103.兵士、さらに無茶振りをされる
陽が傾き、岩肌が夕日に赤く染まり始める頃。
マイトは崖の上から軽く飛び降りると、ふわりと着地してパンパンと手を叩いた。
「はい! 今日は終わりー!」
その一声で、兵士達は「やっと終わった……」と安堵の息を漏らしながら麓へ集まってくる。
汗と土で全身は汚れ、腕も足も悲鳴を上げていた。
それでも朝とは違い、誰もがどこか達成感のある表情を浮かべている。
マイトはそんな兵士達をぐるりと見回し、満足そうに頷いた。
「みんな、初日にしてはすっごく上達したね。」
兵士達の顔が少し明るくなる。
「じゃあさ。」
マイトがにこっと笑いながら、遠くで轟音を響かせる大滝を指差した。
「あの滝、一週間で走って登れるようになってね。」
一瞬の静寂。
そして。
「「「それは無理ーーーっ!!」」」
岩場に兵士達の絶叫が響き渡る。
「無茶です!」
「今日やっと崖を登れるようになったばかりですよ!」
「滝ですよ!? 水ですよ!? しかも走るって何ですか!」
「人間のやることじゃありません!」
全員が口々に抗議する。
マイトは「えー?」と首を傾げた。
「そんなに難しいかなぁ。」
「難しいです!」
「勇者様基準で考えないでください!」
「水より速く足を動かせばいいだけじゃん。」
「その”だけ”ができません!」
再び総ツッコミが飛ぶ。
マイトは少し考えるように顎へ指を当てた。
「うーん……。」
兵士達は固唾を飲んで見守る。
(頼む……普通の課題にしてください……。)
(せめて現実的なものを……。)
しばらく考え込んでいたマイトは、ぽんっと手を叩いた。
「あ、じゃあ仕方ないか。」
兵士達の表情が一気に明るくなる。
(助かった!)
(まともな課題になりそうだ!)
しかし。
「今日練習したあの崖。」
マイトは先ほど登っていた切り立った崖を指差した。
「あれを足だけで登れるようになるなら、それでいいや。」
兵士達の笑顔が固まる。
「……足だけ?」
「うん。」
「足だけって……。」
「手を使わず?」
「そうそう。」
マイトは実演するように崖へ歩いていく。
「こんな感じ。」
トン。
岩へ片足を乗せる。
次の瞬間。
タッ、タッ、タッ。
両手を後ろで組んだまま、脚力だけで垂直の崖を軽快に駆け上がっていく。
腕は一切使わない。
身体はぶれず、まるで平地の階段を上るような軽さだった。
あっという間に崖の頂上へ到着すると、マイトは手を振った。
「ほら、こんな感じ!」
兵士達は全員、口を開けたまま固まる。
「……。」
「……。」
「……いやいやいや!」
「今のを基準にしないでください!」
「十分無茶です!」
「むしろ滝より現実味がありません!」
マイトは首を傾げた。
「そう?」
そして、ぴょんと飛び降りて兵士達の前へ戻る。
「でもね、今日教えたでしょ?」
そう言って一人ひとりの足元を指差す。
「崖を登るのは腕じゃなくて足。腕は身体を支えるんじゃなくて、バランスを取るため。つまり、足だけで登れるようになれば、本当に登るのはすごく楽になるんだよ。」
兵士達は顔を見合わせる。
理屈は理解できた。
実際、今日だけでも足の使い方を覚えたことで、驚くほど楽に登れるようになっていた。
「だから目標はこれ!」
マイトは親指を立てて笑う。
「一週間後には、手を使わなくてもこの崖を登れるようになること!」
兵士達は一斉に肩を落とした。
「結局無茶だ……。」
「勇者様の『仕方ない』は全然仕方なくない……。」
「でも……。」
一人の兵士が崖を見上げる。
「今日できなかったことが、夕方には少しできるようになった。」
別の兵士も頷いた。
「勇者様の言うこと、最初は無理だと思っても、気づけばできるようになってるんだよな。」
その言葉に、周囲の兵士達も苦笑しながら頷く。
マイトは満面の笑みを浮かべた。
「そうそう! その調子!できないじゃなくて、まだできないだけ!一週間後には、みんなできるようになってるよ!」
その底抜けに明るい笑顔を見ていると、不思議と「本当にできるかもしれない」と思えてくる。
兵士達は苦笑を浮かべながらも拳を握りしめた。
「やってやろうじゃないか!」
「絶対に登ってみせる!」
「勇者様を驚かせてやる!」
岩場には再び力強い返事が響き渡る。
それを聞いたマイトは嬉しそうに笑い、
「よーし! 明日もいっぱい遊ぼうね!」
「「訓練です!!」」
兵士達の元気な総ツッコミが、夕暮れの山へといつまでも響き続けた。
翌日からの一週間。
第四部隊の兵士達は、毎朝まだ朝霧の残る山へ集まり、切り立った崖へと挑み続けた。
最初は数歩でずるりと滑り落ちる者ばかりだった。
「足の裏全体で岩を感じて!」
「焦らなくていいよ! 一歩ずつ!」
マイトは崖を縦横無尽に飛び回りながら、一人ひとりへ声を掛けていく。
「そこは腕に力を入れすぎ!」
「右に半歩! そこに小さい足場があるよ!」
「そうそう! 今の感覚忘れないで!」
崖の途中で足を踏み外した兵士がいれば、いつの間にか隣へ現れ、片手で軽々と支える。
「大丈夫?」
「は、はいっ!」
「落ちても平気だけど、どうして落ちたかはちゃんと考えてね。」
そう言って笑顔で岩場へ戻してやる。
手を掛ける場所が見つからず止まってしまえば、
「上じゃなくて下を見てごらん。」
「え?」
「足場は探すんじゃなくて感じるんだよ。」
その一言で兵士は足元の小さな出っ張りに気付き、再び登り始める。
成功した兵士には、自分のことのように飛び跳ねて喜んだ。
「やったぁーっ!」
「できたね!」
「昨日より三倍くらい上手くなってる!」
勇者本人が一番嬉しそうに笑うものだから、兵士達も自然と笑顔になってしまう。
昼が近付く頃になると、マイトは突然手を叩いた。
「お昼ごはんにしよー!」
「今日は何を食べるんですか?」
「今日は川魚!」
そう言うなり、近くを流れる清流へ駆け出す。
兵士達が追い掛けると、マイトは靴を脱いで川へ飛び込んでいた。
「えいっ!」
バシャッ!
