をかけても真実を見極める方がよい。」
その言葉には、何千年も生きてきた竜王らしい重みがあった。
アッシュは黙ってその話を聞いていた。
(ドラゴンの……長老たち。)
竜王よりも古い存在。
そんな生き物が、この世界のどこかで今も生きているというのか。
諜報員として世界中の情報を集めてきたつもりだった。
だが、そんな存在の話は一度も耳にしたことがない。
(古代生物……そして、竜王より古いドラゴンたち。)
知らないことばかりだ。
胸の奥で、恐怖とは違う感情が静かに芽生えていく。
知りたい。
世界には、自分がまだ見たことも、聞いたこともない秘密が数え切れないほど眠っているのかもしれない。
アッシュは気づかぬうちに、少しだけ身を乗り出していた。
その様子に最初に気付いたのは、ガエンだった。
団子をもう一本手に取りながら、にやりと笑う。
「お、珍しい顔してんな。」
アッシュははっとして姿勢を戻した。
「い、いえ……。」
「気になるんだろ?」
ガエンは気楽な口調で言う。
「聞きたいことがあるなら聞いとけよ。ゼノが機嫌よく話してくれてるなんて、そう何度もあるもんじゃねぇ。」
「おい。」
ゼノがじろりと見る。
「我はいつも機嫌が悪いと言いたいのか。」
「違う違う。」
ガエンは笑いながら手を振った。
「普段は必要なことしか喋らねぇだろ。今日は昔話までしてくれてるじゃねぇか。」
マイトも元気よく頷く。
「確かに! 今なら何聞いても答えてくれそう!」
「何でも、とは言っておらぬ。」
ゼノは苦笑しながら湯飲みを口元へ運ぶ。
「答えられることなら、だ。」
そのやり取りを見て、アッシュは少し迷う。
相手は竜王。自分のような一介の諜報員が、軽々しく質問していい相手ではない。
しかし、
「遠慮するな。」
ゼノは静かに言った。
「知ろうとすることは悪いことではない。」
その一言が、背中を押した。
アッシュは姿勢を正し、ゆっくりと口を開く。
「……では、一つだけ。」
「うむ。」
「竜王様ほどのお方でも、分からないことがあると仰いました。」
ゼノは静かに頷く。
「ある。」
「それでも調べ続けるのは、なぜでしょうか。」
店内が静かになる。
アッシュは続けた。
「私は諜報員として、情報を集めることが仕事です。ですが、多くの者は分からなければ推測で結論を出したがります。」
少し息を吸う。
「ですが竜王様は、何百年、何千年かかっても真実を探そうとしている。その違いは……何なのでしょうか。」
ガエンたちも口を挟まず、ゼノへ視線を向けた。
ゼノはしばらく黙っていたが、やがて穏やかに微笑む。
「簡単なことだ。」
静かな声が茶屋に響く。
「誤った知識は、無知より恐ろしい。」
アッシュは息をのむ。
「知らぬなら、学び直せばよい。」
ゼノはゆっくりと続ける。
「だが、間違いを真実と思い込めば、人はその先も誤り続ける。」
金色の瞳が真っ直ぐアッシュを見つめた。
「だから我は、分からぬ時は『分からぬ』と言う。」
その言葉は穏やかだったが、長い時を生きてきた者だけが持つ確かな重みを帯びていた。
アッシュは静かに頭を下げる。
「……勉強になります。」
ガエンは腕を組み、うんうんと大きく頷く。
「ほらな。聞いて正解だったろ。」
「ガエンさんは、その教えを実践していますか?」
ラーシャがくすっと笑いながら尋ねる。
ガエンは胸を張った。
「もちろん!」
間髪入れずにダグラスが口を開く。
「分からなくても勢いで突き進む。」
「違いねぇ。」
ゼノが小さく笑う。
「否定はできんな。」
「おいおい、全員そろってひでぇな!」
ガエンが大げさに肩を落とくと、茶屋には再び穏やかな笑い声が広がった。アッシュもまた、その輪の中で自然と笑みを浮かべていた。
茶屋を出る頃には、すっかり日も傾いていた。
温泉街には湯けむりが立ち上り、硫黄の香りが風に乗って漂ってくる。
宿へ戻る途中、ガエンが鼻をひくつかせた。
「……温泉だな。」
「そうだね。」
マイトも嬉しそうに頷く。
「せっかく温泉の街まで来たんだし、入らないともったいないね!」
「賛成です。」
ラーシャも微笑む。
「旅の疲れも取れますし。」
アッシュは嫌な予感しかしなかった。
「……まさか。」
ガエンが振り向く。
「もちろん、お前も入るぞ。」
「え。」
「何だその反応。」
「い、いえ……私は別に……。」
「遠慮すんなって。」
ガエンは肩を叩く。
「温泉なんてみんな一緒だ。」
(そこなんだ……問題は。)
