34.寒さ、和らぐ
氷雪都市クリアフォルを出発した財務担当オーガのガエン、勇者マイト、死神ダグラス、ダークエルフのラーシャは謎の旅人を名乗るアッシュと出会う。
アッシュと一緒に酒場で夕飯を食べた後、それぞれの部屋に戻った。
部屋に戻ると、四人はそれぞれ荷物を下ろし、暖炉の火を囲むように腰を下ろした。
外では雪混じりの風が窓を叩いている。
しばらく誰も口を開かなかったが、不意にガエンが鼻で笑う。
「……あのアッシュって奴。」
マイトが首を傾げる。
「どうしたの?」
ガエンは腕を組み、当然のように言った。
「ありゃ諜報かなんかだろ。」
「え?」
マイトは目を丸くする。
ラーシャも静かにガエンを見る。
「理由は?」
「いくつもある。」
ガエンは指を一本立てた。
「まず、初対面なのに俺たちを観察しすぎだ。」
二本目。
「飯食ってる時も酒飲んでる時も、笑ってるようで全員の癖を見てた。」
三本目。
「質問の仕方が旅人じゃねぇ。俺たちの強さ、人間関係、目的……知りたいことだけ綺麗に聞いてきやがる。」
ダグラスも静かに頷く。
「俺も同感だ。」
「やっぱり?」
「ああ。しかも視線の配り方が訓練されている。入口、窓、客、店主……無意識に逃走経路まで確認していた。」
マイトは思い返す。
「そういえば……席も壁を背にして座ってた。」
「そういうことだ。」
ガエンは苦笑した。
「普通の旅人なら、あそこまで警戒しねぇ。」
ラーシャも腕を組む。
「口元を布で隠していたのも気になりますね。」
「傷だけが理由じゃない気がする。」
ダグラスが続ける。
「牙も見えた。魔族か、それに近い種族だろ。」
マイトは少し不安そうな顔になる。
「じゃあ……敵なの?」
ガエンはあっさり首を横に振った。
「いや。」
「違うの?」
「敵ならもっと隠れる。あいつは『怪しまれる程度』に情報を見せてる。」
ラーシャが小さく笑う。
「つまり、こちらの反応を見ていた。」
「そういうこと。」
ガエンは暖炉の火を見つめながら言った。
「たぶんどっかの国か組織の諜報員。俺たちを調べろって命令されてんだろ。」
「でも悪意は感じなかった。」
ダグラスも同意する。
「敵意ではなく任務、といった印象だな。」
マイトは少し安心したように息をつく。
「じゃあ放っておいて大丈夫かな。」
ガエンは笑った。
「好きに調べさせとけ。」
「え?」
「俺たちは隠すようなことはしてねぇ。」
ガエンは豪快に笑う。
「見て、話して、一緒に旅して、それで信用するか決めりゃいい。」
ラーシャも穏やかに微笑んだ。
「ガエンさんらしい答えですね。」
「どうせあいつも、俺たちを見極めようとしてるんだ。なら俺たちも普通に接すりゃいい。」
四人はその方針で一致し、それ以上アッシュを詮索することはなかった。
しかしその頃。
隣の部屋。
アッシュは椅子に腰掛け、窓の外へ視線を向けていた。
(……やはり。)
口元の布を少し触れ、小さく息をつく。
(あのオーガと死神……勘が鋭すぎる。)
酒場での何気ない会話だけで、自分が単なる旅人ではないことを見抜かれていた。
(さすがは世界を巡る一行か。)
驚きはあった。
だが同時に、口元にはわずかな笑みが浮かぶ。
(だからこそ、調べる価値がある。)
レムルス王から与えられた任務。
ガエン一行の正体と真意を見極めよ。
その任務は以外と難しいのかもしれない。
翌朝。
宿場町にはまだ朝靄が残り、吐く息は白く空へ溶けていく。
宿の前にはバルファード行きの馬車が止まり、御者が荷物を積み込んでいた。
「それじゃ、出発するか!」
ガエンが大きく背伸びをすると、マイトも元気よく頷く。
「おー!」
ラーシャは肩に積もった雪を払い、ダグラスは静かに馬車へ乗り込む。
すると、その少し後ろから聞き慣れた声がした。
「おはようございます。」
振り返ると、アッシュがいつものように目元だけを見せた姿で立っていた。
