16.馬車、順調に進む
人間領王都フィルドリアに朝日が差し込み街に活気が出てきた頃、ガエン達はギルドに向かって歩いていた。
朝の街は相変わらず目玉焼きや卵焼きの焼く匂い、パンを焼く匂い、炊き立てのご飯の匂いに包まれて食欲をそそる。
「不思議や。食べたばっかなのに匂いを嗅ぐとまた食べたなるな。」
ビルムがベーコンエッグサンドの屋台をじっと見ながら呟くと、ガエンが頷く。
「フィルドリアの朝食文化、恐るべしだな。」
「わかる。」
ナラも真剣な顔で頷いた。
「パンも美味しそうだし卵焼きも捨てがたいし、おにぎりもある。全部食べたい。」
「やめろ。」
即座にガエンが止めた。
ナラとビルムは名残惜しそうに屋台を見つめる。
すると今度は別の屋台からベーコンを焼く音が聞こえてきた。
じゅうううう。
香ばしい匂いが風に乗る。
二人の足がぴたりと止まった。
「……。」
「……。」
同時だった。
まるで操られたように屋台へ向かおうとする。
ガエンは慣れた動きで二人を掴んだ。
「行くな。」
「まだ朝やで。」
「だからだ。」
「朝だから食べる。」
「朝飯は食った。」
「第二朝飯や。」
「そんな文化はねぇ。」
しかし襟首を掴まれたままの二人は全く気にしていない。
むしろ視線はベーコン串へ固定されていた。
ミリアが呆れた顔をする。
「なんでそんなに食べられるの……。」
「育ち盛りやから。」
「ビルムは二十代後半よね?」
「心は育ち盛りや。」
ラーシャが小さく笑った。
「まあ、旅をしていると食べられる時に食べておく癖は付きますから。」
「あー。」
ダグラスが納得する。
「確かに。」
冒険者はいつ次の食事にありつけるかわからない。
だから目の前に美味そうな物があると確保したくなる。
それ自体は珍しくなかった。
問題は。
「ナラ。」
「なに?」
「お前もさっき朝飯おかわりしてたよな?」
「した。」
「なんでまだ食う気なんだ。」
「別腹。」
「朝飯に別腹は適用されねぇ。」
そんなやり取りをしていると。
ふと前方から聞き慣れた声がした。
「おや。」
全員が振り向く。
そこには長い銀髪を揺らした女性が立っていた。
王都ギルドの受付嬢の一人がいた。
「あら、皆さん。おはようございます。」
「おう、おはよう。」
ガエンが手を上げる。
受付嬢は一同を見回し、そしてガエン達の後ろを見た。
正確には。
ガエンに捕獲されている二人を見た。
「……何をしているんですか?」
「朝食の追加購入を阻止してる。」
「なるほど。」
彼女は一瞬で理解した。
「いつものですね。」
「いつものだ。」
ビルムが抗議する。
「人聞き悪いやん。」
「悪くない。」
「悪くない。」
「悪くないですね。」
ガエン、ダグラス、受付嬢が即答した。
ナラも頷く。
「悪くない。」
「お前はどっちの味方なんだ。」
ガエンが頭を抱えた。
ミリアは肩を震わせて笑いを堪えている。
朝の王都。
今日もいつも通り騒がしい。
そんな仲間達を見ながら受付嬢は苦笑した。
「皆さん、本当に変わりませんね。」
「変わったらこんな苦労してねぇよ。」
ガエンの言葉に全員が笑った。
そして再びギルドへ向かって歩き始める。
だが数秒後。
「……焼きたてメロンパン。」
ナラがぽつりと呟いた。
「見るな。」
「まだ何も言ってないよ。」
「顔に書いてある。」
「そんな馬鹿な。」
「書いてある。」
ガエンは断言した。
ビルムも真剣な顔で頷く。
「書いてあるな。」
「お前も同じ顔してるんだよ。」
フィルドリアの街中に笑い声が広がった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ギルドに到着するとガエン達に気付いたギルドマスターのロドガルが近づいてきた。
「おう、来たか。ゼル=グラードは移送用の馬車にいるから、準備が出来たら行ってくれ。」
ガエンが頷く。
「ああ、準備は万端だ。行ってくる。」
「サイヴァーンまでは問題ないと思うが、一応気を付けろ。」
少しだけ真面目な声だった。
「司法国家だけあって検問は厳しい。特に今回はゼルを連れて行くんだ。余計な騒ぎだけは起こすなよ。」
