154.ダークエルフ、眠る
翌朝、窓から差し込む柔らかな朝日が、静かに部屋を照らしていた。
ガエンはゆっくりと目を開ける。
「……ん。」
久しぶりに深く眠れたせいか、頭は驚くほどすっきりしていた。
ベッドの上でゆっくり身体を起こす。
「……あ?」
腕を握る。肩を回す。胸に手を当てる。
昨日、エルダーツとの死闘で全身を覆っていた傷。骨が軋むほどの激痛。
そのほとんどが消えていた。
「傷が……」
包帯を少し外してみる。
深く裂けていたはずの傷は薄い痕が残る程度で、ほぼ塞がっている。
「なんだこりゃ……。」
ガエンが首を傾げた、その時だった。
視線の端に誰かの姿が映る。
「……ラーシャ?」
ベッドの横。
椅子に腰掛けたまま、小さく身体を丸めて眠るラーシャがいた。
両手は膝の上。頭が少し前へ傾き、髪が朝日に照らされている。
その表情は穏やかだったが、目の下にはうっすらと隈ができていた。
「……」
ガエンはしばらく黙って見つめる。
(なんでこんな所で寝てんだ……。)
起こさないよう静かにベッドから降りる。
その時。コンコン、と控えめなノックが響いた。
「起きとるか、ガエン。」
ビルムの声だった。
「ああ、入れ。」
扉が開き、ビルムが部屋へ入ってくる。
「おっ、起きたか。」
そしてラーシャを見ると、小さく苦笑した。
「やっぱり、そのまま寝落ちしとったんやな。」
「……どういうことだ?」
ガエンが尋ねる。
ビルムは肩を竦めた。
「宿に帰ってきてからや。」
「?」
「みんなが『もう休め』言うてもな。」
ビルムはラーシャを見ながら笑う。
「首を横に振ってな。『まだです。ガエンさんの怪我を治します。全部治るまで休みません。』そう言うて聞かへんかったんや。」
ガエンはラーシャを見る。
「……」
ビルムは続ける。
「魔力が尽きかけても治癒魔法を止めへん。ミリアもダグラスもマイトも止めたんや。『十分』『もう治ってる』『後は自然に治るよ』って。」
ビルムは苦笑いした。
「せやけどな。ラーシャは頑固やった。『まだ傷があります。まだ痛いはずです。だから……まだ終われません。』そう言うて、朝までずーっと治癒魔法を使い続けとったんや。」
ガエンは自分の腕を見る。
ほとんど跡しか残っていない傷。
全身に残っていた激痛も、今はほとんど感じない。
「……これ全部。」
「ああ。」
ビルムは静かに頷く。
「ラーシャが治したんや。魔力切れ寸前までな。」
ガエンは言葉を失う。
椅子で眠るラーシャは、小さく寝息を立てている。
治癒魔法を使い続けたせいか、指先にはまだ淡い魔力の光が残っていた。
「まったく……。」
ガエンは困ったように笑う。
「無茶しやがって。」
その声が聞こえたのか。
ラーシャが小さく身じろぎした。
「……ん……。」
ゆっくりと目を開ける。
ぼんやりした視線がガエンを捉えた。
「あ……。」
眠そうな顔のまま、ほっとしたように微笑む。
「……おはようございます。」
ガエンも小さく笑った。
「ああ、おはよう。」
ラーシャはガエンの顔を見るなり、慌てて立ち上がろうとする。
しかし。
ふらっ…
魔力を使い果たした身体は言うことを聞かず、その場でよろけた。
ガエンは素早く腕を伸ばし、倒れそうになったラーシャを支える。
「おっと。」
「す、すみません……。」
「謝るな。」
ガエンは苦笑しながら言う。
「今度はお前が休め。」
ラーシャは少し照れたように目を逸らした。
「……でも。」
「でもじゃねぇ。」
ガエンは優しく額を小突く。
「俺はもう十分治った。次は、自分の身体を大事にしろ。」
その言葉に、ラーシャは少しだけ嬉しそうに笑い、小さく頷いた。
「……はい。」
ラーシャは小さく頷いたものの、まだ立っているのも辛そうだった。
ガエンはベッドの方へ視線を向ける。
「ほら、横になれ。」
「でも……。」
「いいから。」
少しだけ強い口調で言うと、ラーシャは観念したように「……はい」と返事をした。
ガエンはそっと肩を支えながらベッドへと案内する。
ラーシャは静かに横になると、毛布を胸まで引き上げた。
「ちゃんと寝ろ。起きるまで誰も起こさねぇ。」
「ありがとうございます……。」
安心したように目を閉じるラーシャ。
その表情からは、昨夜ずっと張り詰めていた緊張がようやく解けたことが伝わってきた。
ガエンはそっと髪を一度だけ撫でる。
「おやすみ。」
「……はい。」
ラーシャは微笑むと、そのまま穏やかな寝息を立て始めた。
ビルムはその様子を見て、にやりと笑う。
「ほんま、妹みたいやな。」
「余計なお世話だ。」
「照れとる照れとる。」
「うるせぇ。」
ガエンが軽く睨むと、ビルムは声を殺して笑った。
「ほな、飯でも食いに行こか。」
「ああ。」
二人は起こさないよう静かに部屋を出ると、扉をそっと閉めた。
一階の食堂へ降りると、焼きたてのパンとスープの香りが漂っていた。
窓際の席では、すでにダグラス、マイト、ミリア、ナラが朝食を食べている。
「あ、ガエン!」
マイトが大きく手を振る。
「おはよう! 身体はどう?」
「問題ねぇ。」