「もしよければ、本日もご一緒しても?」
ガエンはあっさり笑う。
「おう、好きな席座れ。」
「ありがとうございます。」
アッシュは軽く頭を下げ、馬車へ乗り込んだ。
(……昨日と変わらない。)
内心でそう呟く。
(警戒されているなら、少しは距離を置くと思ったが。)
馬車がゆっくりと走り始める。
雪道を進む車輪が、ぎしっ、ぎしっと音を立てた。
しばらくすると、マイトが笑顔でアッシュへ振り向く。
「アッシュ、朝ご飯食べた?」
「え?」
予想外の質問だった。
「え、ええ……軽くですが。」
「俺たちパン余ってるから食べる?」
そう言って袋を差し出す。
「……ありがとうございます。」
アッシュは少し戸惑いながら受け取った。
(普通だ。)
あまりにも普通だった。
ガエンは窓の外を見ながら呟く。
「今日も雪深いなぁ。」
「バルファードまであと何日くらいなの?」
マイトが御者へ尋ねる。
「順調なら一週間ってとこだな。」
「へぇ!」
そんな他愛もない会話が続く。
ラーシャも自然に口を開く。
「アッシュさんは寒さには強いんですか?」
「ええ……まあ、人並みには。」
「そうですか。昨日はずいぶん薄着に見えたので。」
「慣れておりますので。」
本当に世間話だった。
探るような言葉は一つもない。
ダグラスも静かに言う。
「眠れたか。」
「はい。」
「それならいい。」
そこで会話は終わる。
(……なんだ。)
アッシュは逆に落ち着かなかった。
(昨日、あそこまで見抜いていた者たちだ。何か質問してくるはずだ。所属はどこだ、とか。何者なんだ、とか。)
しかし誰も聞かない。
ガエンは干し肉をかじりながら、
「アッシュ、食うか?」
「……いただきます。」
マイトは笑う。
「旅ってみんなで食べる方がおいしいよね!」
「そうですね。」
ラーシャは小さく微笑み、
「遠慮しないでください。」
ダグラスも黙って水筒を差し出した。
「飲め。」
「……ありがとうございます。」
アッシュは受け取りながら、心の中で混乱していた。
(……何だ、この一行。昨日、俺が諜報である可能性に気付いていたはず。ならば普通は距離を置く。あるいは質問攻めにする。それなのに。)
四人は本当に、ただの旅仲間として接している。
その様子を横目で見ていたガエンは、マイトたちに聞こえない程度の声でぼそりと言う。
「そんな警戒すんなよ。」
「!」
アッシュの肩がぴくりと震えた。
ガエンは前を向いたまま笑う。
「肩に力入りすぎだ。」
「……そう見えますか。」
「見える見える。」
ガエンは笑った。
「別に何者でもいいさ。」
アッシュは息を呑む。
「旅を楽しむなら楽しめ。俺たちはそれだけだ。」
その一言だけ言うと、ガエンは再び景色を眺め始めた。
アッシュはしばらく言葉を失う。
(……読めない。昨日は俺の正体を見抜き。今日は何も聞かず、普通に接する。揺さぶりなのか、それとも本当に気にしていないのか。)
諜報員として数多くの相手を見てきた。
嘘をつく者。腹を探る者。利用しようとする者。
だが、こんな相手は初めてだった。
アッシュは誰にも気付かれないよう、小さく息を吐く。
(……むしろ、こちらの方が警戒してしまうとは。)
馬車は雪を巻き上げながら、軍事国家バルファードへ向けて静かに走り続けた。
その日の夕暮れ。
馬車は街道を外れ、澄み切った湖のほとりで停車した。
「今日はここまでだ!」
御者が声を上げる。
湖面には夕焼けが映り、風が吹くたびに赤く揺れていた。
雪はまだ残っているものの、クリアフォル周辺ほど厳しい寒さではない。
「だいぶ暖かくなったね。」
マイトが手を擦り合わせながら笑う。
ラーシャも頷いた。
「はい。もう氷雪地帯を抜けかけていますね。」
ガエンは辺りを見回し、大きく息を吸う。
「ようやく凍えなくて済みそうだ。」