水しぶきが上がった次の瞬間。
「取れた!」
片手には大きな川魚が暴れている。
「はやっ!」
「見えませんでした!」
その後も次々と魚を捕まえていき、あっという間に全員分を確保してしまう。
近くで焚き火を起こし、串へ刺して焼き始める。
ジュウゥ……
香ばしい匂いが辺りへ広がる。
「うまそう……。」
兵士達のお腹が一斉に鳴った。
「木の実もあるよ!」
今度は森へ入り、食べられる木の実を次々と集めてくる。
「これは甘い!」
「こっちは酸っぱい!」
「これは食べちゃダメ!」
楽しそうに説明するマイトを見ながら、兵士達も夢中で集め始める。
「勇者様、詳しいですね。」
「旅してると自然と覚えるんだ。」
焼きたての川魚を頬張りながら、マイトは満足そうに笑った。
「自然って最高だよね。」
兵士達も魚を口に運ぶ。
「うまい……。」
「町で食べる魚とはまた違いますね。」
「運動した後だから余計にうまい!」
笑いながら食事を終えると、マイトは立ち上がって大きく伸びをした。
「よーし!」
その目は子供のように輝いている。
「午後も遊ぶよ!」
「「だから訓練ですって!」」
いつもの総ツッコミが山へ響く。
「えー? 遊びながら訓練してるじゃん。」
「それは勇者様だけです!」
兵士達は苦笑しながら再び崖へ向かう。
午後になると、朝には登れなかった高さまで登れる者が現れ始めた。
足の置き方。重心の移動。岩肌を感じる感覚。
少しずつではあるが、全員が確実に身につけていく。
マイトはその成長を誰よりも嬉しそうに見守りながら、崖の上や横を飛び回り、一人ひとりへ的確な助言を送り続けた。
山には、岩を蹴る音と兵士達の掛け声、そして勇者と兵士達の笑い声が、毎日のように響き渡っていた。
六日目。
朝霧が晴れ始めた頃には、兵士達の動きは初日とは別人のようになっていた。
タッ。
タッ。
タッ。
岩肌へ足を置くたび、身体がぶれない。
「よし……!」
一人の兵士が、両手を胸の前で組んだまま、一歩、また一歩と崖を登っていく。
途中で止まりそうになりながらも、足裏で岩を確かめ、ゆっくりと体重を乗せる。
タッ。
タッ。
そして、ついに崖の頂上へ辿り着いた。
「……で、できたぁぁぁ!」
頂上から歓声が響く。
下にいた兵士達からも歓声が上がった。
「本当に登れた!」
「手を使ってないぞ!」
「すげぇ!」
マイトは満面の笑みで拍手した。
「やったねー!」
その日を境に、一人、また一人と足だけで登れる兵士が現れ始める。
もちろん、マイトのように軽やかに駆け上がれるわけではない。
踏み外さないよう慎重に。
一歩一歩、岩を踏みしめながら。
まるで険しい石段を登るように、ゆっくりと崖を歩いていく。
「急がなくていいよ。」
マイトは崖の上で笑いながら声を掛ける。
「走る前に、歩けるようになることが大事だからね。」
兵士達は汗を流しながら頷いた。
「はい!」
六日目の終わりには、第四部隊の半数近くが足だけで崖を登れるようになっていた。
その姿を見たマイトは嬉しそうに何度も頷く。
「うんうん、みんな本当に上手になった。」
兵士達も自然と胸を張る。
「最初は絶対無理だと思ってました。」
「でも今なら、勇者様が言ってた意味が分かります。」
「腕より足の方がずっと大事なんですね。」
「そうそう!」
マイトは満足そうに笑った。
「じゃあ、明日は最後の日!」
兵士達は一斉に身構える。
「嫌な予感しかしません……。」
「何をやらされるんだ……。」
しかしマイトは首を振った。
「新しいことはやらないよ。」
兵士達はほっと胸をなで下ろす。
「ただ。」
その一言で全員の肩が跳ねた。
「最後だから、ちょっとだけ頑張ろう!」
その笑顔を見て、兵士達は思わず苦笑するのだった。
七日目。一週間最後の訓練。
朝日が岩肌を照らす中、兵士達は崖の前へ整列していた。
マイトは全員を見渡し、大きく頷く。
