75.違和感
「なんとかなったな。しばらくここで休憩しよう」
中級不死族の群れを撃退した後、ルシウスがそう口にした。
セルフィとエルナは肩で息をし、額には汗が滲んでいる。心視石による連携のおかげで勝利こそ収めたものの、強行軍と連戦による疲労は隠せなかった。
その様子を見ていたからこその提案だった。
ルシウスの言葉に、エルナがわずかに安堵した表情を浮かべながら問いかける。
「いいのかい? 助かるけど……外縁部に戻るまでは強行軍なんだろう?」
「大丈夫だ。幸い、今倒した分でこの周辺の不死族はほぼ片付いているはずだ。……それに、体力の消耗も想定以上だ。これ以上の強行軍は逆効果だろう」
ルシウスが周囲へ視線を巡らせながら答える。
その判断にセルフィも小さく頷いた。
「なら、アウレイン。この辺りを聖気で満たして瘴気を消せるか? 負担が大きいなら無理はしなくていいけど」
「クォン」
休憩する以上、少しでも瘴気の影響を減らしておきたい。
セルフィの問いかけに、アウレインは心配はいらないとでも言うように穏やかに鳴いた。
そして静かに角を掲げる。
次の瞬間、淡い光が周囲へ広がった。
周囲の空間に清浄な聖気が満ち始め、漂っていた瘴気を少しずつ押し返していく。重苦しかった空気は薄れ、森の中にわずかな安らぎが生まれた。
心視石を通じて伝わる感覚からも、アウレインが無理をしていないことが分かる。
それを確認したセルフィは安堵の息を漏らした。
「ありがとう」
感謝の言葉とともに、セルフィはアウレインの頭をそっと撫でる。
アウレインは気持ち良さそうに目を細め、小さく喉を鳴らした。
その様子に自然と頬を緩めながら、セルフィは近くの木にもたれかかった。
ここまで続いた強行軍。
そして先ほどの激戦。
蓄積した疲労は想像以上に大きく、身体の節々が重い。
少しでも体力を回復するため、セルフィは静かに目を閉じた。
聖気に包まれた穏やかな空間の中、束の間の休息が始まった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
数日ぶりに瘴気の影響を完全に排した環境で休息を取れたことで、一行は大きく体力を回復していた。
蓄積していた疲労は薄れ、重かった身体も幾分軽くなっている。
そのおかげで、セルフィたちは再び不死領域の奥へ向けて歩みを進めていた。
「あれから不死族の襲撃がぱったり止んだね」
周囲を見回しながらエルナが呟く。
ここ数日は絶え間なく襲撃を受けていたため、その静けさがかえって不自然に感じられた。
「ここら辺はまだ不死領域の浅層だからな。あれだけの数を倒したんだ。しばらくは近くの不死族も寄り付けないだろう」
先頭を進むルシウスが周囲を警戒しながら答える。
「あとどのくらいで、この不死領域を抜けられるんだい?」
「もう数日ってところだな。一番の難所はすでに越えている。ここから先は多少の戦闘はあるだろうが、あれほどの激戦になることはないはずだ」
「それなら少し安心かな」
エルナが小さく息を吐き、セルフィもまた胸を撫で下ろした。
三人はそれぞれの守護獣へ騎乗したまま、不死領域を進んでいく。
しばらく進んだ頃だった。
ふと、ルシウスが眉をひそめる。
「(まただ……ふとした瞬間に、意識が散漫になっているような気がする)」
それは本当に些細な違和感だった。
休息を取ったことで体力も気力も十分に回復している。疲労による判断力の低下など考えにくい。
それなのに、気がつけば意識がぼんやりとしていることがあった。
周囲への警戒を解いているわけではない。
足も止まっていない。
だが、ふと我に返ると、いつの間にか何も考えず前へ進んでいたことに気づくのだ。
「(不死領域の景色はどこも似たようなものだ。襲撃もなくなったせいで、知らないうちに緊張感が薄れているのか……?)」
そう考えながら周囲へ視線を巡らせる。
黒く枯れた木々、ひび割れた大地、漂う瘴気。
どこまでも続く代わり映えのしない光景。
「(いや、待て……)」
ルシウスが思考を巡らせる。
そして、違和感の正体に気づいた瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「――ッ!?」
反射的に手綱を引き、その場で急停止する。
「――っ!」
「うわっ!?」
先頭を進んでいたルシウスが突然足を止めたことで、後続を進んでいたエルナとセルフィも慌てて守護獣を制止する。
「ちょっと、どうしたのさ!? 急に!?」
エルナが戸惑いを隠せないまま問いかける。
しかし、ルシウスは答えなかった。
周囲へ鋭い視線を走らせながら、何かを探すように辺りを見渡している。
その顔色は明らかに悪かった。
心視石を通さずとも分かるほど焦燥が滲み出ている。
「……ルシウス?」
セルフィも不安を覚えながら声をかける。
すると、ルシウスはようやく口を開いた。
「お前たち……気づかないのか?」
その声はわずかに震えていた。
「俺たちは――」
言葉を切ったまま、ルシウスがゆっくりと周囲を見回す。
そして、信じたくない事実を突きつけるように告げた。
「――裂け目を見失っている」
「「――っ!!?」」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
だが、その意味を理解した瞬間――。
まるで頭の芯へ氷水を流し込まれたかのような悪寒が全身を駆け抜ける。
不死領域を進むうえで、あの巨大な裂け目は唯一とも言える目印だった。
それを見失うなど、本来ならあり得ない。
セルフィとエルナは反射的に周囲を見渡した。
だが――ない。
