168.世界、動き出す
招待状は軍事国家バルファード、海洋都市国家アトラマリス、聖王国ルミナリア、そしてそのほかの国や都市にも届いた。
世界は魔族領王都マグノリアで開催される運動会に向けて動き出した。
出店の準備をする者、体を鍛える者、漫才の台本を作る者、演奏の練習をする者、観戦を楽しみにする者、大勢の人々が人間も魔族も関係なく楽しみにしていた。
世界が運動会に向けて動きはじめた頃。
魔族領王都マグノリアにある魔王の城、静寂の城の中庭。
そこには小さな畑があった。
そして、その畑を無言で耕している大柄なオーガが一人。
魔王軍幹部、財務担当ガエン・ヴァルクである。
「…………」
ガエンは鍬を使っていなかった。
両手を土に突っ込み、黙々と土を掘り返している。
ざくっ。
ざくっ。
土を握り、ほぐし、雑草を抜く。
それを何度も繰り返す。
普段は大量の書類を相手にし、国家間の契約や予算、スポンサーとの交渉までこなしているガエンだったが、今だけは仕事のことを一切考えていなかった。
「…………よし。」
土を手のひらで軽くならす。
そこへ、小さな種を一粒ずつ植えていく。
「これは……こっちだな。」
植える場所を確認しながら、丁寧に土をかぶせる。
また一つ。
また一つ。
そして最後の種を植え終えると、ガエンは立ち上がった。
腰に手を当て、畑全体を眺める。
「…………」
風が吹く。
植えたばかりの畑を、穏やかな風が撫でていく。
ガエンはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「うん。」
満足そうに頷いた。
「いい畑だ。」
それだけだった。
だが、その顔には普段の財務担当としての険しさはない。
久しぶりに仕事から離れた、穏やかな表情だった。
実は今日、ガエンは魔王バラムから一日だけ休みをもらっていた。
運動会の準備が本格化してからというもの、ガエンの仕事量は増え続けていた。
スポンサーとの契約書の確認。
各国への連絡。
会場設備の予算。
出店関係の調整。
参加者の受け入れ準備。
そして、それらに伴う大量の書類。
「一日くらい、好きに過ごしてこい」
そう言ったのはバラムだった。
最初、ガエンは断ろうとした。
しかし。
「休むのも仕事のうちだ」
バラムにそう言われてしまえば、ガエンも従うしかなかった。
そして、ガエンが選んだ休日の過ごし方が畑だった。
「……さて。」
ガエンは土のついた手を眺める。
「水をやるか。」
そう呟いて、近くに置いていた桶を手に取った。
その姿は、魔王軍幹部というより、どこにでもいる農夫そのものだった。
一方その頃。
世界各地では、運動会に向けた準備が着々と進んでいた。
軍事国家バルファードでは、兵士達が訓練場を駆け回っている。
「もっと走れ!」
「運動会だからって手を抜くな!」
「これは訓練ではない! ……いや、訓練でもある!」
海洋都市国家アトラマリスでは、海産物を使った出店の準備が始まっていた。
「マグノリアまで持っていくなら保存方法を考えないと!」
「新鮮な魚をどうやって運ぶ!?」
「氷魔法を使えばいいだろ!」
聖王国ルミナリアでも、運動会へ参加する者達が準備を進めている。
そして各地の酒場では。
「聞いたか? 魔王主催の運動会だってよ」
「人間も魔族も参加するらしいぞ」
「しかも国同士で競うわけじゃないんだろ?」
「ああ。みんなで楽しむ祭りみたいなものらしい」
そんな会話があちこちで交わされていた。
これまでなら、人間と魔族が同じ場所に集まるなど考えられなかった。
だが今回だけは違う。
剣を交えるのではなく、走る。
魔法で争うのではなく、笑う。
互いの料理を食べ、音楽を聴き、競技を楽しむ。
そんな一日が、もうすぐやってくる。
そしてその中心となる魔族領王都マグノリアでは。
「…………」
ガエンが畑に水を撒いていた。
「…………」
一つ一つの種に水を与えていく。
「よし。」
最後まで水を撒き終えると、ガエンは桶を置いた。
そして再び畑を眺める。
「……運動会か。」
ふと、そんな言葉が口から漏れた。
自分がここまで忙しくしている原因でもある。
だが。
「まあ、悪くないな。」
ガエンは小さく笑った。
世界中の人間と魔族が、同じ場所で笑う。
そのために自分達は動いている。
そう考えると、これまでの仕事も少しだけ違って見えた。
ガエンは土のついた手を腰に当てる。
「……さて。」
一日だけの休日。
まだ時間はある。
「昼飯でも作るか。」
そう呟いて、ガエンは畑を後にした。
その背中には、財務担当としての疲れも、幹部としての威圧感もない。
