72.大規模不死領域②
“大森林の裂け目”。
それは、大森林に存在する、まるで大地そのものが引き裂かれたかのような巨大な断崖だった。
この裂け目には数多くの飛行型の魔物が住み着いている。
険しすぎる地形ゆえに、卵や雛を狙う外敵が近付きにくいのである。
飛行能力を持たない魔物では崖を登ることすら困難であり、たとえ辿り着けたとしても、飛行型魔物達にとっては空中という絶対的な優位がある。
結果として、この裂け目は飛行型魔物達にとって理想的な繁殖地となってており、大森林の中でも屈指の危険地帯となっている。
「幸い、今回進むのは不死領域に掛かっている端の部分だ」
断崖絶壁を見下ろしながら、ルシウスが説明を続ける。
「外縁部からは少し離れることになるが、裂け目に沿って移動していけば、二日ほどで向こう側へ渡れる地点へ到着できる。そこで再び不死領域の外縁部へ戻る予定だ」
「なるほど……」
セルフィも裂け目を見下ろしながら小さく息を吐く。
だが、ルシウスの表情は楽観的ではなかった。
「ただし、ここから先は危険度が上がる」
その一言に、セルフィ達の空気も引き締まる。
「裂け目に沿って進むと、不死領域の中心部に近づくからな。これまでのように下級不死族ばかりとは限らない。中級以上の個体と遭遇する可能性が高くなる」
さらに、とルシウスは続けた。
「ここから先は裂け目の地形上、不死領域の外へ出て休息を取ることも難しくなる。今までのように適宜外へ離脱することは出来ん」
その言葉に、セルフィとエルナは自然と表情を硬くした。
不死領域の瘴気へ晒され続けるというのは、それだけで大きな負担となる。
現に、多少の戦闘はあれど、今の彼らはまだ“移動しているだけ”だ。
それにも関わらず、身体には既にじわじわとした疲労が蓄積し始めていた。
胸の奥へまとわりつくような不快感。
鈍く重くなる身体。
集中力を削り取られていくような感覚。
耐瘴薬によって症状は抑え込めているが、それでも完全には防ぎ切れない。
瘴気は、確実に生者を蝕んでいく。
実際、不死領域攻略において短期決戦が推奨される理由もそこにあった。
もちろん、不死領域では次々と不死族が発生するため、それを上回る速度で殲滅しなければ攻略出来ないという事情もある。
だが、それ以上に大きいのは――。
“瘴気へ晒される時間そのものを減らす”という目的だ。
長時間、不死領域内部へ留まり続ければ、それだけで心身は削られていく。
だからこそ、今回の遠征でも、数時間おきに領域外へ出て休息を取ることは極めて重要だった。
だが、この先は違う。
少なくとも、“大森林の裂け目”を越えるまでの二日間。
セルフィたちは、瘴気へ晒され続けながら進み続けなければならないのだ。
「瘴気に関しては、僕達にはアウレインの聖気による回復があるから、まだましな方かな」
セルフィは傍らのアウレインへ軽く視線を向けながら言った。
アウレインの聖気には、傷の治癒だけではなく、瘴気による侵食を和らげる効果もある。
そのおかげで、セルフィ達は通常より長く不死領域内で活動することが出来ていた。
「でも、その分アウレインの消耗は激しくなるから、出来るだけ早く裂け目を越えたいね」
エルナは真剣な表情で裂け目の奥を見据えた。
聖気による回復は確かに有効だ。
だが、それは同時にアウレインへ負担を掛け続けるということでもある。
長引けば長引くほど、その消耗は無視出来なくなる。
エルナの言葉に、ルシウスも静かに頷いた。
「ここから裂け目を越えるまでは、移動速度を最優先にする」
ルシウスは二人を見渡しながら続けた。
「昼夜を問わず進み続ける。休息は数時間おきに短時間だけ取り、その際に交代で仮眠と軽食を済ませる形だ」
つまり――。
本格的な野営は行わない。
最低限の休息だけで、二日間を乗り切るということだ。
「分かった」
「了解したよ」
こうして――。
最低限の睡眠と休息のみで“大森林の裂け目”を突破するという、過酷な行軍が決定した。
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「貫光球!」
セルフィが放った一筋の光が、瘴気に満ちた空間を切り裂く。
極限まで圧縮された光弾は、尾を引くような残光を残しながら一直線に飛翔した。
その光は、迫り来る中級不死族――瘴牙獣の胸部を容易く貫通する。
「ガァァァァッ――!?」
さらに勢いは止まらない。
一体目を貫いた光は、そのまま後方にいた別の瘴牙獣へ到達し、次々と身体を穿っていく。最終的に三体の瘴牙獣が、その場へ崩れ落ち、動かなくなった。
「はぁッ!」
一方、セルフィから少し離れた位置では、エルナが双剣を振るっていた。
相対しているのは、二体の骨刃鬼。
四本の腕を持つ中級不死族であり、それぞれの腕から振るわれる鋭利な爪撃に加え、背中からは二本の骨触手まで伸びている。
合計十二にも及ぶ連続攻撃。
挟み込むように放たれる斬撃の嵐が、エルナを容赦なく襲う。
だが――当たらない。
エルナは最低限の動きだけで攻撃を躱していく。
首を傾け、半歩ずれ、身体を捻る。
紙一重。