やがて全員で手分けして野営の準備を始める。
ダグラスは薪を集め、マイトは湖で水を汲み、ラーシャは簡単な食事を用意する。
アッシュも黙って手伝い、慣れた手つきでテントを張っていた。
(……野営にも慣れている。)
ガエンはちらりとその様子を見る。
(やっぱり訓練を受けた人間だな。)
しかし何も言わず、自分も焚き火へ薪を放り込んだ。
パチパチ、と火が爆ぜる。
湯気の立つスープを囲みながら、五人は静かな時間を過ごしていた。
「この湖、綺麗だな。」
マイトが夜空を見上げる。
星々が湖面に映り込み、まるで空が二つあるようだった。
アッシュも思わず見入る。
「……ええ。見事な景色です。」
「こういう景色を見るために旅してるって感じするよね。」
マイトが笑うと、ガエンも豪快に頷いた。
「違ぇねぇ。」
その時だった。
ラーシャの耳がぴくりと動く。
「……。」
隣でスープを飲んでいたマイトも、表情を変えた。
「ラーシャ。」
「ええ。」
二人は同時に森の方を見る。
ガエンが気付く。
「どうした?」
ラーシャは静かに答えた。
「何かいます。」
マイトも頷く。
「しかも一匹じゃない。」
焚き火の向こうでは、森の奥から枝が折れる音が微かに響いていた。
ザッ……
ザザッ……
風ではない。
何者かが動いている音。
アッシュも自然と腰を浮かせる。
(魔物か。)
しかしガエンは落ち着いたまま立ち上がった。
「マイト。」
「うん。」
「ダグラス。」
ダグラスはすでに鎌を肩へ担いでいる。
「ああ。」
ガエンは笑った。
「ちょっと散歩してくるか。」
「そうだね。」
マイトは聖剣を抜き、軽く肩を回す。
ダグラスは無言で森へ歩き出した。
ラーシャは杖を手に取るが、ガエンが振り返る。
「ラーシャ、お前は残れ。」
「ですが。」
「アッシュと荷物の番だ。」
ラーシャは少し考え、小さく頷いた。
「……わかりました。」
ガエンはアッシュへ視線を向ける。
「悪いな。焚き火頼む。」
「はい。」
アッシュは短く返事をしたが、内心では驚いていた。
(俺を残すのか。)
諜報員である自分を疑っているかもしれない相手が、荷物と仲間を任せた。
普通なら考えられない判断だった。
ガエンは何事もないように笑う。
「すぐ戻る。」
そう言うと、ガエン、マイト、ダグラスの三人は闇の森へ足を踏み入れた。
焚き火の明かりが届かなくなる頃には、その姿は木々の間へ溶け込んでいく。
静まり返った湖畔。
残されたラーシャは静かに森を見つめている。
そしてアッシュもまた、三人が消えた方向を見つめながら思う。
(……あの三人が動くほどの相手か。)
森の奥から、獣とも魔物ともつかない低いうなり声が、夜の静寂を震わせた。
アッシュは焚き火へ薪をくべるふりをしながら、そっと視線を伏せた。
(……少しだけなら。)
誰にも悟られぬよう、静かに魔力を巡らせる。
千里眼。
視界が一気に森の奥へ伸びる。
闇を切り裂くように三人の姿が映った。
その先には全長五メートルはあろうかという灰色の魔狼が三匹。
さらに木々をなぎ倒しながら現れる巨大な熊型魔獣。
そして上空には翼竜まで旋回している。
(三種同時……!)
アッシュは思わず息を呑んだ。
(この戦力なら普通は部隊を編成する。最低でも数十人……。)
だがガエンは欠伸でもするように首を鳴らした。
「じゃ、片付けるか。」
「うん!」
マイトが笑顔で飛び出す。
次の瞬間だった。
ヒュンッ!
聖剣が一閃。
魔狼が一匹、何が起きたか理解する暇もなく真っ二つになった。
「……え?」
アッシュの目が見開く。
残る二匹が飛びかかる。
しかしガエンは避ける様子もない。
「邪魔だ。」
ドゴォォン!!
ただ拳を振っただけ。
空気が爆ぜ、二匹まとめて吹き飛び、何本もの大木を貫通して動かなくなった。
(ば、馬鹿な……。)
その直後。
巨大熊が咆哮を上げる。
ズシン!!
