108.軍師王、満足する
その場の空気が変わった。
兵士達に僅かに緊張が走る。
ガエンは口元に笑みを浮かべ、ラーシャは少しだけ驚く。ダグラスは相変わらず無表情だったが、軽く視線をマイトへ向けた。
マイトはゆっくりと、まるで散歩をしているかのように進む。
その姿を見た軍師王レムルスは、静かに頷いた。
「……ついに勇者が動くか。」
その声には警戒ではなく、純粋な期待が滲んでいた。
これまで後方から戦況を眺め、兵士達の成長を嬉しそうに見守っていた男。
その勇者が、ついに自ら前へ出る。
「これは……見逃せんな。」
レムルスは心の底から楽しそうに微笑んだ。
そして。
マイトは兵士達を見渡し、いつもの柔らかな笑顔を浮かべる。
「それじゃ…行くよー!」
その瞬間。
持っていた木剣を、何の前触れもなく真上へ放り投げた。
「えっ!?」
兵士達が思わず空を見上げる。
木剣は太陽の光を受けながら、くるくると回転し、高く、高く舞い上がっていく。
そして次の瞬間。
ドンッ!!
地面を軽く蹴っただけで、マイト自身も一直線に空へ跳び上がった。
「なっ!?」
「と、飛んだ!?」
兵士達の驚愕の声が上がる。
まるで重力など存在しないかのように、マイトは木剣を追い越す勢いで上昇していく。
「……相変わらず、滅茶苦茶だな。」
ガエンが苦笑しながら呟く。
ラーシャも小さく笑った。
「本当に楽しそうですね。」
はるか上空。
マイトは落下し始めた木剣をくるりと掴むと、そのまま空中で一回転。
「みんな、ちゃんと見ててねー!」
無邪気な声が響いた直後、流星のような速度で地上へ向かって降下を始めた。
次の瞬間。
ドォンッ!!
着地と同時に大地が大きく揺れ、土煙が一気に舞い上がる。
「うわっ!?」
「来るぞ!!」
兵士達は即座に散開し、それぞれが訓練で身につけた陣形を維持しながら迎え撃つ。
土煙の中から飛び出したマイトは、満面の笑みを浮かべていた。
「すごいすごい! ちゃんと避けられたね!」
そう言うなり、次の瞬間には姿が消える。
「右だ!」
槍部隊の兵士が叫ぶ。
だが、その声よりも早くマイトは反対側へ移動していた。
カンッ!!
木剣同士がぶつかる。
一人の兵士が受け止めたかと思えば、その勢いを利用してマイトはふわりと宙返りし、背後へ着地する。
「後ろ!」
「しまっ……」
コンッ。
軽く木剣で兜を叩かれた兵士は思わず肩を落とした。
「はい、一人!」
まるで鬼ごっこでもしているかのように、マイトは笑顔のまま次々と兵士達の間を駆け抜けていく。
「こっちも!」
「うわぁ!」
盾部隊が壁を作れば、その盾を踏み台に軽々と跳び越え、槍の穂先を足場にしてさらに高く跳ぶ。
「そんな使い方ありかよ!」
兵士達から思わず悲鳴にも似た声が上がる。
しかしマイトは終始楽しそうだった。
「いいねいいね! みんな前よりずっと動けてる!」
そう褒めながらも、攻撃の手は一切緩めない。
コン、コン、コンッ。
気付けば三人、四人と木剣で軽く判定を取られ、兵士達は次々と戦闘不能扱いになっていく。
「あっ、今の連携惜しかった! もうちょっとだったのに!」
励ますように笑いながら、さらに別の部隊へ一直線。
「マ、マイト! ちょっと待て!」
ガエンが慌てて前へ出る。
「おい! やりすぎだ! 今日は兵士達の成果を見る訓練だぞ!」
しかし。
「えー? だって楽しくなってきたもん!」
マイトは振り返りもせず答える。
「あと少しで全員捕まえられそうなんだよ!」
「そこじゃねぇ!」
ガエンが額を押さえて叫ぶ。
だが、マイトの耳にはまるで届いていなかった。
「次いくよー!」
その声と同時に再び兵士達の中へ飛び込んでいく。
ガエンは思わず追い掛けようとした。
「おい、待てって!」
その肩を、ぽん、と誰かが軽く叩く。
振り返ると、ダグラスだった。
「……無駄だ。」
「いや、でもあいつ……。」
ダグラスは小さくため息をつく。
「楽しんでいる時の勇者は止まらん。」
そう言ってガエンの肩をもう一度軽く叩き、静かに首を横へ振る。
「下がって見ていろ。」
ガエンは頭を抱えた。
「……はぁ、本当に自由すぎるだろ、あいつ。」
少し離れた場所では、ラーシャが苦笑いを浮かべながら戦場を見つめていた。
「マイトさんらしいですね……。」
困ったように頬へ手を添えながらも、その瞳にはどこか温かな色が宿っている。
兵士達は悲鳴を上げながらも必死に食らいつき、勇者は子供のような笑顔で戦場を駆け回る。
そのあまりにも規格外で、それでいてどこか微笑ましい光景に、軍師王レムルスは思わず吹き出した。
「ははは……。」
肩を震わせながら笑い、感心したように呟く。
「勇者とは、やはり予測できぬ存在だな。」
マイトは最後まで一切速度を落とさなかった。
兵士達も、この一か月の成果をすべて出し切ろうと必死に食らいつく。
「囲め!」
「逃がすな!」
盾部隊が進路を塞ぎ、槍部隊が間合いを制圧する。
その隙に剣部隊が左右から挟み込み、後方では魔法部隊が補助魔法を展開した。
「今だ!」
完璧に近い連携だった。
だが。
「わぁ、すごい!」
マイトは心から嬉しそうに笑う。
