126.海岸、人智を越える
港とは反対側の広い海岸。
見渡す限り白い砂浜が続き、打ち寄せる波だけが静かに音を立てている。
その広大な海岸の中央で、勇者マイトと剣聖スレイドの師弟は、互いに数十メートルの距離を空けて向かい合っていた。
その様子を少し離れた場所から見守るのは、ガエン、ダグラス、ラーシャ。
さらにレオナルド商会のカイ、ヴァイス商会のサラ、アルバレス商会のオリバを始めとした豪商達。
そして商業ギルド長、工業ギルド長達まで集まっている。
「……まさか本当にやるとは。」
カイが呆れたように呟く。
「剣でやるんじゃないだけマシだと思うべきかしら。」
サラは腕を組みながらため息をつく。
オリバは苦笑いを浮かべた。
「いや……あの二人なら素手でも街一つ消えるぞ。」
ダグラスも神妙な顔で頷く。
「否定できない。」
その時だった。
スレイドが懐をごそごそと探り始める。
「ん?」
取り出したのは……
割り箸だった。
しかも二膳。
「…………。」
全員が固まる。
スレイドは一本を自分で持つと、もう一膳を軽く放り投げた。
「ほらよ。」
ヒュッ。
マイトは苦笑いしながらそれを受け取る。
「またですか……。」
器用に袋を破り、二本に割る。
パキッ。
スレイドも同じように割り箸を割る。
「剣は禁止だ。」
「そうですね。」
「本気でやったら、この国が消える。」
「師匠らしい理由ですね。」
マイトは苦笑を浮かべながら、一本の割り箸を正眼に構えた。
その姿勢は木の棒ではなく、まるで伝説の聖剣でも持っているかのような隙の無さだった。
対するスレイドも、だらしなく立っているように見える。
しかし、その一本の割り箸の先だけは、まるで世界の中心を指しているかのように微動だにしない。
空気が変わる。
ザァァ……
波の音だけが響く。
誰一人として口を開かない。
ガエンは額に汗を浮かべた。
(割り箸だよな……。)
ラーシャも目を丸くする。
(どう見ても割り箸ですよね……。)
商業ギルド長が小声で呟く。
「何も起きない……よな?」
工業ギルド長も頷く。
「さすがに割り箸で……。」
その瞬間。
ズンッ……
空気そのものが沈んだ。
全員の肩に、とてつもない重圧がのしかかる。
「なっ……!」
「息が……!」
豪商達が思わず膝をつく。
砂浜がミシミシと音を立てて沈み始める。
海面までもが、まるで見えない何かに押さえ付けられたように波を失っていた。
ダグラスだけが苦笑する。
「始まったな。」
ガエンは青ざめる。
「まだ構えただけだよな?」
「ああ。」
スレイドはニヤリと笑った。
「腕は鈍ってねぇみたいだな。」
マイトも静かに笑う。
「師匠こそ。」
スレイドは肩を鳴らしながら言った。
「なら……」
割り箸の先をゆっくりとマイトへ向ける。
その笑みは、獲物を見つけた猛獣そのものだった。
「来い。」
その一言と同時に。
ドンッ!!
二人の姿が掻き消えた。
次の瞬間。
カァァァァンッ!!
割り箸同士がぶつかった、ただそれだけの音が響く。
だが、その衝撃だけで周囲の砂浜が巨大な円形に吹き飛び、沖合の海面が真っ二つに割れ、高く水の壁が立ち上がった。
豪商達は目を見開いたまま絶句する。
「……割り箸、だよな?」
誰かの震える呟きに、答えられる者は一人もいなかった。
カァァァァンッ!!
二本の割り箸が交差する。
だが、それは人の目で追える速さではなかった。
一瞬遅れて、
ドゴォォォォンッ!!
轟音が空を揺らし、衝撃波だけが海岸を駆け抜ける。
「うわっ!」
豪商達は砂に足を取られ、思わず踏ん張る。
海面には一直線に巨大な裂け目が走り、左右へ押し退けられた海水が山のように盛り上がる。
その頃にはもう、二人の姿はそこにはなかった。
「どこだ!?」
ガエンが叫ぶ。
「上です!」
ラーシャが空を指差す。
全員が見上げる。
遥か上空、雲より高い場所で二つの影が激しくぶつかり合っていた。
カンッ!!
