120.スラム街、絡んでくる
アトラマリスのスラム街。
そこは無法地帯。
まともな人なら絶対に足を踏み入れない場所。
石畳はひび割れ、建物は傾き、壁には無数の落書きが刻まれている。
路地のあちこちには酒瓶や壊れた木箱が転がり、昼間だというのに薄暗く、どこからか腐敗臭が漂ってきた。
ガエン達が一歩足を踏み入れるたび、窓の隙間や物陰から視線を感じる。
「……見られてるな。」
ガエンが小さく呟く。
「うん。歓迎はされてないみたいだね。」
マイトも周囲を見ながら答える。
ラーシャは静かに魔力を巡らせ、いつでも魔法を放てるよう準備し、ダグラスは背中の大鎌に手を添えた。
しばらく進むと、一人の狼の獣人の老人が崩れかけた家の前で木箱に腰掛けていた。
灰色の毛並みは薄汚れ、片目には古傷が走っている。
ガエンは老人の前で足を止めた。
「少し聞きたいことがある。」
老人は四人をじっと見つめ、ゆっくりと鼻で笑った。
「旅人か。」
「ああ。」
老人は周囲を一度見回すと、低い声で言う。
「なら一つだけ忠告してやる。」
「なんだ?」
「このスラムの住人の言葉は信じるな。」
ガエン達は黙って耳を傾ける。
「ここじゃ嘘が金になる。本当のことを話す奴は利用され、騙され、最後には身ぐるみ剥がされる。親切そうな奴ほど腹の中じゃ何を考えてるかわからねぇ。」
老人は苦笑した。
「お前らみたいな余所者は、ここじゃ格好の獲物だ。」
「覚えておく。」
ガエンが短く礼を言うと、老人は軽く手を振った。
「生きて帰りたきゃ、自分の目だけを信じな。」
四人は再び路地を歩き始める。
その背中を、何人もの視線が追い続けていた。
そして細い路地へ差しかかった、その時だった。
ガラッ。
前方の物陰から男が一人。
続いて左右の建物の陰から二人。
さらに背後からも数人。
あっという間に七人ほどの男達がガエン達を取り囲んだ。
全員が粗末な革鎧に棍棒や短剣を持ち、顔には下卑た笑みを浮かべている。
先頭に立つ大柄な男が肩を鳴らした。
「よう、兄ちゃん達。」
ガエンは表情一つ変えない。
「何か用か?」
男はニヤリと笑い、両手を広げて道を塞ぐ。
「この先を通りたけりゃ通行料だ。」
「通行料?」
「そうだ。この辺りは俺達の縄張りなんでな。」
別の男がガエン達の荷物を見ながら舌なめずりする。
「金でも荷物でもいいぜ。素直に置いていけば痛い目は見なくて済む。」
「断ったら?」
ガエンが静かに尋ねる。
大柄な男は棍棒を肩に担ぎ、口元を歪めた。
「その時は力づくだ。」
周囲の男達が一斉に武器を抜く。
ギラリ、と刃が鈍い光を放った。
ダグラスは小さくため息をつき、大鎌に手を掛ける。
「……スラムってのは、どこも同じだな。」
ラーシャは冷めた目で男達を見渡した。
「さっきのお爺さんの忠告、ずいぶん早く証明されましたね。」
マイトは肩をすくめながら苦笑する。
「話し合いで済めばいいんだけど……。」
しかし、その言葉に男達は大笑いした。
「話し合いだぁ?」
「ここはスラム街だぜ。」
大柄な男が棍棒をガエンへ突きつける。
「ここじゃ強い奴がルールなんだよ。」
ガエンは棍棒の先を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……そうか。」
その一言だけだった。
「やれッ!」
大柄な男の怒号と同時に、七人が一斉に飛びかかる。
先頭の男が棍棒を振り下ろした。
だが、
ドゴォッ!!
鈍い衝撃音が路地に響く。
男の体が宙を舞い、背後の仲間を巻き込んで木箱へ突っ込んだ。
「なっ──!?」
残る男達が目を見開く。
二人目が短剣を突き出す。
ガエンは身体を半歩ずらし、男の手首を掴む。
「ぐっ……!」
そのまま軽く捻るだけで短剣が宙を舞い、空いた拳を男の腹へ叩き込む。
「がはっ!」
男は白目を剥いて崩れ落ちた。
「化け物か!」
左右から三人が同時に襲い掛かる。
ガエンは一人の腕を掴み、そのまま振り回す。
「うわあああっ!」
人間の棍棒のようになった男が仲間二人へ激突し、三人まとめて石畳を転がる。
背後から飛び掛かった男は、振り向きもしないガエンの裏拳をまともに食らい、その場で気絶した。
最後の一人は恐怖に顔を引きつらせながら棍棒を振るう。
ガエンは片手で棍棒を受け止めると、そのまま握り潰した。
バキィッ!