「わかってる。」
ガエンが答えた時、ギルドの奥から一人の職員が走ってくる。
「ギルドマスター!」
「ん?」
「移送用馬車の件ですが、準備完了しました。」
「おう。」
ロドガルは頷く。
「じゃあ案内してやってくれ。」
「はい。」
職員に連れられてガエン達はギルドの裏手へ向かった。
そこには大型の馬車が停められていた。
普通の旅用馬車より頑丈そうで、側面には王国の紋章が刻まれている。
「思ったよりしっかりしてるな。」
ダグラスが感心したように言う。
「国家案件だからな。」
ロドガルが答える。
「ゼルが逃げるとは思ってねぇが、万が一もあるからな。」
「逃げへんやろ。」
ビルムが言った。
「むしろ面倒臭がりそうや。」
「それはそう。」
全員が頷いた。
そして馬車の扉が開く。
中を覗いた瞬間、全員が固まった。
「……。」
「……。」
「……。」
馬車の中。
ゼルは座席に座っていた。
だが問題はそこではない。
膝の上には机代わりの箱。山積みの本。大量の書類。地図。筆記具。
そして。
「何してんだお前。」
ガエンが思わず聞いた。
ゼルは顔を上げた。
「おはようございます。」
「おはようじゃねぇ。」
「移送中に読む本を選んでるところですよ。」
全員が本の山を見る。軽く二十冊はあった。
「全部読む気か?」
「暇ですから。」
「サイヴァーンまで何日かかると思ってんだ。」
「だから少ないくらいですね。」
「多いわ。」
ガエンが呆れた声を出した。
ナラが本の山を見て首を傾げる。
「何の本?」
「歴史書。」
「ふーん。」
「魔法理論書。」
「難しそう。」
「各国の法律集。」
空気が止まった。
「なんで?」
ガエンが聞く。
ゼルは不思議そうな顔をした。
「サイヴァーン行くからですよ。」
「だから?」
「行く国の法律くらい知っておいた方がいいでしょう。」
全員が黙った。
ロドガルも黙った。
職員も黙った。
そしてダグラスがぽつりと言う。
「……真面目なんだか変人なんだかわからんな。」
「両方やろ。」
ビルムが即答した。
ゼルは首を傾げる。
「褒めてます?」
「褒めてへん。」
「そうですか。」
少し残念そうだった。
その様子を見ていたロドガルが大きくため息を吐く。
「よし。」
全員が見る。
「改めて言う。」
ロドガルは真顔だった。
「ゼルの護送を頼む。」
「おう。」
「わかった。」
「任せて。」
全員が頷く。
「さて、行くか。」
ガエンが言うとダグラスがガエンを見る。
「サイヴァーンは任せた。先にクリアフォルで待っている。」
「おう。」
ダグラスとビルムとミリアは手を振りながらクリアフォルに行く馬車に向かっていった。
ダグラス達を見送ってからガエンは馬車の縁に足をかけた。
「よし。じゃあ乗るぞ。」
ナラとラーシャも頷く。
「うん。」
「はい。」
三人が順番に乗り込もうとして、ふとガエンが止まった。
「……ん?」
周囲を見回す。
ラーシャも気付いた。
「あれ?」
ナラも首を傾げる。
「マイトは?」
三人は顔を見合わせた。
「いない。」
ナラが断言した。
「いねぇな。」
ガエンも頷く。
「そういえば朝から見てないです。」
ラーシャが言う。
全員が考える。
数秒後。
「……どこ行った?」
「知らない。」
「知らないです。」
即答だった。
ガエンは額を押さえた。
「おいおいおい。」
嫌な予感しかしない。
勇者マイト。
実力は本物。
人格もまあ問題ない。
ただし。
「自由人だからなぁ……。」
「自由人。」
ナラが頷く。
「放牧されてる牛みたい。」
「勇者を牛扱いするな。」
「でもだいたい合ってる。」
「否定できねぇ。」
ガエンは遠い目をした。
ラーシャがおろおろする。
「ど、どうします?」
「探すしかねぇだろ。」
「王都中を?」
「それは最悪だな。」
ガエンがため息を吐く。
ナラは真顔だった。
「屋台。」
「ん?」
「屋台を探そう。」
「なんでだ。」
「朝。」
「うん。」
「マイト。」
「うん。」
「屋台。」
「なんで確信してんだ。」
「勘。」
「嫌な説得力があるな。」
ガエンは頭を抱えた。
その時だった。
「おー。」
