102.兵士、無茶振りをされる
第四部隊、二日目。
マイトと兵士達は岩場に来ていた。
切り立った崖の間を勢いよく流れ落ちる大きな滝。
轟音を立てて流れ落ちる水しぶきが周囲を白く染め、足元の岩は濡れて滑りやすくなっている。
兵士達はその迫力に思わず息を呑んだ。
「さーて、今日はここで何して遊ぼうかなぁ。」
マイトは腕を組みながら辺りを見回す。
その言葉を聞いた兵士達は顔を見合わせた。
「……嫌な予感しかしない。」
「昨日も散々だったしな。」
「頼むから普通の訓練にしてくれ……。」
兵士達が小声で話していると、マイトが突然にまーっと満面の笑みを浮かべた。
「あっ、決めた!」
嫌な予感が確信へと変わる。
「よし! あの滝で滝登りレースしよう!」
マイトが勢いよく滝を指差した。
兵士達は一斉に叫ぶ。
「出来るかーーー!!」
「無理です!」
「人間は魚じゃありません!」
「流されて終わります!」
悲鳴にも似た叫びが岩場に響く。
しかしマイトは首を傾げるだけだった。
「えー? 簡単だよ?」
「どこがですか!」
マイトは滝へ近づくと、流れ落ちる水へ指を向けて笑う。
「水よりも早く蹴ればいいだけだよ。」
兵士達は一瞬静まり返った。
「……はい?」
「だから、水が落ちてくる前に足を置いて蹴るの。」
「意味が分かりません!」
「水より速くって何ですか!」
「人間の限界を超えてます!」
兵士達の叫びなど気にもせず、マイトは軽く屈伸をした。
「じゃあ、お手本ね。」
そう言うと、地面を軽く蹴る。
ドンッ!!
爆発音のような踏み込み。
次の瞬間には、マイトの姿は滝の中へ飛び込んでいた。
兵士達が目で追う。
タッ。
タッ。
タタタタタッ!!
流れ落ちる激流を踏み台にするように、マイトの足が次々と水面を捉える。
水しぶきより速く足が動き、一歩蹴るたびに身体は上へ上へと駆け上がっていく。
まるで滝そのものが階段になったかのようだった。
ほんの数秒後、マイトは滝の頂上へ到達すると、岩の上で両手を腰に当てて笑顔で手を振る。
「ほらねー! 簡単だった!」
その声が滝の上から響く。
兵士達は口を開けたまま固まっていた。
「…………。」
「…………。」
「いやいやいやいや。」
「どこが簡単なんだ!」
「水の上を走ってたぞ!」
「意味が分からない!」
「勇者ってそういう生き物なのか!?」
大混乱である。
マイトはひらりと飛び降りると、ふわりと兵士達の前へ着地した。
兵士達の総ツッコミを浴びても、マイトは頬を膨らませて不満そうに腕を組んだ。
「えぇー……。滝登り、楽しいのに。」
「楽しいのは勇者様だけです!」
「遊びで命を懸けたくありません!」
「まだ二日目ですから!」
四方八方から飛んでくる抗議に、さすがのマイトも耳をぴくぴくさせる。
「むぅ……。」
少し考え込んだあと、仕方ないというように肩をすくめた。
「じゃあ……渋々だけど。」
兵士達は固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「崖登りレースでいいよ。」
「……。」
一瞬、静寂が訪れる。
「……よかった。」
「滝じゃないだけマシだ。」
「普通に崖なら何とか」
そこまで言って兵士達は全員同時に固まった。
「……いや、待て。」
「ホッとしてる場合じゃない!」
「崖登りも十分おかしいぞ!」
「普通って何だっけ……。」
ようやく気付いた兵士達は頭を抱える。
マイトはそんな様子など気にも留めず、鼻歌交じりに岩場を歩き始めた。
「うーん、どの崖がいいかなぁ。」
きょろきょろと辺りを見回す。
最初に見つけたのは、ほぼ垂直に切り立った高さ百メートル近い断崖だった。
「おっ、これ面白そう!」
兵士達は青ざめる。
「却下です!!」
マイトは首を傾げた。
「えー?」
さらに奥へ歩くと、今度は途中から岩がせり出し、逆さまになるようなオーバーハングの崖を見つける。
「こっちも楽しそう!」
「もっと却下です!!」
「登る以前にぶら下がるしかないじゃないですか!」
「人間はコウモリじゃありません!」