カカカカカンッ!!
キィィィィン!!
割り箸とは思えない澄んだ音だけが、空から何度も降ってくる。
「……空を走ってる。」
工業ギルド長が呆然と呟く。
その言葉通りだった。
マイトは空中を蹴り、スレイドもまた何もない空を踏み締めている。
まるで空そのものが地面になったかのように。
「意味が分からん……。」
商業ギルド長は頭を抱えた。
「空って……走れるものだったか?」
ダグラスは腕を組んだまま苦笑する。
「少なくとも俺には無理だ。」
次の瞬間。
スレイドが豪快に笑った。
「はははははっ! いいぞマイト!」
「師匠こそ!」
二人は笑いながら、さらに速度を上げる。
ドンッ!!
マイトが一直線に海へ突っ込んだ。
ザバァァァァン!!
豪快な水柱が上がる。
「落ちた!」
誰かが叫ぶ。
しかし、
「違う!」
ガエンが目を見開く。
マイトは沈んでなどいなかった。
海面を疾走していた。
バシャッ!
バシャッ!
バシャッ!
一歩踏み出すたびに水柱が上がり、その速度は大型の魔導船すら置き去りにするほどだった。
「海の上を走ってるぞ!?」
カイが思わず叫ぶ。
「常識が逃げていくわ……。」
サラは額を押さえる。
その背後から。
ドォン!!
スレイドも海へ飛び込む。
いや、飛び込んだように見えて、やはり海面を走っていた。
「逃がすか!」
「来てください!」
二人は海の上を並走しながら割り箸を打ち合う。
カンッ!!
その一撃だけで海が左右へ吹き飛び、一瞬だけ海底が姿を現した。
「海底が見えたぞ!?」
オリバが思わず叫ぶ。
「割り箸で海を割るな!」
ガエンも思わずツッコミを入れる。
しかし、本人達はそんなことなど気にも留めていない。
「まだまだぁ!!」
スレイドが大きく踏み込む。
マイトは笑みを浮かべたまま迎え撃つ。
「はい!」
カァァン!!
その瞬間、二人は再び陸へ。
ズガァァァン!!
巨大な岩場へ飛び込み岩を足場にした。
ドンッ!!
ドンッ!!
ドンッ!!
岩から岩へ飛び移るたびに、何十メートルもある巨岩が粉々に砕け散っていく。
「岩が……。」
ラーシャがぽつりと呟く。
最後の一歩。
スレイドが岩を蹴る。
ドゴォォォン!!
直径二十メートルはある巨岩が爆散した。
破片が空高く舞い上がる。
その瓦礫の雨の中で。
カンッ!!
カンッ!!
カンッ!!
二人は楽しそうに笑いながら割り箸を打ち合わせていた。
「ははははは!」
「ふふっ!」
その表情には殺気はない。
あるのは純粋な歓喜だけ。
久しぶりに全力で腕を競い合える喜び。
師匠と弟子だからこそ分かる、お互いへの信頼。
ガエン達はただ、その光景を見上げることしかできなかった。
「……。」
誰も言葉が出ない。
ダグラスだけが静かに笑う。
「二人とも、本当に楽しそうだな。」
ガエンは乾いた笑みを浮かべる。
「楽しそうなのは分かるが……。」
遠くでまた一つ、巨大な岩山が真っ二つに割れて崩れ落ちる。
ズガァァァァン!!
「楽しみ方が世界規模なんだよ……。」
その一言に、その場にいた全員が無言で深く頷いた。
その後も、師弟の戦いは止まることがなかった。
カァァン!!
カンッ!!
キィィィィン!!