聞き慣れた声がしたので全員が振り向く。
そこには。
「んぐ。」
卵焼き串をもぐもぐ食べながら歩いてくるマイトの姿があった。のんびり歩いている。
右手には卵焼き串。
左手には卵焼き串。
さらに腰の袋から三本目の卵焼き串が覗いていた。
「……。」
「……。」
「……。」
三人が無言になる。
マイトは首を傾げた。
「どうしたの?」
もぐもぐ。
悪びれる様子は一切なかった。
ガエンの額に青筋が浮かぶ。
「どこ行ってた。」
「朝ご飯。」
「食っただろうが。」
「第二朝飯。」
全員の視線がナラへ向いた。
ナラは驚いた顔をした。
「仲間だった。」
「お前と同類が増えたな。」
ガエンが言う。
マイトは卵焼きを咀嚼しながら続けた。
「いやー、王都の卵焼き美味しいね。」
「聞いてねぇ。」
「出発前にもう一本買おうと思ったら、隣の屋台のも気になって。」
「うん。」
「食べ比べしてた。」
「何本食った。」
「七本。」
ラーシャが固まる。
「な、七本ですか?」
「うん。」
「朝から?」
「朝から。」
「……。」
ガエンは天を仰いだ。
ナラが感心したように言う。
「強敵。」
「張り合うな。」
マイトは残っていた卵焼きをぱくりと食べる。
「ちなみに八本目も買ってある。」
「買うな。」
即座にガエンが突っ込んだ。
するとマイトは袋から紙包みを取り出した。
「食べる?」
「いらん。」
「ナラは?」
「いる。」
「やめろ。」
ガエンが即座にナラの頭を押さえる。
ナラは不満そうだった。
「なぜ。」
「今から馬車だ。」
「馬車で食べれば。」
「お前らは遠足に行く子供か。」
マイトとナラが同時に首を傾げた。
「違うの?」
「違わない気がしてきた。」
ガエンは諦めたように言った。
ラーシャは苦笑しながら胸を撫で下ろす。
「でも無事で良かったです。」
「何かあったのかと思った。」
ガエンも頷く。
マイトはきょとんとした。
「何かあるわけないじゃん。」
「お前だから心配したんだよ。」
「失礼だなぁ。」
全然反省していない顔だった。
ガエンは大きくため息を吐く。
「……もういい。全員乗れ。」
「はーい。」
「はい。」
「うん。」
そして最後にマイトが馬車へ乗り込む。
その瞬間。
「そうだ。」
マイトが思い出したように言った。
「卵焼き屋のおじさんにおすすめの店を五軒教えてもらった。」
ガエンが顔を覆う。
ナラの目が輝く。
「本当?」
「本当。」
「今度行こう。」
「行こう。」
「やめろ。」
出発前から頭痛の種が増えたことを確信しながら、ガエンは座った。
その後ろでは。
「チーズ入り卵焼きがね。」
「ほう。」
「だし巻きも捨てがたい。」
「ほう。」
食いしん坊二人組が真剣に情報交換を始めていた。
サイヴァーンへの旅路は、どうやら出発前から騒がしいものになりそうだった。
馬車の扉が閉まる。
御者が手綱を鳴らした。
「出発するぞー!」
馬が嘶き、ゆっくりと動き出す。
王都フィルドリアの大門を抜けると、広い街道が真っ直ぐ続いていた。
朝の陽射しは穏やかで、空には雲一つない。
馬車はごとごとと揺れながら進む。
しばらくは誰も喋らなかった。
久しぶりに静かな時間だった。
「平和だな。」
ガエンがぽつりと言う。
「平和。」
ナラも頷く。
「平和ですね。」
ラーシャも笑った。
マイトは窓の外を見ながら言った。
「卵焼き食べたい。」
「平和じゃなかった。」
ガエンが即答した。
「まだ一時間も経ってねぇぞ。」
「でも朝ご飯から結構経ったよ?」
「経ってねぇ。」
「体感では昼。」
「お前の体感を信用するな。」
ナラが真面目な顔で言う。
「ボクも少しお腹空いた。」
「お前もか。」
「朝ご飯から一時間くらい経った。」
「だからなんだ。」
「お腹空いた。」
「成長期か。」
「成長期。」
「お前もう大人だろ。」
馬車の中に笑いが起きる。
ラーシャはくすくす笑いながら窓の外を眺めた。
街道の両脇には草原が広がり、時折森が見える。
旅人や商人の馬車とも何度かすれ違った。
王都周辺だけあって治安も良い。
魔物の姿も見えない。
「順調ですね。」
ラーシャが言う。