マイトは「あれもダメかぁ」と残念そうに頬を掻く。
兵士達は慌てて前へ出た。
「勇者様!」
「ん?」
「お願いします!」
「最初は難易度低めからでお願いします!」
「いきなり勇者基準は無理です!」
「まずは初心者向けで!」
兵士達は揃って深々と頭を下げた。
マイトは「初心者向けかぁ」と呟きながら腕を組み、しばらく真剣に岩山を見渡す。
やがて一つの崖を指差した。
「あっ、あれなら初心者向けだね!」
兵士達が期待を込めて視線を向ける。
そこには高さ三十メートルほどの崖があった。
先ほどまでの断崖絶壁に比べれば低い。
傾斜も五十度ほどで、所々に足を掛けられそうな岩もある。
兵士達は胸を撫で下ろした。
「よ、よかった……。」
「これなら何とか……。」
しかし次の瞬間、マイトがにこっと笑って付け加えた。
「もちろん、手は使っちゃダメだからね!」
「「「えぇぇぇぇぇぇーーーっ!?」」」
岩場いっぱいに、兵士達の悲鳴が響き渡った。
兵士達の悲鳴などどこ吹く風といった様子で、マイトは首を傾げた。
「え? 手を使わない方が、足の使い方が上手になるよ?」
「いやいやいや!」
「その前に落ちます!」
「足だけで崖なんて登れません!」
兵士達が必死に訴える。
マイトは「そうかなぁ」と呟くと、軽く助走をつけた。
「じゃ、お手本ね。」
トンッ。
岩を一度蹴る。
次の瞬間には二歩、三歩と崖を軽快に駆け上がっていく。
タッ、タッ、タッ、タッ。
まるで平坦な道を散歩でもしているかのような軽やかな足取り。
五十度ほどの傾斜など存在しないかのように、一定の速度で登り続ける。
途中で鼻歌まで歌い始めた。
「ふんふふーん♪」
兵士達は口を開けたまま見上げる。
「散歩してる……。」
「なんであんな余裕なんだ。」
「勇者様の中では、崖は坂道なのか……?」
マイトは頂上まで登ると、そのまま崖の上を少し散策するように歩き回り、下を覗き込んで笑顔で手を振った。
「このくらいなら簡単だねー!」
兵士達は一斉に首を横へ振る。
「簡単じゃありません!」
「勇者様にとっての簡単は信用できません!」
「まずは練習からお願いします!」
「いきなりレースなんて無理です!」
次々に飛んでくる懇願に、マイトは少し考え込んだ。
「んー……。」
しばらく黙っていたが、やがて肩をすくめる。
「まぁ、いいけど。」
その一言に兵士達はほっと息をついた。
「助かった……。」
「今日は生きて帰れそうだ。」
「勇者様が折れてくれた……。」
マイトは崖からひょいっと飛び降りる。
三十メートル近い高さだったが、着地の衝撃はほとんど音すら立たない。
「じゃあ今日は練習!」
にこにこと笑いながら兵士達の前へ立つ。
「まずは足の置き方からね。」
マイトは崖の一番下を指差した。
「岩はね、よーく見ると出っ張ってるところがいっぱいあるの。そこを踏むんじゃなくて、『押す』感じ。」
そう言って実際に一歩だけ踏み込み、身体を軽く持ち上げて見せる。
「腕で登ろうとすると疲れちゃうから、脚の力を使うんだよ。」
兵士達は真剣な表情で頷いた。
「なるほど……。」
「確かに腕だけじゃ途中で終わる。」
「脚を意識するのか。」
「うんうん。」
マイトは満足そうに笑う。
「最初は手を使ってもいいよ!」
その言葉に兵士達の表情が一気に明るくなる。
「ありがとうございます!」
「助かります!」
「ようやく人間向けの訓練になった!」
マイトは笑顔のまま続けた。
「でも、慣れてきたら手は一本ずつ使わなくして、最後は手を離して登れるようになろうね!」
「「「結局そこなんですねぇぇぇっ!!」」」
岩場に兵士達の絶叫が響く。
マイトはけらけらと楽しそうに笑いながら、一人ひとりの動きを見て回った。
「そこ、足をもう少し右!」
「いい感じ!」
「焦らなくていいよー!」
普段は無茶苦茶な遊びばかり提案する勇者だったが、教え方は驚くほど丁寧だった。
兵士達は悪戦苦闘しながらも、マイトの助言を受け、一歩、また一歩と崖を登り始める。
こうして第四部隊二日目は、悲鳴と笑い声が絶えない「崖登り練習」となった。
