147.最高司祭、笑う
カーツは、まるで魂だけを置き忘れてきたかのように、ふらふらと歩いていた。
街の喧騒も。
聖騎士達の挨拶も。
いつもなら耳に入ってくるはずの全てが、遠い場所の出来事のように感じる。
「……私は……。」
何度も呟く。
「私は……何を信じて……。」
気がつけば、カーツは大聖堂の前に立っていた。
巨大な扉を開く。
いつもなら、この場所に足を踏み入れるだけで誇りと使命感が湧いていた。
だが、今は違った。
まるで裁きを受けに来た罪人のようだった。
静かな大聖堂を抜け、さらに奥へ。
最高司祭の執務室。
扉の前で一度立ち止まる。
そして震える手で扉を叩いた。
「……入りなさい。」
中から声が返ってくる。
カーツは扉を開ける。
そこには、白い法衣を纏った最高司祭エルダーツ・リストがいた。
「カーツですか。」
エルダーツは書類から目を上げる。
「どうしました?」
その優しい声を聞いた瞬間。
カーツの中で張り詰めていたものが切れた。
「……。」
何も言わず、その場に膝をつく。
エルダーツは少し眉を動かした。
「カーツ?」
「……私は……。」
震える声。
「私は……間違っていました。」
エルダーツは黙って見下ろす。
「私は……魔族を敵と決めつけ……。」
カーツは拳を握る。
「アイラ様の意思を継いでいるつもりで……。」
「……。」
「しかし……私は何も知らなかった。」
一つ一つ、言葉を吐き出す。
マイトから聞いた真実。
先代勇者アイラが望んだ未来。
先代魔王との関係。
そして、今の魔王バラムに流れる勇者の血。
「アイラ様は……魔族を憎んでなどいなかった。」
「……。」
「人間と魔族が共に生きる未来を願っていた。」
カーツの声が震える。
「私は……その方の名前を使いながら……真逆のことを……。」
長い沈黙。
エルダーツはただ黙って聞いていた。
カーツは頭を下げる。
「私は……これから……。」
「……。」
「もう一度、アイラ様の本当の願いと向き合わなければならないと思っています。」
そして、全てを話し終える。
静寂。
カーツは恐る恐る顔を上げた。
エルダーツはしばらく無表情でカーツを見ていた。
そして。
「……使えませんね。」
「……え?」
カーツの表情が固まる。
エルダーツはため息をつく。
「せっかくここまで育ててあげたというのに。」
「……。」
「魔族を憎み、人間こそが正しいと信じるように。」
エルダーツの口元がわずかに歪む。
「あなたは、とても優秀な駒だったのですが。」
カーツの背筋に冷たいものが走る。
「……エルダーツ様?」
「何を驚いているのです?」
エルダーツは立ち上がる。
「あなたが魔族を憎むようになった理由。」
「……。」
「本当にあなた自身の意思だと思っていたのですか?」
カーツの顔から血の気が引いていく。
「まさか……。」
エルダーツは静かに笑った。
「そうです。」
「……。」
「あなたが幼い頃から聞かされてきた話。魔族は悪だ。人間だけが正しい。勇者アイラは魔族を滅ぼした英雄だ。」
エルダーツは一歩近づく。
「全て、都合のいい形に作り替えた物語です。」
「そんな……。」
カーツは震える。
「アイラとステラの名を……利用しただけですよ。」
エルダーツは淡々と言う。
エルダーツはカーツの絶望した顔を見ながら、楽しそうに目を細める。
「あなたは本当に愚かでしたね。」
「……。」
カーツは言葉を失う。
「自分が正義を貫いていると思っていたのでしょう?」
エルダーツは机の上に置かれた聖典を指でなぞる。
「ですが、あなたが守っていたものは……私が作り上げた偽りの教えです。」
「……嘘だ。」
カーツはかすれた声で呟く。
「そんなはずがない……。」
「なぜです?」
エルダーツは首を傾げる。
「あなたは証拠を見たのですか?」
「……。」
「先代勇者アイラ様が本当に魔族を憎んでいた証拠を。」
カーツの口が開く。
しかし、何も言葉が出ない。
「あなたはただ、周囲がそう言っていたから信じた。」