「まあ王都近くだしな。」
ガエンが答える。
「この辺は騎士団の巡回も多い。」
「なるほど。」
「問題は数日後だな。」
サイヴァーン方面へ向かうにつれて人通りは減る。
街道自体は整備されているが、森や丘陵地帯も増える。当然、魔物も出る。
だがその時。
マイトが窓の外を見ながら首を傾げた。
「ん?」
「どうした?」
「いや。」
マイトは外を指差した。
「あそこ。」
全員がそちらを見る。
遠くの丘の上に何かがいた。
ガエンが目を細める。
「鹿か?」
「鹿だね。」
ナラも言う。
立派な角を持つ鹿が一頭、丘の上に立っていた。
風に毛並みを揺らしながらこちらを見ている。
なかなか神秘的な光景だった。
ラーシャが感心したように呟く。
「綺麗ですねぇ。」
「そうだな。」
ガエンも頷く。
するとマイトが真顔で言った。
「美味しそう。」
静寂。
「おい。」
ガエンが振り向く。
「なんでだ。」
「鹿肉。」
「分かるけど言うな。」
「塩焼き。」
「やめろ。」
ナラが小さく手を挙げた。
「ボクはシチュー派。」
「お前も乗るな。」
「煮込みもいい。」
「議論を始めるな。」
ラーシャが慌てる。
「し、鹿さんが可哀想ですよ!」
「大丈夫。」
マイトが言う。
「今は狩らないから。」
「今はって言ったな?」
「旅が終わったら分からない。」
「お前は本当に自由だな!」
再び馬車の中に笑い声が響いた。
そんな調子で旅は進む。
途中で小川を渡り昼前には小さな休憩所で馬に水を飲ませ再び街道へ戻る。
天候は快、晴道も良好。魔物も出ない。盗賊の気配もない。
驚くほど順調だった。
ガエンは馬車の窓から外を眺めながら呟く。
「ここまで順調だと逆に怖いな。」
冒険者の勘だった。
何事もなく進む時ほど、後で大きな何かが起きる。
そんな経験を何度もしている。
すると。
「大丈夫だよ。」
マイトが言った。
「今回は平和な旅になる気がする。」
「その台詞が一番不安なんだが。」
ガエンは即座に返した。
ナラも頷く。
「フラグ。」
「フラグですね。」
ラーシャまで同意した。
マイトだけが不満そうな顔をする。
「なんでそんな信用ないの。」
全員が即答した。
「日頃の行い。」
「日頃の行いです。」
「日頃の行い。」
マイトは少し考えた。
「なるほど。」
そして。
「反論できない。」
珍しく納得した。
その結果、馬車の中はさらに大きな笑い声に包まれたのだった。
馬車はその後も順調に進んだ。
一日目。
何事もなく街道沿いの宿場町へ到着した。
二日目。
途中で角兎の群れを見かけたくらいで大きな問題はなかった。
三日目。
森を抜け、丘陵地帯を越え、さらに北へ。
そして四日目の朝。
ガエンは窓の外を見て眉を上げた。
「変わってきたな。」
ナラも顔を上げる。
「うん。」
ラーシャも窓へ寄った。
「景色が違いますね。」
昨日までのなだらかな草原は消えていた。
代わりに見えるのは岩場。
切り立った崖。
灰色の岩山。
街道も徐々に傾斜が増している。
御者が後ろへ声を掛けた。
「この先から山岳地帯だ! 揺れるぞ!」
その言葉通り、馬車が少し大きく揺れた。
ごとん。
がたん。
今までの平坦な道とは違う。
車輪が岩を踏む音が響く。
ガエンは腕を組んだ。
「サイヴァーン方面らしくなってきたな。」
「司法国家ですよね。」
ラーシャが尋ねる。
「ああ。」
ガエンは頷く。
「山に囲まれた天然の要塞みたいな土地だ。」
「攻めにくそう。」
ナラが言う。
「実際攻めにくい。」
「なるほど。」
窓の外では巨大な岩壁が続いている。
時折、山の中腹に砦のような建物も見えた。
見張り台だろう。
マイトは外を見ながら感心した。
「なんかゲーム終盤みたい。」
「またそれか。」
「だって見てよ。」
マイトは指差す。
「絶対あの山の上にラスボス城あるじゃん。」
「ねぇよ。」
「隠しダンジョンもある。」
「ない。」
「ドラゴンも住んでる。」
「それはいるかもしれねぇ。」
「いるんだ。」
「山脈の奥には飛竜の目撃情報もあるからな。」
「いるんだ。」
ガエンの返答にマイトの目が輝いた。
嫌な予感しかしなかった。
