33.不安、広がる
山の上からまるで獲物を見下ろすように。
複数の人影が馬車を見つめていた。
ガエンの背筋を冷たいものが走った。
「ちょっと見てくるね。」
そう言うとマイトは馬車を飛び出した。
「おい待て!」
ガエンが叫ぶが遅かった。
次の瞬間にはマイトの姿が消えていた。
「え?」
ラーシャが目を瞬かせる。
「消えた?」
「違う。」
ナラが額を押さえた。
「速すぎて見えなかっただけ。」
どんっ。
地面が小さく爆ぜる音がした。
マイトは山道を一直線に駆け上がっていた。
普通なら不可能な斜面や岩壁、足場などほとんどない。
だが本人はまるで平地を走るような勢いだった。
「待て待て待て待て!」
ガエンが馬車から身を乗り出す。
「なんで行くんだあいつ!」
「気になるからじゃない?」
ナラが淡々と言った。
「その理由で行くな!」
正論だった。
しかし言ったところで意味はない。
マイトはすでに崖の中腹まで到達していた。
御者が青ざめる。
「な、なんだあの人!?」
「俺達もたまにそう思う。」
ガエンは遠い目をした。
その頃崖の上では黒い外套の人影達も異変に気付いていた。
一人が呟く。
「何だあれは。」
「こっちに来ている。」
「馬鹿な。」
人影達の声に僅かな動揺が混じる。
普通の旅人なら自分達に気付いても逃げるか警戒する。
まさか突っ込んでくるとは思わない。しかも異常に速い。
「近い!」
誰かが叫んだ。
そして。
ひゅん。
マイトが最後の岩を蹴った。
身体が宙を舞い十数メートル先の崖の上へ着地。
どすん。
土煙が舞った。
黒外套達が硬直する。
マイトはにこにこと手を振った。
「やっほー。」
全員が黙った。
沈黙。
風だけが吹く。
そして一人が震える声で言う。
「何者だ。」
「勇者。」
即答だった。
「勇者。」
「うん。」
「勇者?」
「そう。」
会話になっていない。
マイトは首を傾げた。
「それより何してるの?」
黒外套達は互いに顔を見合わせる。
予想外にも程がある。
獲物を監視していたはずなのに、気付けば本人が目の前にいるのだ。
しかも全く警戒していない。
マイトはさらに近付いた。
「ねぇ。」
びくっ。
一人が後ずさる。
「なんでそんなにびっくりしてるの?」
「近付くな!」
「なんで?」
「なんでって……!」
その時だった。
人影達の中でも一際背の高い男が前へ出る。顔は仮面で隠れていた。
他の者達が一歩下がる。どうやらリーダーらしい。
男はマイトを見つめた。
しばらく沈黙。
やがて低い声で言う。
「……勇者マイト。」
「うん。」
「お前の噂は聞いている。」
「どんな?」
「聞かなかったことにしたい類の噂だ。」
マイトは少し傷付いた顔になった。
その頃。
下の街道では。
ガエン達が崖の上を見上げていた。
遠すぎて会話は聞こえない。
ただ。マイトが黒外套達と話しているように見える。
そして次の瞬間、黒外套達がなぜか全員が一斉に頭を抱えた。
「……何したんだあいつ。」
ガエンが嫌な予感しかしない顔で呟いた。
ナラも同意する。
「たぶん会話。」
「会話でああなる?」
「マイトならなる。」
誰も否定できなかった。
崖の上。
黒外套達は本気で頭を抱えていた。
「どうしたの?」
マイトが不思議そうに聞く。
仮面の男は額を押さえながら答えた。
「お前は自分の噂を知らないのか。」
「知らない。」
「知らないのか……。」
さらに頭が痛そうな顔になる。
後ろの黒外套の一人が小声で囁いた。
「隊長、本当に勇者です。」
「見れば分かる。」
「どうします。」
「私に聞くな。」
「隊長ですよね?」
「今はそういう気分ではない。」
完全に調子を崩されていた。
マイトは気にせず続ける。