地面を揺らしながら突進。
ダグラスが静かに前へ出た。
「遅い。」
鎌が一度だけ光る。
スッ
巨大熊は数歩進み、そのまま音もなく左右へ分かれた。
切られたことにすら気付いていないほど鮮やかな一撃。
(一撃……だと……。)
さらに空から翼竜が急降下する。
「わぁ、危ない。」
マイトが軽く跳び上がる。
その高さだけで翼竜と同じ高度に達した。
「えい。」
まるで木の枝でも払うように剣を振る。
ズバァァッ!!
翼竜は夜空で綺麗に両断され、そのまま森の向こうへ落ちていった。
静寂。
わずか数十秒。
それだけだった。
ガエンが大きく伸びをする。
「ふぁぁ……。」
マイトも剣を肩へ担ぐ。
「終わったね!」
ダグラスは鎌をしまう。
「ああ。」
三人は周囲を見回す。
「他には?」
「いないね。」
「帰るか。」
「そうだな。」
まるで夕食前の散歩でも終えたような口調だった。
アッシュは千里眼を維持したまま固まる。
(終わった……?あれだけの魔獣を……。たった三人で……。しかも苦戦どころか、本気ですらない……。)
額を冷たい汗が伝う。
(バルファードからの報告では、世界を旅する正体不明の一行……。だが実態は違う。こいつらは――。)
そこまで考えた瞬間だった。
「どうでした?」
「っ!!」
背後から穏やかな声がした。
アッシュは飛び上がりそうになる。
振り返ると、ラーシャが焚き火の向こうで微笑んでいた。
「……何が、でしょう。」
平静を装う。
しかしラーシャはくすりと笑う。
「千里眼です。」
アッシュの心臓が止まりそうになった。
「な……。」
「私に気付かれないよう、とても丁寧に魔力を流していましたね。」
ラーシャは焚き火を見つめながら続ける。
「普通の人なら気付かないでしょう。でも、魔力の流れは隠しきれません。」
アッシュは言葉を失う。
(気付かれていた……?最初から……。)
ラーシャは視線だけをアッシュへ向ける。
「それで。」
少し楽しそうに微笑んだ。
「見た感想はいかがですか?」
アッシュはしばらく沈黙し、やがて苦笑を漏らす。
「……想像を、はるかに超えていました。」
「ふふ。」
「正直に申し上げます。」
アッシュは森へ視線を向けた。
「あの魔獣の群れは、本来なら討伐隊が出動する相手です。」
「そうでしょうね。」
「ですが、あの三人は……。」
言葉を選びながら呟く。
「本当に、散歩のついでに落ち葉でも払うように片付けてしまった。」
ラーシャは誇らしげでも自慢げでもなく、小さく笑うだけだった。
「いつものことです。」
その一言が、アッシュには何より衝撃的だった。
ラーシャは焚き火へ一本薪をくべる。
パチッ、と火の粉が夜空へ舞い上がった。
「驚かれましたか?」
「……ええ。」
アッシュは素直に頷いた。
「失礼ですが、あの三人は一体何者なんです。」
ラーシャは少し考えるように目を閉じ、それから穏やかに答えた。
「隠す必要もありませんね。」
焚き火の炎が彼女の髪を淡く照らす。
「ガエンさんは財務担当のオーガです。」
「財務担当……?」
アッシュは思わず聞き返した。
「ええ。魔王軍の幹部で、お金や物資の管理を任されています。」
「……。」
財務担当。
あれほどの怪力を持つ男が。
アッシュの頭では、その肩書きと実力がまったく結び付かなかった。
ラーシャは続ける。
「ダグラスさんは死神です。」
「死神……。」
「同じく魔王軍の幹部ですよ。」
アッシュは息を呑む。
(あの鎌使いが、本当に死神だったのか……。)
だからこそ、あの一撃だったのだ。
そしてラーシャは森の方へ目を向け、優しく微笑んだ。
「マイトさんは勇者です。」
「勇者……!?」
今度こそアッシュは目を見開いた。
「勇者が……魔王軍に?」
「いえ。」
ラーシャは苦笑する。
「正確には、魔王のお城に居候している勇者です。」
「……は?」
アッシュの思考が止まる。
「居候……ですか?」
「はい。」
ラーシャはあっさり頷いた。
「ご飯をご馳走になったり、お部屋を借りたりしながら暮らしています。」
「……。」
「本人はとても居心地がいいそうですよ。」
アッシュは口を半開きにしたまま固まった。
(勇者が……魔王城に住んでいる……?)
