86.最上級③
ドプンッ――。
音とともに、セルフィの身体が瘴気の中へと飲み込まれた。そこに生物の体内特有の生々しさはない。あるのは、不死領域すら遥かに上回る濃度の瘴気だけだった。
「(この個体……魔力体だったのかッ)」
あまりにも強大な力を持っていたために気づかなかった。
だが、今さらその事実に驚いている暇はない。
「ぐっ……!」
全身に瘴気による浸食が始まった。
ジリジリと肌が焼かれる。まるで全身を巨大なおろし金で擦り下ろされているかのような激痛が、セルフィを襲う。
肌はみるみる黒ずみ、指先には痺れが広がっていく。ほんの僅かな時間しか経っていないにもかかわらず、すでに身体は思うように動かなくなっていた。
だが、それらの痛みは、あくまで副産物でしかなかった。
次にセルフィを襲ったのは、莫大な瘴気に蓄えられていた――負の感情そのものだった。
「ヒュッ……ッ」
息が詰まる。
視界が揺らぎ、脳裏に次々と光景が浮かび上がっていく。
血と炎で真っ赤に染まった故郷の村。
全身を黒焦げにされ、それでも微かに蠢く人型の“ナニカ”。
自分たちを守るために命を失った、英雄ルフェイルの冷たくなった顔。
魔物が蔓延る森の中を、弓だけを頼りに歩き続けた日々。
どこからともなく聞こえてくる魔物の息遣いに、全身が震えた。
襲い掛かってきた狼型の魔物を引き離すため、自ら囮になった仲間。
生きたまま食われていく仲間の悲鳴と恐怖が、心視石を通して伝わってくる。
助けることはできない。
ただ、その死を見届けるしかない。
魔物の習性を把握するまでに、何度も繰り返した。
何度も、何度も。
仲間が死にゆく様を、その身に焼き付けられた。
「うぁ……ああぁ……ッッ!」
恐怖、苦痛、罪悪感――瘴気に精神を蝕まれるたび、封じ込めていた過去の苦しみや後悔が、濁流のようにセルフィの心へと押し寄せてくる。
八十年前から始まった地獄。
肉体も精神も削りながら、ただ生きることさえ苦痛となった時代を思い出し、セルフィは瘴気の中でもがき苦しみながら、深い闇へと堕ちていく。
そして――セルフィは気づく。
いつの間にか、周囲には見知った顔が並んでいることに。
セルフィを生かすために囮になり、セルフィが見殺しにした同胞たちが、じっと彼のことを覗き込んでいた。
「――――ッッ!!!」
恐怖のあまり、叫び出しそうになったセルフィ。
だが、その直前――
――ドクンッッ!!!!
腹の底まで響くような振動が、セルフィの全身を叩いた。
思わず動きを止めた、その瞬間。
さらに異変が起こる。
「あっ……」
セルフィが握りしめていた弓。
そこに嵌め込まれた核の宝石から、眩い光を放つ聖気が溢れ出した。
聖気は、まるで瘴気からセルフィを守るかのように周囲へと広がっていく。
そして、瘴気を押しのけながら、セルフィの全身を包み込んだ。
その瞬間、セルフィは、心の内に潜んでいた暗黙が晴れていくのを感じていた。
「そうだ。全部、みんなに支えられて乗り越えてきたんだ」
思い出すのは、涙を流した後に残った思い出。
エルナに弱音を吐いて、元気づけられたこと。
ルシウスに相談して、戦術や狩りのやり方を変えてみたこと。
落ち込んでいるセルフィを気にして、ヨルシカやミレイユ、ソレインが見舞いに来てくれたこと。
どれも、一人ではなかったから乗り越えられたことだった。
「後悔も絶望も確かにあったけど……全部、乗り越えてここまで来たんだッ!」
そう叫ぶと、セルフィは周囲に広がった聖気を操り、そのすべてを限界まで矢に込める。
弓を引き絞る。
聖気が矢の周囲に集まり、眩い光となっていく。
そして――
「貫光球!」
一条の光線が瘴気を貫き、そのまま骸象の巨体を突き抜けた。
瘴気で満たされていた空間の先に、外の光が見える。
それと同時に、すっかり馴染み深くなった気配をセルフィの心視石が捉えた。
「クルルゥッ!!!」
「アウレインッ!!」
現れたのは、アウレインだった。
アウレインは自ら骸象の体内へと突入すると、セルフィのもとへと駆け寄る。
セルフィはアウレインの手綱を掴む。
それを確認したアウレインが身を翻し、二人はそのまま瘴気に満ちた骸象の体内から外へと脱出した。
「ブォォォォォォッッッ!!!!!!!」
外へ脱出したセルフィは、目の前に広がった光景に驚いた。
骸象は内側から光魔法の一撃を受けていた。
だが、その巨体に対しては大したダメージにはならなかったのか、魔力体である骸象の身体が霧散するような気配はない。
しかし、それとは別に――骸象は周囲の状況など一切気にせず、激しく暴れ回っていた。
「ブォォォォォォッッッ!!!!!!!」
まるでパニックを起こしているかのように、巨体を激しく揺さぶり、二本の鼻をめちゃくちゃに振り回す。
脚を踏み鳴らすたびに轟音と地響きが辺り一帯に響き渡り、まるで大地そのものが揺さぶられているかのようだった。
大地が砕け、地面に亀裂が走る。
そして、暴れ回る骸象の巨体に巻き込まれた上級不死族の死殻までもが、なすすべなく吹き飛ばされていた。
そんな中、エルナたちは脱出してきたセルフィたちへと駆け寄って来た。
「セルフィッ!! 無事かいッ!?」
エルナがセルフィの無事を確認すると、ほっとしたように息を吐く。
だが、セルフィにも聞きたいことがあった。
「何が起こったの!? どうして最上級不死族が暴れてッ!?」
「分からん! お前を食ってから、しばらくすると、あのように暴れ始めたんだッ!! セルフィのほうこそ、何かしたんじゃないのかッ!?」
「もしかしたら……アウレインが僕を救うために、核の宝石を通して聖気を送ってくれたんだッ! 体内で瘴気と真逆の性質を持つ聖気が一気に流れ込んだせいかもッ……!」
「話は後にしなさい! 早くここを離れますよッ!! 骸象もこちらから意識を外していますッ!!」
ラフィリアに促され、セルフィたちは話を切り上げると、その場を離れることを優先した。
幸いにも骸象も死殻も、すでにセルフィたちへ意識を向けていなかったため、その隙に全員で撤退することに成功した。
こうしてセルフィたちは、予想外にエルフ族との再会を果たし、不死領域を突破したのだった。