これまでずっと傍らにあったはずの巨大な裂け目が、忽然と姿を消していた。
「なッ――!?」
「嘘だろう……! いつの間に!?」
二人の顔から血の気が引いていく。
つい先ほどまで確かに存在していたはずだ。
それなのに、いつから見失っていたのかさえ分からない。
気づけば消えていた。
その事実が何よりも不気味だった。
一方で、ルシウスは強引に冷静さを取り戻そうとしていた。
口元へ手を当て、必死に思考を巡らせる。
「裂け目に沿って進んでいたにもかかわらず、その裂け目を見失う……? それも三人だけじゃない。アルファたちまで含めて全員? ……いや、そんなことがあるはずがない」
ルシウスはぶつぶつと独り言を漏らしながら、必死に状況を整理する。
裂け目は不死領域を進むための重要な目印だ。
常に視界へ入れていたはずのそれを、誰一人として見失ったことに気づかなかった。
偶然で済ませられる話ではない。
「この……意識を逸らされるような感覚は……どこかで――ッ!?」
今感じている違和感には覚えがあった。
集中しようとしても、いつの間にか別のことへ意識が流れていく感覚。
重要なことを認識しているはずなのに、それを深く考えられなくなる異常。
一度だけではない。
かつて何度も経験したことのある感覚だった。
ルシウスは過去の記憶を辿るように意識を集中させる。
そして――思い出した瞬間。
全身の血の気が引いた。
「セルフィ! エルナ! 急いでここを離れるぞ! ついて来いッ!!」
「「――っ!」」
その切迫した声に、セルフィとエルナは反射的に守護獣を走らせる。
何が起きているのかは分からない。
だが、ルシウスの様子から事態が極めて危険であることだけは理解できた。
「ルシウス! 何か分かったのかいッ!?」
並走しながらエルナが叫ぶ。
「ああ……思い出した!」
ルシウスは険しい表情のまま答える。
かつて新薬の研究を行っていた頃、薬効を調べるための実験で幾度となく接したことがある。
独特の甘い香り。
意識の焦点を曖昧にし、認識力や集中力を鈍らせる危険な植物。
その正体は――
「これは――迷香果だ!!」
「「――っ!」」
迷香果。
その果実は独特の香気を放ち、周囲の生物の意識を散漫にさせる性質を持つ。
匂いを吸い続けた者は徐々に集中力を失い、注意力や方向感覚が鈍っていく。そして気づかぬうちに進路を誤り、文字通り迷い込んでしまうのだ。
確かに、それなら説明はつく。
知らず知らずのうちに集中力を削られ、全員が裂け目への意識を逸らされていたのなら、重要な目印を見失ったとしても不思議ではない。
だが――その推測には、一つだけ見過ごせない問題があった。
「いや、ここは不死領域の中だろうッ!?」
エルナが叫ぶ。
セルフィも同じ考えに至り、思わず頷いた。
そう、ここは瘴気に汚染され、不死族だけが徘徊する死の土地だ。
浄化草という例外こそ存在するが、それは極めて特殊な性質を持つ稀有な植物だからこそ生き延びられるのであって、例外はあくまで例外だ。
迷香果が不死領域の中に存在するなど、本来なら考えられない。
だからこそ彼らは森を避け、不死領域を突っ切る道を選んだのだ。
「……八十年かけて瘴気への耐性を獲得したのかもしれん」
ルシウスが苦々しく呟く。
「聞いたこともない例だ。だが、今の状況を考えれば、それ以外に説明がつかない」
そして拳を強く握り締めた。
「くそっ……! 不死領域の中に森が残っていた時点で気づくべきだった……!!」
「あ……ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、セルフィの脳裏に数時間前の光景が蘇る。
不死族との激戦が繰り広げられたあの場所。
そこには確かに森が残っていた。
瘴気の影響で黒ずんではいたものの、他の地域のように完全に枯れ果ててはいなかった。
枝には葉が茂り、わずかながらも生命の気配を残していた。
本来なら、不死領域に存在していること自体がおかしい光景だった。
しかもセルフィたちは、その森の中で休息を取った。
疲労を回復するため、長時間にわたって。
もし、あの森のどこかに迷香果が存在していたのなら、十分すぎるほど香気を吸い込んでいる。
だが。
迷香果の存在も、裂け目を見失ったことも、もはや些細な問題だった。
真に恐ろしいのは――
「ルシウス……今、私たちは不死領域のどの辺りにいる……?」
エルナの問いかけに、沈黙が落ちる。
だが、それは答えが分からないからではない。
むしろ――全員が、その答えに気づいてしまっていたからだ。
――周囲を満たす瘴気が、明らかに濃くなっていることに。
――不死族の襲撃が止んだ理由が、決して周辺の敵を殲滅したからではないことに。
不死領域は深部へ進むほど瘴気が濃くなり、出現する不死族の質も跳ね上がる。
襲撃が途絶えたのは安全になったからではない。
弱い不死族が姿を消し、より強力な個体だけが存在する領域へ足を踏み入れていたからだ。
重苦しい沈黙が続く、その時だった。
濃密な瘴気の向こう側で、何かが動いた。
ぼやけた輪郭。
明らかに中級個体よりも巨大だった。
「……くそッ」
誰が漏らした言葉だったのかは分からない。
だが、その場にいる全員の心情を代弁していたことだけは確かだった。
重い振動が足元を揺らす。
一歩ごとに地響きを伴いながら、濃い瘴気を押し退けるように進むその巨影は、徐々に輪郭を露わにしていく。
やがて、その姿がはっきりと見えた瞬間。
セルフィたちの表情が強張った。
忘れるはずがない。
数か月前、全員が死力を尽くし、辛うじて勝利を掴んだ強敵。
上級不死族――死殻。
その悪夢が、再び彼らの前に姿を現していた。