ただ自分の畑を眺めて満足した、一人のオーガの穏やかな休日がそこにはあった。
ガエンは畑を後にすると、そのまま魔王城の中へ戻っていった。
向かった先は厨房だった。
昼時ということもあり、厨房では料理人達が忙しそうに動き回っている。
「次の料理、火を弱めてくれ!」
「はい!」
「皿が足りないぞ!」
「今持ってきます!」
そんな慌ただしい厨房の片隅で、ガエンは足を止めた。
「……昼飯か。」
自分で作ることにしたものの、さすがに厨房を丸ごと借りるつもりはない。
ガエンは料理人の一人に声をかけた。
「悪い。少しだけ場所を借りてもいいか?」
料理人は振り返る。
「もちろんです、ガエンさん。何をお作りになるんですか?」
「簡単なものだ。」
そう言ってガエンは厨房の隅に置かれていた炊きたての米を少しだけ分けてもらった。
そして。
「これでいい。」
ガエンが取り出したのは、塩だった。
それを手に取ると、ほんの少しだけ手のひらに振りかける。
「……よし。」
手を水で濡らし、塩を馴染ませる。
そして炊きたての米を手に取った。
ぎゅっ。
ぎゅっ。
大きなオーガの手の中で、米が形を変えていく。
「…………」
無言で握る。
ぎゅっ。
ぎゅっ。
やがて。
「できた。」
完成したのは、極めてシンプルな塩おにぎりが数個だった。
具もない。
海苔もない。
ただ、米と塩だけ。
だがガエンは満足そうに眺めていた。
「こういうのでいいんだよ。」
料理人達も、そのおにぎりを眺める。
「……随分と豪快なおにぎりですね。」
「俺の手が大きいだけだ。」
「ですよね。」
ガエンは苦笑すると、おにぎりを一つ持ち上げた。
その時だった。
「グァブル!」
厨房の入り口から、妙に楽しそうな声が響いた。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、魔王軍幹部のボアマン。
デルストだった。
「んごごっ! グァブル、バルガヴァ……ごべっ、ボグル!」
「…………」
ガエンが固まる。
料理人達も固まる。
デルストは満面の笑みを浮かべている。
「ザガヴァボ、んごごごっ! ドブェ、ブダブォルバガ!」
「…………」
ガエンは首を傾げた。
「……すまん。もう一回言ってくれ。」
「ヴァーガーヴァーっ!」
「…………」
「ボグェっ!グビヴァギっ!」
「…………」
「んごぉ!」
デルストは楽しそうに身振り手振りを加えながら、何かを必死に伝えている。
だが、やはり何を言っているのか分からない。
料理人の一人が小声で呟く。
「……ガエンさん、分かりますか?」
「いや。」
「ですよね。」
ガエンは腕を組んだ。
「……たぶん、運動会のことを言っている。」
「なぜ分かるんですか?」
「雰囲気だ。」
「雰囲気ですか……」
デルストはそんな二人をよそに、今度はおにぎりを指差した。
「んごっ!」
そして親指を立てる。
「グビヴァギ!」
「……うまそうってことか?」
「んごっ!」
今度は即答だった。
ガエンはようやく理解した。
「ああ。食いたいのか。」
「んごっ!」
デルストの顔がぱっと明るくなる。
ガエンは少し笑った。
「じゃあ一個持っていけ。」
「んごおおっ!」
デルストは嬉しそうにおにぎりを受け取った。
そして。
「グァブルっ!クベェっ、ガヴァガ!」
「…………」
ガエンは再び首を傾げた。
「……今度は何だ?」
デルストは楽しそうに笑うと、おにぎりを片手に厨房から出ていった。
「…………」
静かになる厨房。
料理人がぽつりと呟く。
「結局、何を言っていたんでしょうね?」
ガエンはしばらくデルストが去っていった方向を見つめていた。
「……分からん。」
「ですよね。」
ガエンは残ったおにぎりを一つ手に取る。
そして一口。
「…………」
もぐもぐ。
「……うん。」
満足そうに頷く。
「うまい。」
料理人達が笑う。
「ガエンさん、今日は随分と楽しそうですね。」
「そうか?」
「はい。」
ガエンは少しだけ考えた。
そして。
「……そうかもしれんな。」
普段なら大量の書類と数字に囲まれている。
だが今日は違う。
畑を耕し、種を植え、飯を自分で作り、意味の分からない会話までした。
それだけのことだった。
けれど。
「……休みってのも、悪くないな。」
ガエンはそう呟き、もう一口おにぎりを頬張った。
厨房の料理人達も、その穏やかな姿を見て微笑んでいた。
運動会を目前にして、世界中が慌ただしく動き始めている。
その中心にいる魔王軍幹部の一人もまた。
今日はほんの少しだけ、日常を楽しんでいた。