アッシュは心の中で頭を抱えた。
諜報員として人前で肌を晒すことはほとんどない。
古傷もある。
体には隠している装備の癖もある。
何よりも、
(この人たち、本当に遠慮というものを知らない。)
「では私は女湯へ行きますね。」
ラーシャはにこりと笑う。
「皆さん、ごゆっくり。」
「おう。」
ガエンが手を振る。
「のぼせんなよ。」
「ガエンさんこそです。」
ラーシャはくすりと笑い、そのまま女湯へ向かっていった。
◇◇◇
男湯。
湯気がもうもうと立ち込める広い岩風呂。
「ふぃ~~~っ!」
真っ先に声を上げたのはガエンだった。
「生き返る!」
「気持ちいいー!」
マイトも肩まで湯に浸かり、満面の笑みを浮かべる。
ダグラスはいつもの無表情のまま静かに湯へ入り、小さく目を閉じた。
ゼノも静かに岩へ腰掛ける。
人の姿ではあるが、その所作にはどこか竜王らしい気品があった。
そして、アッシュだけが、湯船の縁で固まっていた。
「……。」
「どうした?」
ガエンが首を傾げる。
「いや、その……。」
「早く入れ。」
ダグラスが短く言う。
「は、はい……。」
意を決して湯へ足を入れる。
「あっ……。」
思ったより熱い。
しかし肩まで浸かると、冷え切っていた身体がじんわりと温まっていく。
「……これは。」
思わず力が抜けた。
「いいだろ?」
ガエンが笑う。
「……ええ。」
アッシュも素直に頷いた。
「想像以上です。」
「だろだろ!」
ガエンは得意げである。
その時、マイトが思い出したように笑った。
「あ、そういえばドラゴンって温泉好きなんだよね。」
アッシュが目を瞬かせる。
「ドラゴンが……ですか?」
「ああ。」
ゼノが静かに頷く。
「好む者は多い。」
「へぇ。」
ガエンも感心する。
「知らなかった。」
「身体を温め、翼や筋肉を休めるにはちょうどよい。」
ゼノは湯気の向こうを眺めながら続ける。
「ドラゴンの谷にも温泉は幾つもある。」
「そうそう!」
マイトが笑顔で手を叩いた。
「俺も前に掘るの手伝ったし!」
「掘る?」
アッシュが聞き返す。
「うん。」
マイトは懐かしそうに笑う。
「前にさ、拡声石を取りにビルムと一緒にドラゴンの谷へ行ったことがあったんだ。」
「拡声石?」
「声を大きく遠くまで届ける魔石だ。」
ゼノが補足する。
「祭事や集会で用いることもある。」
「そのに時ね。」
マイトは楽しそうに話し始めた。
「ちょうどドラゴンたちが、『新しい温泉が欲しい!』って騒いでてさ。」
ガエンが吹き出す。
「そんな理由でか?」
「うん。」
「それでおじさんのドラゴンが、『岩盤の下に湯脈があるはずだ』って言って。」
マイトは両手で掘る真似をする。
「俺も一緒に岩をどかしたり、穴を広げたりして手伝ったんだ。」
「勇者が温泉掘りか。」
ダグラスがぼそりと言う。
「いやぁ、あの時は大変だったよ。」
マイトは苦笑する。
「ドラゴンのみんな、完成する前から『まだか』『まだ湧かないか』って周りで待ってるんだもん。」
ガエンは腹を抱えて笑った。
「想像できる!」
ゼノもわずかに口元を緩める。
「待ちきれぬ者は昔から変わらぬ。」
「で、最後に岩を割った瞬間。」
マイトは両手を大きく広げた。
「どばーっ!って熱いお湯が噴き出して!」
「おお。」
アッシュも思わず身を乗り出す。
「ドラゴンたち、大歓声だったよ。」
マイトは笑いながら続ける。
「そのまま全員飛び込もうとして、親方ドラゴンに止められてた。」
ゼノはため息をついた。
「湧きたては熱すぎる。」
「確かに。」
ガエンは肩を震わせる。
「茹でドラゴンになるところだったな。」
「温度が落ち着いた途端、一斉に飛び込んでた。みんな本当に嬉しそうだったなあ。」
マイトも目を細める。
「親子で入ってるドラゴンもいたし、小さい子が泳いで怒られたりしてさ。」
アッシュは静かに聞いていた。
(ドラゴンが……温泉で親子そろってくつろぐ。)
自分の知っているドラゴン像とは、あまりにも違う。
恐ろしい魔獣ではなく、家族で温泉を楽しみ、子供を叱り、笑い合う存在。
その光景を想像すると、不思議と口元が緩んだ。
「……見てみたいものですね。」
その一言に、ゼノは穏やかに頷いた。
「機会があれば、いずれ見せてやろう。」
アッシュは一瞬目を丸くしたあと、小さく頭を下げる。
「……その時は、ぜひ。」
そしてアッシュは目を閉じて、規格外の存在達との出来事を心に刻むのだった。