割り箸同士が打ち合わされるたびに、海は割れ、砂浜は抉れ、岩山は粉々に砕け散る。
しかし、当の二人は終始笑顔だった。
「はははははっ!!」
豪快に笑うスレイド。
「まだまだぁ!」
マイトも少年のような笑みを浮かべながら応じる。
空を駆け。海を走り。岩を砕き。また空へ。
もはやどちらが攻め、どちらが受けなのかすら誰にも分からない。
ガエン達は首を左右に振りながら必死に目で追うが、
「……見失った。」
「私もです。」
ラーシャとガエンは同時に諦めた。
「音だけ聞こえるな。」
ダグラスだけは苦笑いを浮かべる。
カンッ!!
ドゴォォォォン!!
少し遅れて、遠くの断崖が縦に裂け、そのまま海へ崩れ落ちた。
ザザァァァン!!
「また地形が変わった……。」
商業ギルド長が遠い目をする。
「修復費を考えたくない。」
工業ギルド長は頭を抱えた。
「誰に請求すればいいんだ……。」
「魔王か?」
「勇者か?」
「剣聖じゃない?」
「いや、もう全員だろ。」
豪商達は現実逃避気味に相談を始める。
その頃、遥か上空。
カンッ!!
「いいぞマイト!」
「師匠こそ!」
再び割り箸がぶつかる。
その衝撃だけで雲が円形に吹き飛び、青空が大きく広がった。
ガエンは思わず空を見上げる。
「天気まで変えたぞ……。」
その直後。
ヒュン。
スレイドが距離を取った。
マイトも自然と動きを止める。
互いに数十メートル離れ、海の上へ静かに降り立った。
波の上。
二人はまるで地面に立つように向かい合う。
ガエン達も固唾を呑んで見守る。
(決着か……?)
(どっちが勝つんだ……。)
豪商達も思わず息を止める。
スレイドは割り箸を肩に担ぎ、しばらく無言だった。
そして。
「……よし。」
ぼそりと呟く。
マイトが構えたまま尋ねる。
「どうしたんです?」
スレイドは懐へ手を入れた。
ごそごそ。
ごそごそ。
何かを探す。
しかし。
「……。」
手が止まる。そしてもう一度探す。
ごそごそ。
ごそごそ。
そして真顔のまま一言。
「やめだ。」
「……え?」
マイトが思わず間の抜けた声を漏らす。
スレイドは真剣な表情で頷いた。
「酒が切れた。」
「…………。」
一瞬、世界が静まり返る。
ガエン達も豪商達も、全員が固まった。
「酒が……切れた?」
ガエンが聞き返す。
スレイドは当たり前のように答える。
「ああ。」
腰に下げていた酒瓶を逆さにする。
コポ……
一滴。ぽちゃん。
それで終わりだった。
「なくなった。」
満足そうに頷く剣聖。
「だから終わりだ。」
「そんな理由!?」
マイトが思わず叫ぶ。
「いや、酒がないと調子が出ねぇ。」
「さっきまで絶好調だったじゃん!」
「酒があったからだ。」
「理屈になってない!」
スレイドは豪快に笑った。
「はっはっはっ! 続きは次に酒を用意してからだ!」
そう言うと、何事もなかったかのように海面を歩き始める。
スタスタスタ……
「師匠!まだ勝負は!」
「腹も減った。」
「聞いて!」
「帰るぞ。」
「終わり!?」
「終わりだ。」
あまりにもあっさりした一言だった。
マイトはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて苦笑すると割り箸を懐へしまう。
「……相変わらずですね。」
「まぁな。」
スレイドは振り返りもせず手をひらひら振った。
ようやく重圧が消え、海は静けさを取り戻す。
ガエン達は一斉に大きく息を吐いた。
「終わった……。」
「生きてる……。」
「助かった……。」
豪商達はその場にへたり込み、砂浜へ大の字になる。
しかし視線の先には、真っ二つになった岩山、形の変わった海岸線、そして無数の巨大なクレーター。
オリバが乾いた笑みを浮かべる。
「……結局。」
カイも深くため息をつく。
「割り箸でここまで壊したのか。」
サラは呆れたように肩をすくめた。
「世界最強の二人って、本当に何でもありなのね。」
ガエンは遠ざかる師弟の背中を見送りながら、小さく呟く。
「割り箸による人智を超えた戦いの決着が……酒切れとは。」
その言葉に、その場にいた全員が、力なく頷くしかなかった。