エルダーツは笑う。
「幼い頃から毎日のように聞かせてあげましたよね。魔族は人間を滅ぼそうとしている。魔族は邪悪な存在だ。勇者アイラは人間を救った英雄だ。」
「……。」
「何度も、何度も。」
エルダーツの声が低くなる。
「そうすれば、人間は簡単に操れる。」
カーツの瞳が揺れる。
「……操る?」
「そうです。」
エルダーツは背を向ける。
「恐怖ほど、人を動かすものはありませんからね。」
そして窓の外を見る。
「魔族という共通の敵を作れば、人間は一つになる。互いに疑い、憎しみ、争う。そしてその混乱の中で……新たな時代が始まる。」
カーツは震えながら立ち上がる。
「まさか……あなたは……ずっと……このために……」
エルダーツは振り返る。
「ええ。ですが……あと少しだったのです。」
その目に、今まで見せたことのない冷たい光が宿る。
「あの魔族達がルミナリアへ来た。人々は不安になった。あなたの娘が彼らと関わった。そして勇者まで魔族を庇った。」
エルダーツは口元を歪める。
「ようやく……混沌が始まると思ったのですが。」
「……。」
「まさか、あなたが真実を知ってしまうとは。」
エルダーツはため息をつく。
「本当に使えませんね。」
その言葉に、カーツの胸が締め付けられる。
「……私の娘を……。」
カーツが拳を握る。
「リシアを利用したのか……。」
「ええ。」
エルダーツはあっさり認める。
「あなたの娘が魔族と親しくなれば、あなたは怒り狂う。人々も魔族への恐怖を思い出す。その感情が、争いの火種になるはずでした。」
カーツは俯く。
「私は……私は……」
震える。
「自分の娘まで……疑って……」
その姿を見て、エルダーツは冷たく笑った。
「あなたは素晴らしい駒でしたよ。」
「……。」
「ですが、壊れてしまった駒に価値はありません。」
エルダーツはゆっくりと法衣の袖を払う。
「仕方ありませんね。」
「……?」
カーツが顔を上げる。
エルダーツの周囲から、黒い霧のような魔力が溢れ出す。
神聖なはずの大聖堂の空気が、一瞬で凍りついた。
「私自らが……混沌を作りましょう。」
「……エルダーツ……様?」
カーツの声が震える。
白かった法衣が、闇に染まっていく。
長い銀髪の奥から覗く瞳が、赤く輝く。
背中から黒い翼がゆっくりと広がった。
人間の姿をしていた最高司祭。
その仮面が剥がれ落ちる。
「な……。」
カーツは後ずさる。
「その姿は……。」
エルダーツは笑う。
「もう隠す必要もありませんね。」
牙を覗かせながら、静かに名乗る。
「私は……先代魔王軍幹部。夜を支配する一族、ヴァンパイア。」
黒い魔力が大聖堂を包む。
「エルダーツ・リスト。それが私の本当の名です。」
カーツの瞳が大きく見開かれる。
「ヴァンパイア……。」
エルダーツはゆっくりと手を広げる。
「人間達が信じてきた最高司祭。神の代弁者。その全てが……私が作った偽りだったのですよ。」
そして、大聖堂の鐘が不気味に鳴り響く。
「さあ……。百年前に終わったはずの戦争を。もう一度、始めましょう。」
その瞬間。
ルミナリアの聖なる大聖堂で。
世界を揺るがす新たな混沌の幕が上がった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
宿に戻っていたガエン達は、疲れた身体を休めながら今後の動きを話し合っていた。
「……まさかルミナリアがここまで揺れるとはな。」
ガエンが腕を組みながら呟く。
「でも、リシアの言葉は届いたと思います。」
ラーシャは窓の外を見る。
「人間達の中にも、疑問に抱き始めた者はいるはずだ。」
ダグラスも静かに頷く。
「時間はかかるだろうが……変化の兆しはある。」
その時だった。
「……っ!」
ラーシャの表情が一瞬で変わる。
「これは……。」
「どうした?」
ガエンが振り向く。
ラーシャは立ち上がり、窓の外を見る。
「……魔力。」
ダグラスも同時に反応した。
「禍々しい……。」
次の瞬間。
ズンッ!!