その時だった、ラーシャがふと気付く。
「あれ?」
「どうした?」
「静かじゃないですか?」
全員が耳を澄ませる。
確かに妙だった。
今までは鳥の鳴き声が聞こえていた。森では風の音もしていた。
だが今は静かだった。
不自然なくらいに。
ナラも周囲を見る。
「本当だ。」
「動物の気配が少ねぇな。」
ガエンの表情が少しだけ険しくなる。
冒険者としての勘が働く。
山岳地帯では珍しくない。強力な魔物の縄張りに近付くと小動物が減る。鳥も鳴かなくなる。
ラーシャもそれを察したらしい。
少し緊張した顔になる。
「もしかして……。」
「まだ分からん。」
ガエンは短く言った。
空気が違う。
それまでの旅とは明らかに違い、笑いながら進めるような雰囲気ではなかった。
馬車はさらに山の奥へ進んでいく。
切り立った岩壁。
細くなる街道。
吹き抜ける冷たい風。
空もどこか薄暗く見えた。
そしてマイトが突然窓の外を見て言った。
「誰かいる。」
全員の空気が変わる。
ガエンが即座に立ち上がった。
「どこだ。」
「上。」
指差した先。街道の遥か上の崖の縁。
そこに黒い影が立っていた。
人影だった。
長い外套を纏い、こちらを見下ろしている。
距離が遠く顔は見えない。だが妙な威圧感だけは伝わってきた。
ナラが目を細める。
「……。」
ラーシャも息を呑む。
「誰でしょう。」
その瞬間風が吹いた。
黒い外套が揺れる。
そして次の瞬間には、その人影は消えていた。
まるで最初からいなかったかのように。
馬車の中に沈黙が落ちる。
先ほどまでの和やかな旅の空気はもうなかった。
ガエンは窓の外を見つめながら低く呟く。
「……山に入った途端これか。」
マイトはなぜか少し楽しそうだった。
「やっとイベントが始まったね。」
「始まらなくていい。」
ガエンの即答に馬車の中の空気が少しだけ緩んだ。
もっとも、その緩みも長くは続かなかった。
馬車は山道を進み続ける。
ごとん。
がたん。
車輪が岩を踏むたびに揺れる。
窓の外では岩壁が迫り、空は細く切り取られているようだった。
御者が前方を見ながら声を上げる。
「もうすぐ休憩所だ! 昼飯にするぞ!」
その言葉に全員が少しだけ安堵した。
しばらくして馬車は開けた場所へ出た。
山道の途中に作られた小さな休憩所だった。
石造りの建物が一軒。井戸が一つ。
馬を繋ぐための柵。
それだけだが旅人にとっては貴重な場所だった。
馬車が停まり、ガエン達が降りていく。
ガエン達も身体を伸ばした。
「ふぅ……。」
ラーシャが大きく息を吐く。
「腰が少し痛いです。」
「分かる。」
ナラも頷いた。
ダグラス達と別れてからずっと馬車だ。
流石に疲れも溜まる。
マイトは元気に飛び降りた。
「おおー。」
そして辺りを見回す。
「本当にゲーム終盤のマップだ。」
「まだ言ってる。」
ガエンはため息を吐いた。
その時だった。
休憩所の建物から一人の老人が出てきた。
白髪混じりの髭で分厚い毛皮の上着。日に焼けた顔。
どう見てもこの辺りの住人だった。
老人は馬車を見て頷く。
「王都方面からか。」
御者が答える。
「ああ。」
「なら気を付けろ。」
老人は真顔だった。
全員の視線が集まる。
ガエンが尋ねる。
「何かあるのか?」
老人は山の奥を見た。
「あの辺りで最近人が消える。」
空気が変わる。
「人が消える?」
ラーシャが不安そうに聞き返した。
老人は頷いた。
「旅人だ。」
「魔物か?」
ガエンの問いに老人は首を振る。
「分からん。」
「分からない?」
「死体も見つからん。」
それは妙だった。
魔物なら痕跡くらいは残る。
血。荷物。争った跡など何かしらあるはずだ。
だが何も残らない。
老人は続けた。
「気付いたら一人いなくなってる。」
「怖っ。」
マイトが素直な感想を漏らした。
「仲間と歩いていても?」
ナラが聞く。
「ああ。」
老人は頷く。
「だから最近は誰も単独で歩かん。」
ガエンの眉が寄る。
嫌な話だった。冒険者の経験から言っても普通ではない。
そしてふと、先程の黒い人影が頭をよぎる。崖の上からこちらを見ていた謎の人物。
偶然だろうか。
それとも.....