常識が音を立てて崩れていく。
勇者と魔王は敵同士。
それが世界の誰もが知る当然の話だ。
それなのに、この一行はまるで世間話でもするかのように語っている。
ラーシャはそんなアッシュを見て、小さく笑った。
「皆さん、少し変わっていますから。」
「少し……?」
アッシュは思わず額を押さえた。
(少しどころではない……。)
ガエンは怪物じみた怪力を持つ財務担当。
ダグラスは本物の死神。
そして勇者は魔王城に居候。
どこを切り取っても理解が追いつかなかった。
するとラーシャは自分を指差して。
「ちなみに。」
「……はい。」
「私も一応、魔王軍の幹部です。」
「……え?」
アッシュはゆっくりとラーシャを見る。
彼女は照れたように微笑み、軽く頭を下げた。
「ダークエルフのラーシャと申します。魔法や補佐を担当しています。」
「…………。」
数秒。
いや、それ以上だったかもしれない。
アッシュは完全に言葉を失っていた。
目の前にいる穏やかな女性も、あの三人と同格。
つまり魔王軍の幹部。
(この四人……全員が……。)
諜報員として数多くの情報を集めてきた。
各国の将軍。英雄。伝説の傭兵。
そのどれとも違う。
目の前にいるのは、一国の軍勢すら相手取れる化け物たちだった。
その時だった、ガサッ、と森の奥から足音が聞こえる。
「戻ったぞー。」
ガエンののんびりした声が響き、マイトが笑顔で手を振る。
「ただいまー!」
ダグラスも無言で歩いてくる。
三人とも服にはほとんど傷一つなく、まるで本当に散歩から帰ってきたような様子だった。
「おかえりなさい。」
ラーシャが穏やかに迎える。
「ただいま。」
ガエンは焚き火の前へ腰を下ろすと、大きく伸びをした。
「いやー、いい運動だったな。」
「うん!」
マイトも嬉しそうに頷く。
「お腹空いた!」
その何気ない会話を聞きながら、アッシュは心の中で静かに呟いた。
(……この人たちは、一体何なんだ。)
諜報対象として調べるつもりだった。
だが今は、調べれば調べるほど、理解できない存在になっていく。
アッシュが呆然と四人を見つめていると、焚き火の前に腰を下ろしたダグラスが、ふと口を開いた。
「……なんだ?」
低く静かな声。
その瞳が真っ直ぐアッシュを捉える。
「隠すのはやめたのか?」
「……!」
アッシュの肩がびくりと震えた。
その一言で悟る。
(やはり……全部、気付いていた。)
ラーシャだけではない。
この死神も、自分が諜報のために近付いたことなど、とっくに見抜いていたのだ。
言い逃れを考えるが、何一つ浮かばない。
沈黙が流れる。
すると、その空気を壊すようにガエンが豪快に笑った。
「ははっ、もう隠さなくていいだろ。」
アッシュへ視線を向ける。
「ぶっちゃけ、お前どこの諜報員だ?」
「……。」
「バルファードか?」
その一言に、アッシュの目がわずかに揺れた。
それだけで十分だった。
ガエンは「あ、やっぱりな」とでも言いたげに頷く。
「図星か。」
アッシュは観念したように小さく息を吐いた。
「……さすがですね。」
覆面の奥から苦笑が漏れる。
「ええ。その通りです。」
マイトが「あ、本当だったんだ」と目を丸くし、ラーシャは予想通りというように微笑む。
ガエンはまったく気にした様子もなく肩をすくめた。
「別にいいさ。」
「え……?」
「俺達、隠れて悪いことしてるわけじゃねぇし。」
そう言うと焚き火へ薪を放り込み、パチパチと火花が舞う。
「俺達はな。」
ガエンは気楽な口調で続けた。
「魔王バラムが『運動会をやりたい』って言い出したから、そのスポンサー集めのために世界中を回ってるだけなんだ。」
「……運動会。」
アッシュは思わず聞き返した。
「そう。」
ガエンは頷く。
「スポンサー探して、各国と仲良くなって、みんなででっかい運動会やろうって話。」
「ちなみに芸人や音楽家まで集め始めてる。」
ダグラスが淡々と付け加える。
「芸人さん、面白い人ばっかりなんだよ!」
マイトが嬉しそうに笑う。
「ミリアなんて毎日笑わせてくれるし!」