乾いた音と共に木製の棍棒が粉々に砕け散る。
「ひっ……!」
男は腰を抜かした。
ガエンはその男の額を軽く指で弾く。
「ぐえっ!」
それだけで男は後ろへひっくり返り、白目を剥いて気絶した。
静寂が訪れる。
わずか数十秒。
七人全員が石畳に転がり、呻き声を上げていた。
その様子を見ていたダグラスは腕を組む。
「……俺達、出番なかったな。」
ラーシャは苦笑した。
「いつものことですね。」
マイトも肩をすくめる。
「ガエン、一人で終わらせちゃうからなぁ。」
ガエンは倒れた男達を見下ろしながら言った。
「安心しろ。骨は折ってない。」
そう言って、一番最初に襲い掛かってきた大柄な男の胸ぐらを掴み、軽々と持ち上げる。
「さて。」
男は脂汗を流しながら震えていた。
「ひ、ひぃ……。」
「勘違いするな。」
ガエンは低い声で言う。
「俺は喧嘩をしに来たんじゃない。」
男は震えながら頷く。
「お、俺達が悪かった……。」
「聞きたいことがあるだけだ。」
ガエンは男をゆっくり地面へ降ろした。
「黒い外套を着た仲介人を知らないか。」
男達は互いに顔を見合わせる。
「黒い外套……?」
「知らねぇ……。」
「そんな奴、見たことねぇよ。」
「本当か?」
ガエンが静かに尋ねると、男達は慌てて首を横に振った。
「ほ、本当だ!」
「俺達は下っ端だ!そんな大物のことなんか知らねぇ!」
「嘘じゃねぇ!」
ガエンはしばらく男達の表情を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうか。」
すると、大柄な男が恐る恐る口を開く。
「で、でもよ……。」
「?」
「このスラムで何か探すなら、俺達なんか相手にしても意味ねぇ。」
「どういうことだ。」
男は唾を飲み込む。
「このスラムには全部をまとめてるボスがいる。」
「ボス?」
「ああ。」
男は周囲を気にするように声を潜めた。
「みんな“スーさん”って呼んでる。」
その名が出た瞬間、他の男達の表情も強張る。
「スーさんに逆らう奴はいねぇ……。」
「このスラムじゃ絶対だ。」
「俺達だって命令には逆らえねぇ。」
ガエンは腕を組んだ。
「そのスーさんが黒い外套の仲介人を知っている可能性がある、と。」
「た、多分な……。」
大柄な男は苦笑いを浮かべた。
「でもやめとけ。」
「……。」
「あんた強ぇよ。俺達なんか相手にならねぇ。」
男は倒れた仲間達を見回し、自嘲気味に笑う。
「だけどな……。」
その笑みはすぐに消えた。
「スーさんだけは別だ。」
「俺達じゃ一度も勝てた奴を見たことがねぇ。」
「正面から挑んだ奴は全員叩きのめされた。」
「お前らでも……勝てない。」
男の言葉には、脅しではなく本心からの畏怖が滲んでいた。ガエン達は顔を見合わせる。
スラム街を支配する謎の人物、スーさん。
黒い外套の仲介人へ繋がる手掛かりは、その人物のもとにあるのかもしれなかった。
ガエンは大柄な男を見つめたまま尋ねる。
「そのスーさんは今どこにいる。」
男は困ったように頭を掻いた。
「……それがわからねぇんだ。」
「わからない?」
「あの人は決まった根城がねぇ。今日ここにいても、明日には別の場所にいる。」
別の男も頷く。
「寝床も決まってねぇし、誰の家にも長居しねぇ。」
「じゃあどうやって会う。」
「向こうが気が向けば勝手に現れる。」
「探して会える相手じゃねぇんだよ。」
ガエンは腕を組んだ。
「つまり居場所は誰も知らない、と。」
「そういうことだ。」
大柄な男は肩をすくめる。
「今頃もこの街のどっかで酒飲んでるんじゃねぇか。」
「酒?」
「ああ。」
男は苦笑した。
「スーさんは酒が大好きなんだ。」
「それとギャンブルだ。」
横にいた痩せた男が付け加える。
「酒場で飲んじゃ賭場へ行って、負けても笑って酒を飲む。」
「逆に大勝ちした日は、そこら中の奴に酒を奢る。」
「だから嫌われてるわけでもねぇ。」
「変な人だけどな。」
男達は口々に話し始めた。
「酔っぱらって道端で寝てることもある。」
「かと思えば翌日には賭場で大儲けしてたり。」
「誰にも縛られねぇ自由人だ。」
「なのに、誰も逆らえねぇ。」
ガエンはその話を静かに聞いていた。
酒好き、そしてギャンブル好き。
自由気ままにスラム中を歩き回る男。
「変わった支配者だな。」
ガエンがそう呟くと、大柄な男は苦笑する。
「普通のボスじゃねぇよ。」
「縄張りを見回るわけでもねぇ。」
「偉そうに玉座へ座ってるわけでもねぇ。」
「でも気づけば全部まとまってる。」
その言葉には、不思議と誇張は感じられなかった。
力だけでは説明できない何かが、スーさんにはあるのだろう。
ガエンは仲間達へ視線を向ける。
「ここで待っていても仕方ない。」
ダグラスが頷く。
「情報を集めるしかないな。」
ラーシャも静かに言った。
「酒場や賭場なら、何か手掛かりがあるかもしれません。目撃情報を集めましょう。」
マイトも賛成する。
「それが一番早そうだね。」
ガエンは男達へ軽く手を上げた。
「助かった。」
「あ、ああ……。」
「もう襲ってくるなよ。」
「二度としねぇ!」
男達は全力で首を縦に振った。
ガエン達はその場を後にし、さらにスラム街の奥へと歩き始める。
狭い路地を抜けるたびに、酒臭い息を吐きながら壁にもたれ掛かる酔っ払い、路地裏で賭け事に興じる男達、怪しげな露店で粗悪な酒を売る店主の姿が目に入る。
スラムの住人達は四人を警戒しながらも、先ほどの騒ぎを耳にしたのか、以前ほど露骨に近寄ってくる者はいない。
「……さっきの連中を倒した話が、もう広まってるみたいだ。」
マイトが小声で言う。
「好都合ですね。」
ラーシャは周囲の視線を感じ取りながら答えた。
「向こうから情報を持ってくる者も出てくるかもしれません。」
ガエンは静かに頷き、薄暗い路地の先へ視線を向けた。
この無法地帯のどこかにいるという、酒とギャンブルを愛するスラムの支配者、スーさん。
黒い外套の仲介人へ繋がる糸は、少しずつその人物へと近づいていた。