老人はそれ以上語らなかった。ただ最後に一言だけ残す。
「日が落ちる前に次の宿場へ着け。」
その言葉には妙な重みがあった。
昼食を終えた後.再び馬車は出発する。
山道はさらに険しくなっていく。
そして出発して一時間ほど経った頃だった。
マイトが窓の外を見ながら首を傾げた。
「ねぇ。」
「今度は何だ。」
ガエンが半ば反射で答える。
マイトは崖の方を指差した。
「またいた。」
全員がそちらを見る。
崖の上には今度も黒い外套の人影。
間違いない、先程見たのと同じだった。
距離は遠い、顔も見えない、だが確かにこちらを見ている。
ラーシャの顔が青くなる。
「お、追いかけてきてません?」
「追いかけてるというか……。」
ナラが目を細める。
「監視されてる?」
その言葉に全員が黙った。
だが次の瞬間マイトだけが不思議そうな顔をした。
「ん?」
「どうした。」
「一人じゃない。」
全員の視線が再び崖へ向く。
そして気付いた。
岩陰のさらにその奥。
別の場所に黒い影が一つ。
二つ。
三つ。
いつの間にか増えていた。
山の上からまるで獲物を見下ろすように。
複数の人影が馬車を見つめていた。
ガエンの背筋を冷たいものが走った。
「ちょっと見てくるね。」
そう言うとマイトは馬車を飛び出した。
「おい待て!」
ガエンが叫ぶが遅かった。
次の瞬間にはマイトの姿が消えていた。
「え?」
ラーシャが目を瞬かせる。
「消えた?」
「違う。」
ナラが額を押さえた。
「速すぎて見えなかっただけ。」
どんっ。
地面が小さく爆ぜる音がした。
マイトは山道を一直線に駆け上がっていた。
普通なら不可能な斜面や岩壁、足場などほとんどない。
だが本人はまるで平地を走るような勢いだった。
「待て待て待て待て!」
ガエンが馬車から身を乗り出す。
「なんで行くんだあいつ!」
「気になるからじゃない?」
ナラが淡々と言った。
「その理由で行くな!」
正論だった。
しかし言ったところで意味はない。
マイトはすでに崖の中腹まで到達していた。
御者が青ざめる。
「な、なんだあの人!?」
「俺達もたまにそう思う。」
ガエンは遠い目をした。
その頃崖の上では黒い外套の人影達も異変に気付いていた。
一人が呟く。
「何だあれは。」
「こっちに来ている。」
「馬鹿な。」
人影達の声に僅かな動揺が混じる。
普通の旅人なら自分達に気付いても逃げるか警戒する。
まさか突っ込んでくるとは思わない。しかも異常に速い。
「近い!」
誰かが叫んだ。
そして。
ひゅん。
マイトが最後の岩を蹴った。
身体が宙を舞い十数メートル先の崖の上へ着地。
どすん。
土煙が舞った。
黒外套達が硬直する。
マイトはにこにこと手を振った。
「やっほー。」
全員が黙った。
沈黙。
風だけが吹く。
そして一人が震える声で言う。
「何者だ。」
「勇者。」
即答だった。
「勇者。」
「うん。」
「勇者?」
「そう。」
会話になっていない。
マイトは首を傾げた。
「それより何してるの?」
黒外套達は互いに顔を見合わせる。
予想外にも程がある。
獲物を監視していたはずなのに、気付けば本人が目の前にいるのだ。
しかも全く警戒していない。
マイトはさらに近付いた。
「ねぇ。」
びくっ。
一人が後ずさる。
「なんでそんなにびっくりしてるの?」
「近付くな!」
「なんで?」
「なんでって……!」
その時だった。
人影達の中でも一際背の高い男が前へ出る。顔は仮面で隠れていた。
他の者達が一歩下がる。どうやらリーダーらしい。
男はマイトを見つめた。
しばらく沈黙。
やがて低い声で言う。
「……勇者マイト。」
「うん。」
「お前の噂は聞いている。」
「どんな?」
「聞かなかったことにしたい類の噂だ。」
マイトは少し傷付いた顔になった。
その頃。
下の街道では。
ガエン達が崖の上を見上げていた。
遠すぎて会話は聞こえない。
ただ。マイトが黒外套達と話しているように見える。
そして次の瞬間、黒外套達がなぜか全員が一斉に頭を抱えた。
「……何したんだあいつ。」