「ビルムさんもツッコミ担当として優秀ですよ。」
ラーシャも穏やかに補足した。
「……。」
アッシュは四人を順番に見つめた。
誰一人、嘘をついている顔ではない。
あまりにも自然で。あまりにも堂々としていて。
だからこそ信じ難い。
世界各国が警戒し、正体を探っていた一行。
その旅の目的が魔王が運動会をやりたいから。
あまりにも拍子抜けで、あまりにも平和すぎる理由だった。
しばらく黙っていたアッシュは、小さく笑った。
「……そうでしたか。」
覆面の奥で目を細める。
「噂は……本当だったんですね。」
「ん?」
ガエンが首を傾げる。
「バルファードでも報告が上がっていました。」
アッシュは静かに語り始める。
「『世界を旅する魔王軍の一団は、各国でスポンサー契約を結び、運動会なる催しを開こうとしている』と。ですが諜報部では誰も信じませんでした。」
苦笑する。
「高度な隠語だろう、と。軍事同盟の暗号ではないか。あるいは各国へ潜入するための偽装工作ではないか、と。」
ガエン達は顔を見合わせ、次の瞬間。
「ぶはははははっ!」
ガエンが腹を抱えて笑い出した。
「考えすぎだろ!」
マイトも吹き出す。
「ただ運動会したいだけなのに!」
ラーシャは口元を押さえ、上品に笑う。
ダグラスだけは表情を変えず、小さく呟いた。
「まあ……普通は信じない。」
その一言に、今度はアッシュまで肩を震わせて笑ってしまった。
「ええ。」
諜報員として初めてだった。
報告書に書かれていた内容が、信じられないほど馬鹿馬鹿しく、そして完全に事実だったのは。
焚き火を見つめながら、ガエンは苦笑した。
「しかし、そんな理由だけでここまで警戒されるとはな。」
薪がぱちりと音を立てる。
「軍師王レムルスってのは、ずいぶん慎重なんだな。」
その名を聞いた瞬間。
アッシュの表情から笑みが消えた。
「……慎重。」
小さく呟く。
「ええ。それだけではありません。」
焚き火の炎を見つめたまま、静かに続ける。
「レムルス王は、私が知る限り、この大陸で最も恐ろしい軍師です。」
マイトが首を傾げる。
「そんなに強いの?」
「武勇ではありません。」
アッシュは首を横に振った。
「頭脳です。」
その一言だけで、空気が少し引き締まる。
「レムルス王は、どんな小さな違和感も見逃しません。商人が一人増えた。兵士が一人減った。街道を通る馬車の数がいつもより一本多い。それだけで何かを疑い始めます。」
ガエンは「へぇ」と感心したように腕を組んだ。
アッシュはさらに続ける。
「敵が嘘をつくことも計算済み。本当のことだけを話していても、その本当の話を利用して罠を張ってくる。」
ラーシャが静かに頷いた。
「情報を読むのではなく、人の思考そのものを読むタイプですか。」
「その通りです。」
アッシュは頷く。
「だからバルファードではこう言われています。」
少し間を置いて、低い声で告げた。
「『レムルス王を騙そうとするな。騙そうと思った時点で、すでに読まれている』と。」
マイトが思わず目を丸くする。
「すごい人なんだ……。」
「ええ。」
アッシュは苦笑した。
「諜報部では、レムルス王への報告書に推測を書くことは禁じられています。推測を書けば、その推測が生まれた理由まで質問される。理由を書けば、その根拠を求められる。根拠を書けば、証拠を持ってこいと言われる。証拠を持っていけば、その証拠が本物である証拠を求められる。」
ガエンが思わず吹き出した。
「面倒くせぇな!」
「だからこそ軍師王なのです。」
アッシュは真顔で答える。
「中途半端な情報を最も嫌うお方です。」
ダグラスが腕を組んだまま呟く。
「疑うことをやめない男か。」
「はい。」
アッシュは静かに頷いた。
「そして一度『敵』と判断した相手には、一切容赦しません。」
焚き火が揺れる。
「戦が始まる前に兵糧を断ち、補給路を潰し、同盟を切り崩し、逃げ道まで塞ぐ。気づいた頃には、戦う前から勝負が終わっています。」
その話を聞いても、ガエンは不敵に笑った。