本当に僅かな差で、致命的な攻撃だけを見切り続けていた。
そして回避と同時に、双剣が閃く。
鋭い斬撃が骨刃鬼の外骨格を削り取り、硬質な骨を砕いていく。
本来、中級不死族の骨刃鬼は高い防御力を持つ個体だ。
だが、剛牙猪の牙から作られた双剣は、その硬度をものともせず、最後には二体の獲物の首を落とした。
一見すれば、問題ないように見える戦闘。
だが――
「はぁ……ふぅ……」
エルナは既に肩で息をしていた。
呼吸は荒く、動きにも僅かな重さが見え始めている。
長時間、不死領域を進み続けた疲労。
瘴気による消耗。
そして休息を削った強行軍。
それら全てが、確実に彼女達の体力を削っていた。
遠目からその様子を見ていたセルフィにも、エルナの消耗が限界へ近付きつつあることがはっきりと分かっていた。
「これで四度目の襲撃か……」
セルフィは周囲を警戒しながら、小さく息を吐いた。
“大森林の裂け目”に沿って不死領域を進み始めてから、既にかなりの時間が経過している。
そして、その間にセルフィ達は四度もの襲撃を受けていた。
しかも、襲ってくるのは全て中級不死族。
もはや外縁部のように下級個体はほとんど見られなくなっていた。
「やっぱり中級個体との連戦は大変だね……」
エルナも荒くなった呼吸を整えながら呟く。
数時間おきに短い休憩と仮眠は取っている。
だが、それだけでは到底疲労は抜け切らない。
身体は常に重く、思考にも鈍さが混じり始めていた。
さらに厄介なのは、襲撃が完全に不定期なことだった。
いつ不死族が現れるか分からない。
だからこそ、休憩中ですら気を抜くことが出来ない。
肉体だけではない。
精神もまた、休まる暇なく削られ続けていた。
そして、その状況へ追い打ちを掛けているのが――瘴気だ。
アウレインの聖気によって、肉体への侵食はある程度抑えられている。
だが、瘴気は単純な毒ではない。
それは、生者の生命力そのものを蝕む“死の力”。
身体だけではなく、精神へも直接悪影響を与えてくる。
理由もなく気分が沈み。
思考が重くなり。
知らず知らずのうちに集中力を奪われていく。
聖気で回復していても、その疲労だけは確実に積み重なっていた。
「こちらは終わったぞ。そっちは問題ないか?」
少し離れた場所から、ルシウスが声を掛けてくる。
「ああ、ルシウス。こっちも問題ないよ」
周囲には、既に動く不死族の姿はない。
だが、ヴァルガとヴォルグは低く唸りながら周囲を警戒し、アウレインも耳を動かしながら瘴気の奥へ意識を向けている。
幸い、ここまではまだ誰も大きな怪我を負っていない。
だが、少しずつ余裕が失われ始めていることをセルフィは感じていた。
「だんだんきつくなってきたね……」
セルフィは苦笑混じりに呟くと、ルシウスも頷く。
「今、どのくらい進んでるのかな?」
エルナが額の汗を拭いながら呟く。
「短い休憩と移動を繰り返してるせいで、時間感覚が曖昧になってきちゃったよ……」
「おおよそ半分だな」
ルシウスは周囲の地形を確認しながら答えた。
「“大森林の裂け目”を越えるまで、あと半分ほどだ。決して近いとは言えんが、確実には進めている」
「……半分、か」
セルフィは小さく呟いた。
ここまで来たのだから、“もう半分”と考えるべきなのか。
それとも、まだ“半分も残っている”と考えるべきなのか。
疲労が蓄積した今の身体では、どうしても後者の感覚が強くなってしまう。
ちらりとルシウスへ視線を向けるセルフィ。
一見すると、ルシウスは普段通り冷静に立っているように見える。
だが、心視石を通して伝わってくる感情や状態は誤魔化せない。
そして疲弊しているのはルシウスだけではない。
全員の消耗が、既に無視できない領域へ達している。
特にアウレインは、瘴気への対抗のために休憩の度に聖気を循環させている影響もあり、精神的な負荷が大きい。
「……どうするべきか」
セルフィが思考を巡らせた――その時だった。
「セルフィ! ルシウス! 新手だ!!」
「「――ッ!!」」
突如、エルナが鋭い警戒の声を上げる。
その声音に反応し、セルフィとルシウスは即座に視線を向けた。
瘴気によって黒く変質した木々の隙間。
その奥から、無数の影がこちらへ向かってきていた。
「なッ……」
セルフィが息を呑む。
驚いたのは、不死族が現れたことではない――その数だ。
瘴気の奥から現れた三十を超える不死族の群れは、一目散にこちらへと押し寄せてきていた。
「セルフィ! 迎撃か、退避か、どっちだ!?」
ルシウスが即座に判断を求める。
セルフィは一瞬だけ思考する。
だが、答えはすぐに決まった。
「――迎撃する!!」
怒鳴るように返しながら、セルフィは弓を構えた。
不死領域内部で、不死族を引き連れたまま移動する危険性は、旧フィリナ領で囮をやった時に嫌というほど経験している。
中途半端に逃げれば、移動音と気配に引き寄せられ、さらに周囲の不死族まで集まりかねない。この数を相手にするなら、むしろここで迎え撃った方がまだ被害を抑えられると判断した。
瘴気に満ちた不死領域の中で、新たな死闘が始まろうとしていた。