ガエンが嫌な予感しかしない顔で呟いた。
ナラも同意する。
「たぶん会話。」
「会話でああなる?」
「マイトならなる。」
誰も否定できなかった。
崖の上。
黒外套達は本気で頭を抱えていた。
「どうしたの?」
マイトが不思議そうに聞く。
仮面の男は額を押さえながら答えた。
「お前は自分の噂を知らないのか。」
「知らない。」
「知らないのか……。」
さらに頭が痛そうな顔になる。
後ろの黒外套の一人が小声で囁いた。
「隊長、本当に勇者です。」
「見れば分かる。」
「どうします。」
「私に聞くな。」
「隊長ですよね?」
「今はそういう気分ではない。」
完全に調子を崩されていた。
マイトは気にせず続ける。
「で、何してたの?」
沈黙。
誰も答えない。
「見張り?」
ぴくり。
数人の肩が揺れた。
「当たり?」
「……。」
「当たりなんだ。」
「喋るな。」
仮面の男が部下に言った。
だがもう遅い。
マイトは納得したように頷く。
「なるほど。」
「何がなるほどだ。」
「僕達を見てたんだね。」
「……。」
図星だった。
マイトは少し考え込む。
「襲う予定だった?」
再び沈黙。
今度は長い。
あまりにも分かりやすい反応だった。
「襲う予定だったんだ。」
「……。」
「なんで?」
「聞くな。」
「なんで?」
「聞くなと言っている。」
「気になる。」
「気になるで済ませるな!」
ついに仮面の男が叫んだ。
後ろの部下達が少し引く。
隊長が感情を露わにするのは珍しかった。
マイトは首を傾げた。
「怒った?」
「怒る。」
「なんで?」
「お前だ!」
即答だった。
その頃、下の街道ではガエン達は崖の上を見ていた。
「なんか隊長っぽい奴が叫んでないか?」
「叫んでる。」
ナラが断言する。
「距離あるのに分かるくらい叫んでる。」
ラーシャが困った顔をした。
「マイトさん、大丈夫でしょうか。」
「「相手の方が。」」
ガエンとナラの返答が完全に一致した。
御者も真顔で頷いた。
「それは私もそう思います。」
もはや初対面ですら同じ結論に至る。
そして崖の上。
仮面の男は一度深呼吸した。
落ち着け。冷静になれ、相手は勇者だ。下手に刺激するな。そう自分に言い聞かせる。
「勇者マイト。」
「うん。」
「単刀直入に言おう。」
「うん。」
「お前達を監視していた。」
「やっぱり。」
「そして状況次第では襲撃する予定だった。」
「なるほど。」
マイトは納得したように頷いた。
仮面の男は続ける。
「だが。」
そこで一度言葉を切る。
「やめた。」
「え?」
「やめた。」
「なんで?」
仮面の男は心底疲れた顔になった。
「お前を見たからだ。」
後ろの部下達も全員頷く。
「正しい判断です。」
「賛成です。」
「撤収しましょう。」
「帰りたいです。」
士気が消滅していた。
マイトは少し残念そうな顔をする。
「戦わないの?」
「戦わん。」
「なんで?」
「なんでもだ。」
仮面の男は即答した。
そして部下達へ振り返る。
「全員撤収。」
「了解。」
「了解。」
「了解。」
恐ろしいほど素早い返事だった。
誰一人反対しない。
むしろ待ってましたと言わんばかりである。
マイトが慌てる。
「あれ?」
「撤収だ。」
「もう帰るの?」
「帰る。」
「早くない?」
「遅いくらいだ。」
仮面の男はそう言うと、最後にマイトを見た。
「忠告しておく。」
「なに?」
「この山には我々以外もいる。」
マイトの表情が少しだけ嬉しそうに変わった。
「他にも?」
「ああ。」
仮面の奥の視線がさらに北を向く。
山脈の奥深く。
人の踏み入らぬ険しい峰々。
「最近、この辺りで妙な動きがある。」
部下達も急に真面目な顔になる。
「何かが山を動き回っている。」
「何か?」
「分からん。」
仮面の男は静かに言った。
「だから我々も調べていた。」
先ほどまでとは違う空気。
冗談ではない。
本物の警戒だった。
マイトもそれを察する。
「強いの?」
「分からん。」
「でも気になる。」
「その反応は予想していた。」
仮面の男が疲れた声で言う。
嫌な予感しかしない。