マイトは兵士達の間を縫うように駆け回る。
崖を登る兵士の横を、まるで平地を走るような軽さでタッ、タッ、と飛び移っていく。
「そうそう! その足!」
「もう少し体を岩に近づけると楽だよ!」
「腕に力入りすぎー!」
一人ひとりの癖を見抜き、次々と声を掛けていく。
「はい、そこは左足!」
「その出っ張りじゃなくて、一つ上!」
「あっ、そのまま踏み込んで!」
兵士達は驚いた。
(全部見えてる……。)
これだけ大勢が別々の場所を登っているというのに、マイトは全員の動きを把握している。
その時だった。
「うわっ!」
一人の兵士の足が滑る。
身体が崖から離れ、落下しかけた。
「しまっ」
その瞬間。
トンッ。
マイトが横の岩を蹴ったかと思うと、一瞬で兵士の横へ現れる。
「はいっと。」
まるで友達の肩を支えるような気軽さで兵士の背中を支えた。
兵士の身体はふわりと止まり、そのまま元の姿勢へ戻される。
「……え?」
何が起こったのか理解できず兵士は目を丸くする。
マイトは笑顔のまま言った。
「慌てると足が滑るからね。」
「は、はい!」
「落ちそうになったら、一回止まって深呼吸!」
「わ、分かりました!」
まるで何事もなかったかのように、マイトは次の兵士の元へ跳んでいく。
「うーん。」
今度は別の兵士が岩の途中で固まっていた。
「どうしたの?」
「て、手を掛ける場所がありません!」
目の前には掴めそうな岩がなく、兵士は途方に暮れていた。
マイトは崖を軽く見上げると、すぐに答えを出す。
「そこは手じゃないよ。」
「え?」
「左足を今より五センチ高いところに置いて。」
兵士は言われた通りに足を動かす。
「そのまま腰を右へ。」
身体を少しひねる。
「今!」
グッ。
踏み込んだ瞬間、自然と身体が持ち上がった。
「あっ!」
今まで見えなかった場所に手が届く。
「登れた!」
「ほらね。」
マイトはにこりと笑う。
「見えない時は、身体の向きを変えると景色も変わるんだよ。」
「なるほど……。」
兵士は感心しながら何度も頷いた。
さらに別の場所では。
「勇者様ー!」
「んー?」
「腕が限界ですー!」
マイトは兵士の足元を見るなり苦笑した。
「それは腕が悪いんじゃなくて、立ってないだけ。」
「え?」
「岩を掴むんじゃなくて、岩の上に立つつもりで。」
そう言って自分の足で岩を軽く押して見せる。
「腕はぶら下がるためじゃなくて、バランスを取るために使うの。」
兵士が意識を変えると、不思議なほど身体が軽くなった。
「ほ、本当だ!」
「楽になった!」
「でしょう?」
マイトは嬉しそうに笑う。
兵士達も少しずつコツを掴み始め、最初は数メートルで止まっていた者も、五メートル、十メートルと登れるようになっていく。
「できた!」
「さっきより登れたぞ!」
「あれ? 意外と楽しい!」
岩場には少しずつ歓声が増えていった。
それを見たマイトは満足そうに頷く。
「いいねいいね!」
そして崖を軽く蹴ると、まるで木の枝を渡る小鳥のように兵士達の頭上を飛び回りながら、次々と的確な助言を送っていく。
「右足そのまま!」
「そこは力任せじゃなくてリズム!」
「焦らなくて大丈夫!」
「一歩ずつ行こう!」
誰かが失敗しそうになればすぐに支え、迷えば最適なルートを示し、成功すれば自分のことのように喜ぶ。
その姿は、ただ規格外に強い勇者ではなかった。
どんな状況でも仲間を見捨てず、一人ひとりの成長を心から楽しむ、最高の指導者だった。
兵士達は息を切らしながらも笑顔を浮かべる。
「勇者様!」
「はい?」
「最初は無茶苦茶な人だと思ってましたけど……。」
「うん。」
「教え方は、すごく分かりやすいです!」
その言葉に、マイトは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「えへへ。みんなが上手になると、一緒に遊べるからね!」
「結局そこですか!」
兵士達の総ツッコミが岩場に響き渡り、笑い声が山々へとこだましていった。




