46.不死領域突入①
そこは、薄暗く、淡い霧のような瘴気が絶え間なく漂う場所だった。
地面はまるで内側から侵されているかのように脆く崩れ、踏みしめれば粘つく感触を返す。大木はことごとく枯れ果て、葉を失った枝が空へと虚しく伸びていた。
空気は重く淀み、息を吸うたびに肺の奥まで穢れが入り込んでくるような錯覚すら覚える。もし生きた生物がここに足を踏み入れれば、瞬く間に瘴気に蝕まれ、衰弱し、やがて命を落とすことになるだろう。
――だが、それでもなお、この領域に“存在するもの”はいた。
身体の内側から瘴気を滲ませるそれらは、もはや生物とは呼びがたい。かといって、朽ちた死体でもない。瘴気そのものを核として形を成した異形――それらは、不死族と呼ばれている。
そこには、二種類の中級不死族が存在していた。
一方は、先日セルフィが戦った瘴牙獣。そしてもう一方が、下級不死族である骨刃人の上位種――“骨刃鬼”だ。
骨刃鬼は骨刃人と同様、黒い皮膚の上を外骨格のような骨質の甲殻が覆っている。
指先は鋭利に変形し、まるで刃そのもののように細長く伸び、わずかな動きでも空気を切り裂く鋭さを感じさせた。
さらに尾は骨で構成され、節くれだった形状のまま不気味に揺れている。
だが、その姿は単なる上位互換に留まらない。
まず目を引くのは、その体躯だ。骨刃人が人間と同程度の大きさであるのに対し、骨刃鬼は一回りどころか、それ以上に巨大で、見上げるような圧迫感を放っている。
加えて腕は四本存在し、それぞれが独立して獲物を狙うかのように蠢いていた。
さらに背中からは、尾とは別に骨で形成された触手状の器官が二本伸びており、まるで周囲を探るようにゆっくりと空間をなぞっている。
それらの異様な肢体は、単なる強化ではなく、戦闘そのものに最適化された歪な進化の結果であることを物語っていた。
それぞれの不死族は、眠るように地面に伏せて身を丸めるものもいれば、目的もなく周囲を徘徊するものもいるなど、統一性のない動きでその場に留まっていた。
――だが、次の瞬間。
「貫光球」
詠唱と同時に放たれた矢は、一条の光を尾のように引きながら空間を裂き、一直線に瘴牙獣へと突き進む。
そしてそのまま、抵抗を許すことなく頭部を正確に貫いた。
頭部を貫かれた瘴牙獣が音を立てて崩れ落ちる。その光景を横目に捉えた他の不死族たちは、即座に異変を察知し、ぎこちない動きで一斉に周囲を見回した。
そして、矢が飛来してきた方向へと視線を向ける。
――そこには、牡鹿に騎乗した一人の男の姿があった。
生者の存在を認識した瞬間、空気が変わる。停滞していた不死族たちの動きが一斉に切り替わり、次の瞬間には地を蹴って疾走していた。
「ガァアアァア!!!」
「ガァアアァア!!!」
「ガァアアァア!!!」
それは仲間を討たれたことへの怒りではない。
復讐でも、感情でもない。
彼らにあるのは、ただ一つ――生者を殺すという衝動のみ。
その執着は際限がなく、標的を視界に捉えたが最後、どこまでも追い続ける。
瘴気を纏った異形の群れは、獲物へ向かって雪崩れ込むように迫っていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
不死族が侵入者に気づく、およそ十数分前。
十分に休息を取ったセルフィたちは、ついに旧フィリナ領を飲み込んだ不死領域への攻略を開始していた。
彼らは、初めて足を踏み入れる領域に緊張を覚えながらも、臆することなく一歩を踏み出す。だが、足を踏み入れた瞬間、視界に広がった光景に思わず眉をしかめた。
かつて――この場所は、緑に満ちた自然豊かな土地だった。風に揺れる木々のざわめき、小鳥のさえずり、柔らかな陽光に包まれた穏やかな日常。彼らは確かに、その記憶を知っている。
だからこそ、目の前に広がる光景が、より鮮明に異質なものとして突き刺さる。
色を失った大地。生命の気配を完全に断たれた森。空気は淀み、瘴気が薄く霧のように漂っている。
ここは、もはや彼らの知る故郷ではない。
ただの「死の土地」としか言いようのない、別の領域へと変貌していた。