ガエンが肩を回してみせると、マイトは満足そうに笑った。
「やっぱりラーシャの治癒魔法はすごいね。」
ダグラスも新聞を畳みながら頷く。
「昨夜のあの魔力量……正直驚いた。治癒魔法だけであそこまで回復させるとはな。」
ミリアは相変わらず無表情で。
「ラーシャ、本当に頑張った。『まだ傷があります』って何度も言って、誰の話も聞かなかった。」
ナラはパンを頬張りながら羽をぱたぱたさせる。
「ラーシャ、ねむねむだったー!」
ビルムが席に座る。
「今はぐっすり寝とるわ。」
「それなら安心だね。」
マイトはにこりと笑った。
宿の主人が朝食を運んでくる。
焼きたてのパン、目玉焼き、厚切りベーコン、野菜のサラダ、それに温かなスープ。
ガエンは「いただきます」と小さく呟き、パンをちぎる。
昨日までの激戦が嘘のように、穏やかな朝だった。
誰もが無事に朝食を囲める。
それだけで十分だった。
食事を終えると、それぞれ席を立つ。
ガエンは水を飲み干し、仲間達を見渡した。
「行くか。」
「ああ。」
「うん!」
「行きましょう。」
「ほな、出発や。」
一行は宿を後にし、大聖堂へ向かった。
街へ出ると、昨日の戦いの爪痕は至る所に残っていた。
崩れた石壁。砕けた石畳。割れた窓。
それでも街の人々は俯いてはいなかった。
商人は店先を片付け、子ども達は瓦礫を運び、大人達は協力して道を整えている。
誰もが前を向いて歩き始めていた。
やがて大聖堂が見えてくる。
昨日まで聖王国の象徴だったその建物は、無惨な姿へと変わっていた。
正面の大階段は崩れ、壁には大きな亀裂が走り、美しかった尖塔も半ばから折れている。
広場では数多くの聖騎士や司祭達が瓦礫を運び出し、懸命に片付けを続けていた。
「そっち気を付けろ!」
「この柱を支えろ!」
「怪我人はいないか!」
掛け声が飛び交い、皆が汗を流して働いている。
その中には昨日まで魔族を疑っていた者達の姿もあった。
ガエン達に気付いた聖騎士の一人が作業の手を止める。
「……ガエン殿。」
その声に周囲の視線が集まり、昨日命を救われた聖騎士達や司祭達が次々と頭を下げた。
「おはようございます。」
「昨日は、本当にありがとうございました。」
かつて向けられていた敵意は、もうそこにはなかった。
ガエンは少し照れくさそうに頭を掻く。
「礼なら俺達全員に言ってくれ。誰か一人じゃ勝てなかった戦いだ。」
「はい。」
聖騎士達はもう一度深く頭を下げる。
その時だった。
「ガエン殿。」
聞き慣れた声が広場に響く。
振り向くと、片付けを手伝っていた人々の間を縫うように、カーツとリシアが歩いてきた。
カーツは昨日まで身に纏っていた威圧感はなく、穏やかな表情を浮かべている。
その隣ではリシアが嬉しそうに微笑んでいた。
二人はガエン達の前まで来ると立ち止まる。
そしてカーツは深々と頭を下げた。
「昨日は……本当にありがとうございました。」
ガエンは首を横に振る。
「もう頭は下げなくていい。」
「いえ。」
カーツは静かに顔を上げる。
「あのまま私が過ちに気付かなければ、この国は取り返しのつかないことになっていました。」
その瞳には後悔と、そして新たな決意が宿っていた。
「皆さんのおかげで、私はようやく目を覚ますことができました。」
ガエンは短く息を吐く。
「だったら、その気持ちはこれから先で返せ。」
「……はい。」
力強い返事だった。
その横で、リシアが一歩前へ出る。
「皆さん!」
満面の笑みを浮かべながら、嬉しそうに両手を胸の前で合わせる。
「お父さんが、運動会で歌ってもいいって言ってくださいました!」
「ほんまか!」
ビルムが一番に声を上げる。
「やったやん!」
ナラは空中でくるくる回り始める。
「わーい! リシアのお歌だー!」
マイトもにこりと笑う。
「絶対盛り上がるね。」
ミリアも小さく微笑む。
「楽しみ。」
リシアは照れくさそうに笑う。
「ありがとうございます。今度は皆さんを笑顔にできるよう、一生懸命歌います。」
その姿を見つめながら、カーツも穏やかに口を開いた。
「……時間はかかるでしょう。」
広場で瓦礫を運ぶ人々へ視線を向ける。
昨日まで魔族を憎んでいた者。
今は魔族に命を救われ、共に街を立て直している者。
「長年積み重なった偏見は、一日で消えるものではありません。」
そう言って、ガエン達を真っ直ぐ見つめる。
「ですが私も、人間と魔族が手を取り合えるよう、これから務めてまいります。この国を、もう一度やり直します。」
ガエンは小さく笑った。
「そうか。」
それだけ言うと、拳を軽く差し出す。
「なら頑張れ。」
カーツは一瞬目を丸くした後、穏やかに笑う。
「……はい。」
そして恐る恐る拳を合わせた。
コツン。
小さな音が響く。
昨日まで決して交わることのなかった、人間と魔族の拳。
その小さな音は、新しい未来への約束のようだった。
その様子を見ていた聖騎士達も、自然と笑みを浮かべる。
重苦しい空気に包まれていた大聖堂には、少しずつではあるが、確かな希望が芽吹き始めていた。