「今日はね。」
にこりと笑う。
「好きなように登ってみて。」
兵士達は顔を見合わせる。
「好きなように……?」
「うん。手を使ってもいいし、使わなくてもいい。自分が一番登りやすい方法で登ってごらん。」
その言葉を合図に、兵士達は一斉に崖へ飛び出した。
タッ。
タッ。
タッ。
以前とは比べ物にならない速さで登っていく。
足だけで歩くように登る者。
必要最低限だけ手を添える者。
それぞれが自分の登り方を見つけていた。
その時だった。
「お、おい!」
一人の兵士が叫ぶ。
「見ろ!」
視線の先では、一人の若い兵士が崖を駆け上がっていた。
タンッ。
タンッ。
タンッ。
歩いてはいない。
短い距離ではあるが、足を連続で蹴り込み、勢いよく岩肌を駆け抜けている。
「走ってる……!」
「本当に走ってるぞ!」
兵士はそのまま一気に頂上へ飛び出した。
「やったぁぁぁぁ!」
歓喜の声が山へ響く。
それを見た他の兵士達の目にも火がついた。
「俺も!」
「負けるか!」
挑戦する兵士が次々と現れる。
まだ長くは続かない。
途中で歩きに戻る者も多い。
それでも数歩だけ、十歩だけ、確かに崖を走る兵士達が現れ始めていた。
マイトはその光景を見つめながら、心から嬉しそうに笑った。
「すごい。」
ぽつりと呟く。
「一週間で、本当にできるようになった。」
兵士達は次々と頂上へ辿り着き、互いに肩を叩き合って喜ぶ。
「俺達……本当に崖を走ったぞ!」
「勇者様の無茶ぶりを達成した!」
「信じられねぇ!」
誰もが達成感に満ちた笑顔だった。
マイトは大きく拍手すると、兵士達へ向かって親指を立てる。
「みんな合格!」
その一言に、山中へ歓声が響き渡った。
歓声がしばらく鳴り止まない。
兵士達は互いの健闘を称え合い、崖を見上げながら興奮冷めやらぬ様子だった。
マイトはそんな皆を見回し、満面の笑みを浮かべる。
「みんな、本当によく頑張ったね。」
兵士達は照れくさそうに笑う。
「ありがとうございます!」
「まさか一週間でここまで出来るとは思いませんでした!」
マイトは何度も頷いた。
「だからさ。」
兵士達は何となく嫌な予感がして表情を引きつらせる。
「……はい?」
マイトは指を一本立てた。
「じゃあ明日からは滝に挑戦だね!」
その瞬間、
「「「それは絶対に無理ぃぃぃぃ!!」」」
山中に兵士達の絶叫が響き渡る。
「無茶です!」
「崖と滝じゃ話が違います!」
「水流がありますよ!?」
「昨日まで足だけで崖を登れたことを喜んでたんですよ!?」
兵士達の盛大な総ツッコミに、山にいた鳥達が一斉に飛び立った。
しかしマイトは不思議そうに首を傾げる。
「えー? 崖よりちょっと濡れるだけだよ?」
「その『ちょっと』が命懸けなんです!」
「水に押し流されます!」
「勇者様は基準がおかしいんですよ!」
口々に反論する兵士達。
マイトは腕を組んで少し考える。
「うーん……。」
兵士達は固唾を呑んで見守る。
「じゃあ、流れの弱い滝から」
「そういう問題じゃありません!」
再び全員が声を揃えて叫んだ。
その勢いに、さすがのマイトも「ありゃ」と苦笑する。
「そっかぁ。」
頭をぽりぽりとかきながら笑った。
「まぁ、今のは冗談だから安心して。」
兵士達は一瞬静まり返る。
「……え?」
「じ、冗談?」
マイトはにかっと笑った。
「今日はちゃんと訓練終わり! みんな本当にお疲れさま!」
その言葉を聞いた兵士達は一斉にその場へへたり込んだ。
「よ、よかったぁ……。」
「心臓が止まるかと思いました……。」
「勇者様の冗談は寿命が縮みます……。」
そんな兵士達を見てマイトは楽しそうに笑う。
「でも、いつかは滝も登れるようになると面白そうだよね!」
「「「面白くありません!!」」」
最後まで息の合った総ツッコミが山々に響き渡り、こうして第四部隊の笑いに満ちた崖登りの特訓は幕を閉じた。