そして案の定マイトは満面の笑みを浮かべた。
「探してみようかな。」
黒外套達全員が同時に天を仰いだ。
「だから言っただろう。」
仮面の男が呟く。
「関わるべきではないと。」
「隊長。」
「なんだ。」
「今ならその意見に全力で賛成できます。」
全員が深く頷いた。
崖の上から黒外套達が消えたのは、それからほんの数分後だった。
岩陰から岩陰へ。
まるで最初からいなかったかのように姿を消していく。
最後に残った仮面の男だけが振り返った。
「勇者。」
「うん?」
「探しに行く気だな。」
「気になるし。」
「だろうな。」
隊長は諦めた顔で頭を抱えた。
「ではさらばだ。」
そう言い残し、男も消えた。
山風だけが吹く。
マイトはしばらく男達が消えて行った方を見ていた。
「変な人達だったな。」
そして何事もなかったように街道へ飛び降りた。
ドンッ。
着地して馬車の前に戻ってくる。
「ただいま。」
「おう。」
ガエンが即答する。
「何だった?」
ガエンが腕を組みながら聞く。
マイトは少し考えた。
「監視してた人達。」
「知ってる。」
「襲う予定だったらしい。」
「やっぱりか。」
ガエンは全く驚かなかった。
「で?」
「やめたって。」
「それもだろうな。」
「なんで分かるの?」
「お前を見たからだろ。」
即答だった。
ナラも頷く。
「ボクでもそうする。」
「私もです。」
ラーシャまで同意した。
御者も頷く。
「賢明な判断ですね。」
満場一致だった。
マイトだけが納得していない。
「でも戦う前に帰っちゃった。」
「良かったな。」
「良くない。」
「良いんだよ。」
ガエンが即座に切り捨てる。
「むしろ戦闘にならなくて安心した。」
「えー。」
不満そうな声だった。
その反応に全員がため息を吐く。
だが次の瞬間マイトが思い出したように言った。
「そういえば。」
全員が嫌な予感を覚えた。
「山で何か動いてるらしい。」
ガエンがゆっくり聞き返す。
「何が?」
「分からないって。」
さらに嫌な予感が強くなる。
マイトは楽しそうだった。
「調べてたらしい。」
「ほう。」
「でも正体は不明。」
「ほう。」
「強いかもだって。」
ガエンは顔を覆った。
ナラも同じ動作をした。
ラーシャは祈り始めた。
御者は遠い目になった。
マイトだけが笑顔だった。
「面白そう。」
「駄目だ。」
ガエンが即答する。
「まだ何も言ってない。」
「言う前に分かる。」
「探しに」
「行かない。」
「まだ最後まで言ってない。」
「行かない。」
完全防御だった。
マイトは不満そうな顔をする。
「気になる。」
「俺も気になる。」
ガエンは認めた。
「でも今は依頼中だ。」
「む。」
「目的地はサイヴァーンだ。」
「む。」
「寄り道するな。」
「うーん。」
ものすごく怪しい返事だった。
ガエンはじっとマイトを見る。
マイトは視線を逸らした。
「おい。」
「なんでもない。」
「絶対なんか考えてる。」
「考えてない。」
「嘘つけ。」
ナラがぽつりと言う。
「夜中に抜け出しそう。」
「やりそうです。」
ラーシャも同意する。
「やるなよ。」
ガエンが念を押す。
「やらない。」
全員が疑いの目を向けた。
「信用されてない。」
「当然だ。」
これも即答だった。
馬車は再び動き始める。
山道を北へ。
風は冷たくなり、岩山はさらに険しくなる。
しばらく進んだ頃、御者がふと眉をひそめた。
「……?」
「どうした。」
ガエンが聞く。
御者は前方を見つめたまま答えた。
「今、何か見えた気がしました。」
全員が前を見る。
街道の先、遥か遠く。
山の斜面を横切るように巨大な黒い影が動いた。
一瞬だった。
次の瞬間には岩陰へ消えている。
だが見間違いではない。
大きい。あまりにも大きかった。
馬車よりも、家よりも。
そして。
「おお。」
マイトだけが嬉しそうな声を上げた。
ガエンは頭を抱えた。
「見つかるの早すぎるだろ……。」
山風が吹く。
その奥の峰々から。
まるで何かがこちらを見ているような、得体の知れない気配が流れてきていた。