「なるほど。」
腕を組み、炎の向こうを見つめる。
「そりゃ会うのが楽しみになってきた。」
アッシュは思わず目を見開いた。
「……楽しみ、ですか?」
「頭の切れる相手なんだろ?」
ガエンは笑う。
「スポンサーの話をするなら、そういう相手のほうが話し甲斐がある。」
アッシュは一瞬言葉を失い、やがて小さく息を吐いて苦笑した。
「やはり……皆さんは普通ではありませんね。普通の人なら、レムルス王の名を聞いただけで身構えます。」
ガエンは肩をすくめる。
「俺達、戦争しに行くわけじゃねぇからな。運動会のスポンサーを頼みに行くだけだ。」
その一言に、アッシュは額を押さえながら小さく笑った。
(この人たちは……レムルス王相手にも、本気でその話しかしないつもりなのか。)
そのあまりの一貫性に、諜報員としての常識がまた一つ音を立てて崩れていくのだった。
焚き火の火が静かに揺れる。
笑いもひと段落した頃、不意にガエンがアッシュへ視線を向けた。
「そういやさ。」
「はい?」
「お前、諜報員だってバレちまったけど。」
ガエンは首をかしげる。
「罰とか受けるのか?」
マイトも心配そうな顔になる。
「怒られたりしない?」
ラーシャも静かにアッシュを見る。
「任務失敗という扱いになる可能性は?」
アッシュは少し考え、苦笑した。
「……多分、大丈夫です。」
「多分?」
ガエンが笑う。
「なんだその歯切れの悪さ。」
「今回の任務は『調査』です。潜入工作でも暗殺でもありません。」
アッシュは焚き火へ視線を落とした。
「正体を隠すことは望ましいですが、それ自体が最優先ではありません。目的は皆さんを観察し、事実を持ち帰ることです。」
「なるほど。」
ラーシャが頷く。
「では、成果さえあれば問題ないと。」
「ええ。」
アッシュは小さく頷いた。
「むしろ……。」
少し困ったように笑う。
「今回ほど報告書を書くのに困る任務もありません。」
「なんで?」
マイトが首をかしげる。
アッシュは真面目な顔で答えた。
「内容が、そのまますぎるからです。『魔王軍幹部一行は運動会開催のためスポンサー集めを行っている。各国で芸人や音楽家も勧誘している。敵対意思は確認できず』……。」
一度口を閉じる。
「これを提出しても、『もっと真面目に書け』と言われる未来しか見えません。」
一同は数秒沈黙し――。
「ぶはははは!」
ガエンがまた腹を抱えた。
「確かに!」
マイトも笑い転げる。
「信じてもらえないよ、それ!」
ダグラスだけが無表情のまま呟く。
「全部、本当だな。」
「だから困るんです。」
アッシュは肩を落とした。
「嘘を一つも書いていないのに、最も信用されない報告書になります。」
ラーシャはくすりと笑う。
「諜報員としては珍しい悩みですね。」
「ええ。」
アッシュも苦笑する。
「普通は証拠が足りなくて悩みます。」
少し間を置く。
「今回は、証拠がありすぎて困っています。」
「絵でも描いてやるか?」
ガエンが冗談半分で言う。
「『魔王軍、運動会スポンサー交渉中』って。」
「余計に偽造だと思われます。」
アッシュは即答した。
「ですよね。」
ラーシャが微笑む。
「でもレムルス王ほどのお方なら、逆に事実だと判断されるかもしれませんよ。」
その言葉に、アッシュは少し考え込んだ。
「……いえ。」
ゆっくり首を振る。
「レムルス王なら、まず私を呼ぶでしょう。『この報告書を書いた理由を説明しろ』と。」
ガエンは笑いながら薪を放り込む。
「大変だな、お前の仕事。」
「ええ。」
アッシュは苦笑を浮かべたまま頷いた。
「ですが、一つだけ断言できます。」
「ん?」
「私は、この旅で見たことを一切脚色せず、そのまま報告します。」
炎を見つめながら、静かに続ける。
「皆さんが敵ではなく、本気で世界中に運動会を広めようとしていることも。レムルス王なら、その報告書を読んでどう判断するか……。」
そう呟くアッシュの声には、諜報員としての緊張と、一人の人間としてのわずかな期待が入り混じっていた。