「で、何してたの?」
沈黙。
誰も答えない。
「見張り?」
ぴくり。
数人の肩が揺れた。
「当たり?」
「……。」
「当たりなんだ。」
「喋るな。」
仮面の男が部下に言った。
だがもう遅い。
マイトは納得したように頷く。
「なるほど。」
「何がなるほどだ。」
「僕達を見てたんだね。」
「……。」
図星だった。
マイトは少し考え込む。
「襲う予定だった?」
再び沈黙。
今度は長い。
あまりにも分かりやすい反応だった。
「襲う予定だったんだ。」
「……。」
「なんで?」
「聞くな。」
「なんで?」
「聞くなと言っている。」
「気になる。」
「気になるで済ませるな!」
ついに仮面の男が叫んだ。
後ろの部下達が少し引く。
隊長が感情を露わにするのは珍しかった。
マイトは首を傾げた。
「怒った?」
「怒る。」
「なんで?」
「お前だ!」
即答だった。
その頃、下の街道ではガエン達は崖の上を見ていた。
「なんか隊長っぽい奴が叫んでないか?」
「叫んでる。」
ナラが断言する。
「距離あるのに分かるくらい叫んでる。」
ラーシャが困った顔をした。
「マイトさん、大丈夫でしょうか。」
「「相手の方が。」」
ガエンとナラの返答が完全に一致した。
御者も真顔で頷いた。
「それは私もそう思います。」
もはや初対面ですら同じ結論に至る。
そして崖の上。
仮面の男は一度深呼吸した。
落ち着け。冷静になれ、相手は勇者だ。下手に刺激するな。そう自分に言い聞かせる。
「勇者マイト。」
「うん。」
「単刀直入に言おう。」
「うん。」
「お前達を監視していた。」
「やっぱり。」
「そして状況次第では襲撃する予定だった。」
「なるほど。」
マイトは納得したように頷いた。
仮面の男は続ける。
「だが。」
そこで一度言葉を切る。
「やめた。」
「え?」
「やめた。」
「なんで?」
仮面の男は心底疲れた顔になった。
「お前を見たからだ。」
後ろの部下達も全員頷く。
「正しい判断です。」
「賛成です。」
「撤収しましょう。」
「帰りたいです。」
士気が消滅していた。
マイトは少し残念そうな顔をする。
「戦わないの?」
「戦わん。」
「なんで?」
「なんでもだ。」
仮面の男は即答した。
そして部下達へ振り返る。
「全員撤収。」
「了解。」
「了解。」
「了解。」
恐ろしいほど素早い返事だった。
誰一人反対しない。
むしろ待ってましたと言わんばかりである。
マイトが慌てる。
「あれ?」
「撤収だ。」
「もう帰るの?」
「帰る。」
「早くない?」
「遅いくらいだ。」
仮面の男はそう言うと、最後にマイトを見た。
「忠告しておく。」
「なに?」
「この山には我々以外もいる。」
マイトの表情が少しだけ嬉しそうに変わった。
「他にも?」
「ああ。」
仮面の奥の視線がさらに北を向く。
山脈の奥深く。
人の踏み入らぬ険しい峰々。
「最近、この辺りで妙な動きがある。」
部下達も急に真面目な顔になる。
「何かが山を動き回っている。」
「何か?」
「分からん。」
仮面の男は静かに言った。
「だから我々も調べていた。」
先ほどまでとは違う空気。
冗談ではない。
本物の警戒だった。
マイトもそれを察する。
「強いの?」
「分からん。」
「でも気になる。」
「その反応は予想していた。」
仮面の男が疲れた声で言う。
嫌な予感しかしない。
そして案の定マイトは満面の笑みを浮かべた。
「探してみようかな。」
黒外套達全員が同時に天を仰いだ。
「だから言っただろう。」
仮面の男が呟く。
「関わるべきではないと。」
「隊長。」
「なんだ。」
「今ならその意見に全力で賛成できます。」
全員が深く頷いた。
崖の上から黒外套達が消えたのは、それからほんの数分後だった。