次の瞬間、その場で軽く一歩踏み出しただけで、包囲網をすり抜けていた。
「えぇっ!?」
誰も動きが見えない。
「そこ!」
コンッ。
「はい、一人!」
「こっちも!」
コンッ。
「二人!」
さらに空中へ跳び上がると、兵士達の頭上をひらりと飛び越え、そのまま後方へ着地する。
「まだまだ!」
笑いながら駆け抜け、木剣で次々と軽く判定を取っていく。
コンッ、コンッ、コンッ。
気付けば残っていた兵士達も全員、木剣を兜や肩へ軽く当てられ、その場にへたり込んでいた。
訓練場に静寂が訪れる。
誰もが肩で息をし、汗だくになって空を見上げていた。
対するマイトだけは、息一つ乱れていない。
木剣を肩へ担ぎ、満面の笑みで兵士達を見渡す。
「いやー!」
太陽のような笑顔で大きく頷いた。
「みんな強くなったね!」
「強くなったねじゃねーよ!」
ガエンの盛大なツッコミが訓練場中に響き渡った。
「一人で全部倒したじゃねぇか!」
「え?」
マイトはきょとんと首を傾げる。
「だってみんな前よりずっと強くなってたよ?」
「そこは否定しねぇ!」
ガエンは頭を抱える。
「だが、お前が楽しすぎて兵士達の成果を見るどころじゃなかっただろ!」
「あっ。」
ようやく気付いたようにマイトは目を丸くする。
「そっか。」
少しだけ申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめんごめん。楽しすぎて忘れてた。」
「忘れるな!」
ガエンは即座にツッコむ。
そのやり取りを見ていた兵士達から、思わず笑い声が漏れた。
「ははは……。」
「勇者様、本当に自由だ……。」
「でも、あんな相手によくここまで戦えたよな。」
疲れ切った兵士達の表情には、不思議と悔しさだけではなく達成感も浮かんでいた。
ラーシャはその様子を見て、優しく微笑む。
「皆さん、本当に立派でしたね。」
ダグラスも静かに頷く。
「ああ。一か月前なら、ここまで食らいつくことすらできなかった。」
その言葉に兵士達は互いの顔を見合わせる。
確かに倒された。
だが、以前とは違う。
確実に成長していることを、自分達自身が一番実感していた。
その光景を見つめるレムルスは、静かに腕を組み、大きく頷いた。
「……見事だ。」
軍師王の口元には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
レムルスは兵士達をゆっくりと見渡した。
汗だくになりながらも、誰一人として下を向いてはいない。
全員がやり切ったという表情を浮かべていた。
その姿に、軍師王は深く息を吐き、満足そうに微笑んだ。
「ガエン殿、ダグラス殿、ラーシャ殿、マイト殿。」
四人へ向かって静かに頭を下げる。
「本当に感謝する。この一か月で兵達は見違えるほど成長した。」
その言葉には社交辞令など一切なかった。
「武だけではない。判断力、連携、精神力……どれも確実に一段階上へ進んでいる。」
レムルスは兵士達へ視線を向ける。
「これほど短期間で、ここまで兵を鍛え上げられる者達を、私は他に知らん。」
ガエンは照れ臭そうに鼻をかいた。
「よせよ、そんな改まって礼なんて。」
肩を竦めながら笑う。
「これはスポンサー特典だからな。気にするな。」
その一言に、レムルスは思わず苦笑した。
「はは……そうであったな。」
軍事国家バルファードが運動会のスポンサーになる条件として引き受けた訓練。
しかし、その成果はレムルスの想像を遥かに超えていた。
ガエンは今度は兵士達の前へ歩み出る。
全員の視線が自然と集まった。
ガエンは口元に笑みを浮かべ、大きな声で言う。
「お前達!」
兵士達は一斉に姿勢を正した。
「この一か月、本当によく頑張った。」
その言葉に兵士達の表情が少しだけ緩む。
だが次の瞬間、ガエンはニヤリと笑った。
「……だが、これで終わりじゃねぇ。」
兵士達の表情が引き締まる。
「運動会までに、もっと強くなっておけ。」
力強く言い放つ。
「今日のお前達なら、もっと上を目指せる。そこで満足するような兵士なら、俺達はわざわざ鍛えたりしねぇ。」
ダグラスも静かに口を開く。
「鍛錬は続けろ。」
短い言葉だったが、その重みは十分だった。
ラーシャも優しく微笑む。
「皆さんなら、もっと素晴らしい連携ができます。またお会いする時を楽しみにしています。」
するとマイトが元気よく手を挙げた。
「次に会う時は、もっと本気で鬼ごっこしようね!」
「「「それは勘弁してください!!」」」
兵士達の声が見事に揃う。
訓練場は大きな笑いに包まれた。
ガエンは腹を抱えて笑いながらマイトの肩を叩く。
「お前は最後までそれか!」
「えへへ。」
マイトは悪びれる様子もなく笑う。
その光景を見つめるレムルスは、穏やかな笑みを浮かべながら静かに呟いた。
「この者達と出会えたことこそ、我が国にとって最大の収穫だったのかもしれんな。」
兵士達は一斉にガエン達へ向かって敬礼する。
「ありがとうございました!!」
訓練場いっぱいに響き渡るその声は、一か月前とは比べものにならないほど力強く、自信に満ちあふれていた。