「……全員、体調に問題はないか?」
いち早く気持ちを切り替えたルシウスが、周囲を警戒しつつ問いかける。その視線はセルフィとエルナの様子を確かめ、瘴気の影響が出ていないかを見極めていた。
「大丈夫だよ。気分は最悪だけどね」
エルナは肩をすくめ、わずかに顔をしかめながら答える。軽口を叩いてはいるが、不快感は隠しきれていない。
「僕も問題ないよ」
セルフィも短く応じる。胸の奥に重苦しさはあるものの、今のところ行動に支障はないと判断していた。
「耐瘴薬を服用している以上、この周囲に漂う瘴気の影響はある程度抑えられるはずだ。だが、長時間の滞在は危険だ。薬効を上回る可能性がある。――活動時間は二時間を上限にするぞ」
「「了解」」
セルフィとエルナは同時に頷き、短く返答する。
三人は互いに視線を交わして意思を確認すると、瘴気に満ちた不死領域の奥へと足を踏み出した。重く淀んだ空気の中、慎重に、しかし確実に歩みを進めていく。
やがて、周囲の風景にわずかな変化が現れる。
「……ここだな」
「はぁ……まったく、見る影もないね」
そこは、かつて小さいながらも澄んだ水を湛えた、美しい泉が存在していた場所だった。木々に囲まれた森の中、差し込む陽光が水面に反射し、きらめきを放つ――そんな穏やかな光景が広がっていたはずの場所だ。
だが、今はその面影すら残っていない。
木々は枯れ果て、わずかに原型を留めるだけの無残な姿となり、地面はひび割れ、荒れ果てている。
かつて泉だった場所は完全に干上がり、水の気配は微塵もない。ただ大きく口を開けた窪地だけが、そこに泉が存在していた名残を示していた。
「よし、これなら罠に使えそうだな」
「なら、予定通りの作戦で大丈夫?」
セルフィの確認に、ルシウスは短く頷いて応じる。
「うむ。セルフィは囮となって、周辺にいる不死族をこの場所まで誘導してくれ。俺とエルナはここで罠を整え、迎え撃つ準備を進める」
「了解。セルフィ、気を付けてね」
エルナは軽く手を挙げながらも、わずかに真剣な眼差しで言葉を添える。
「大丈夫だよ。アウレインもいるからね」
セルフィはそう言って、傍らに控える守護獣の首筋に手を伸ばし、やさしく撫でた。アウレインはそれに応えるように目を細め、静かに鼻を鳴らす。
「よし――作戦開始だ」
短い号令とともに、三人はそれぞれの役割へと動き出した。
そうして始まった攻略戦だったが――
「……食いつきが良すぎない?」
囮役として、周囲にいる不死族を誘導するために攻撃を仕掛けたセルフィは、背後から迫る気配の多さに思わず頬を引きつらせた。十体を優に超える中級不死族が、一斉にこちらへ向かってきている。
先日、五体の中級不死族を同時に相手取ったときと比べても、明らかに反応が速く、動きも良い。まるで水を得た魚のように、一切の躊躇なくセルフィへと殺到している。
「不死領域内では、不死族が活性化するとは聞いていたけど……ここまで違うのか」
不死族にとって、瘴気はその存在を支える根源的な力だ。ゆえに瘴気が濃密に満ちる不死領域の内部、あるいは瘴気の元である月光の差す夜間には、その活動は顕著に活性化する――それは広く知られた事実である。
しかし、これまでの戦いでは、相手が強化される状況を避けて立ち回ってきた。そのため、活性化した不死族と正面から相対するのは、セルフィにとって今回が初めてだった。
肌にまとわりつくような瘴気と、それに呼応するかのように鋭さを増した敵の動き。その差は、想像以上に大きい。
だが――
「……まぁ、問題ないか」
セルフィは小さく息を吐き、わずかに肩の力を抜いた。脅威であることは理解している。それでも、この程度で足を止めるつもりはなかった。
「さぁ、頑張ろうか。アウレイン」
「クルルルゥ!」
呼びかけに応じ、アウレインが低く鳴いて応える。蹄で地面を軽く踏み鳴らし、主の意志に応じるように身を引き締めた。
次の瞬間、アウレインは前方へと駆け出す。背後から迫る不死族の気配を引き連れながら、その速度はさらに加速していく。
――旧フィリナ領解放のための攻略戦が、いま本格的に幕を開けた。