岩陰から岩陰へ。
まるで最初からいなかったかのように姿を消していく。
最後に残った仮面の男だけが振り返った。
「勇者。」
「うん?」
「探しに行く気だな。」
「気になるし。」
「だろうな。」
隊長は諦めた顔で頭を抱えた。
「ではさらばだ。」
そう言い残し、男も消えた。
山風だけが吹く。
マイトはしばらく男達が消えて行った方を見ていた。
「変な人達だったな。」
そして何事もなかったように街道へ飛び降りた。
ドンッ。
着地して馬車の前に戻ってくる。
「ただいま。」
「おう。」
ガエンが即答する。
「何だった?」
ガエンが腕を組みながら聞く。
マイトは少し考えた。
「監視してた人達。」
「知ってる。」
「襲う予定だったらしい。」
「やっぱりか。」
ガエンは全く驚かなかった。
「で?」
「やめたって。」
「それもだろうな。」
「なんで分かるの?」
「お前を見たからだろ。」
即答だった。
ナラも頷く。
「ボクでもそうする。」
「私もです。」
ラーシャまで同意した。
御者も頷く。
「賢明な判断ですね。」
満場一致だった。
マイトだけが納得していない。
「でも戦う前に帰っちゃった。」
「良かったな。」
「良くない。」
「良いんだよ。」
ガエンが即座に切り捨てる。
「むしろ戦闘にならなくて安心した。」
「えー。」
不満そうな声だった。
その反応に全員がため息を吐く。
だが次の瞬間マイトが思い出したように言った。
「そういえば。」
全員が嫌な予感を覚えた。
「山で何か動いてるらしい。」
ガエンがゆっくり聞き返す。
「何が?」
「分からないって。」
さらに嫌な予感が強くなる。
マイトは楽しそうだった。
「調べてたらしい。」
「ほう。」
「でも正体は不明。」
「ほう。」
「強いかもだって。」
ガエンは顔を覆った。
ナラも同じ動作をした。
ラーシャは祈り始めた。
御者は遠い目になった。
マイトだけが笑顔だった。
「面白そう。」
「駄目だ。」
ガエンが即答する。
「まだ何も言ってない。」
「言う前に分かる。」
「探しに」
「行かない。」
「まだ最後まで言ってない。」
「行かない。」
完全防御だった。
マイトは不満そうな顔をする。
「気になる。」
「俺も気になる。」
ガエンは認めた。
「でも今は依頼中だ。」
「む。」
「目的地はサイヴァーンだ。」
「む。」
「寄り道するな。」
「うーん。」
ものすごく怪しい返事だった。
ガエンはじっとマイトを見る。
マイトは視線を逸らした。
「おい。」
「なんでもない。」
「絶対なんか考えてる。」
「考えてない。」
「嘘つけ。」
ナラがぽつりと言う。
「夜中に抜け出しそう。」
「やりそうです。」
ラーシャも同意する。
「やるなよ。」
ガエンが念を押す。
「やらない。」
全員が疑いの目を向けた。
「信用されてない。」
「当然だ。」
これも即答だった。
馬車は再び動き始める。
山道を北へ。
風は冷たくなり、岩山はさらに険しくなる。
しばらく進んだ頃、御者がふと眉をひそめた。
「……?」
「どうした。」
ガエンが聞く。
御者は前方を見つめたまま答えた。
「今、何か見えた気がしました。」
全員が前を見る。
街道の先、遥か遠く。
山の斜面を横切るように巨大な黒い影が動いた。
一瞬だった。
次の瞬間には岩陰へ消えている。
だが見間違いではない。
大きい。あまりにも大きかった。
馬車よりも、家よりも。
そして。
「おお。」
マイトだけが嬉しそうな声を上げた。
ガエンは頭を抱えた。
「見つかるの早すぎるだろ……。」
山風が吹く。
その奥の峰々から。
まるで何かがこちらを見ているような、得体の知れない気配が流れてきていた。