空気そのものが震えた。
街全体を覆うように、黒く濁った魔力が広がっていく。
「な、なんだこれは……。」
ガエンは息を呑む。
大地が震える。
人々の悲鳴が外から聞こえ始めた。
そして、その魔力の発生源。
三人にはすぐに分かった。
「……大聖堂。」
ラーシャが呟く。
ガエンの顔が険しくなる。
「まさか……。」
ダグラスは立ち上がる。
「急ぐぞ。」
三人は宿を飛び出した。
街中では、人々が空を見上げ怯えている。
「なんだこの魔力は……!」
「大聖堂からだぞ!」
「聖騎士様達は何をしているんだ!」
混乱する街を抜け、ガエン達は大聖堂へ向かって走る。
しかし近づくほどに異様だった。
いつもなら立っているはずの門番の聖騎士がいない。
「……おかしい。」
ガエンが足を止める。
「警備が……。」
ラーシャが周囲を警戒する。
「気配がない。」
ダグラスが低く呟く。
「いや……違う。」
三人は顔を上げる。
「倒れている。」
門の影。
そこには数人の聖騎士が倒れていた。
「急げ!」
ガエン達は大聖堂へ駆け込む。
そして大広間に入った瞬間、目の前の光景に息を呑んだ。
「……嘘だろ。」
無数の聖騎士達が倒れている。
その中央。
黒い霧のような魔力を纏った存在が立っていた。
その姿は人間。
しかし、その背中には黒い翼、赤く光る瞳、鋭い牙。
「ヴァンパイア……。」
ラーシャが呟く。
その周囲では、まだ数十人の聖騎士が戦っていた。
「くらえ!!」
聖騎士が聖剣を振り下ろす。
しかし。
ヴァンパイアは片手で受け止めた。
「な……。」
「弱いですね。」
次の瞬間。
軽く腕を振るだけで、聖騎士の身体が吹き飛ぶ。
「ぐああっ!」
壁に叩きつけられる。
別の聖騎士が魔法を放つ。
「聖なる光よ!」
巨大な光がヴァンパイアを包む。
しかし煙が晴れた時。
そこには傷一つない姿があった。
「神の力……ですか。」
ヴァンパイアは笑う。
「懐かしいですね。」
聖騎士達の顔から絶望が浮かぶ。
「そんな……。」
「聖魔法が効かない……?」
その時。
「……ガエン。」
聞き覚えのある声。
ガエン達が振り向く。
そこには。
震えながら立つカーツがいた。
「カーツさん……。」
しかし、その姿は以前とは違っていた。
目には絶望。
そして、自分自身への怒り。
「……彼は。」
カーツは震える声で言う。
「エルダーツだ。」
「え……?」
ラーシャが目を見開く。
中央に立つヴァンパイア。
エルダーツはゆっくりと振り返る。
そして。
「おや。」
口元を歪める。
「これはこれは。」
黒い魔力を纏いながら、優雅に頭を下げる。
「改めまして。」
赤い瞳がガエン達を見る。
「私はエルダーツ。」
一歩踏み出す。
「世界を混沌へ導く者です。」
大聖堂全体に声が響く。
「人間達が神の使徒と呼んだ存在。魔族を憎むよう人々を導いた存在。そして……」
エルダーツは笑う。
「百年もの間、人間達の心に種を植え続けた存在です。」
ガエンは拳を握る。
「……お前が。」
ダグラスの目が鋭くなる。
「全部仕組んでいたのか。」
エルダーツは楽しそうに笑った。
「ええ。人間と魔族が手を取り合うなど、私には都合が悪い。」
黒い魔力がさらに膨れ上がる。
「ですが……あなた達のおかげで、計画は少し早まりました。」
ラーシャが睨む。
「何をするつもりですか?」
エルダーツは大聖堂の天井を見上げる。
「決まっているでしょう。」
そして。
「世界にもう一度、魔族への恐怖を刻み込み混沌とした世界を作るためです。」
その瞬間。
大聖堂の鐘が、誰も鳴らしていないのに不気味に鳴り響いた。
ゴォォォン……。
ルミナリアの聖なる象徴だった場所は。
今、世界を混沌へ落とすための舞台へと変わっていた。




