閑話3.王女の憂い
<三人称視点>
大森林――“迷いの森”と呼ばれるその広大な森に、エルフ族たちは住んでいた。
彼らの住居は地上ではなく、大木の上に築かれている。
幹や枝を巧みに利用していくつもの住居が作られ、木と木のあいだには橋が架けられており、森の上層を自由に行き来できるようになっていた。
――そんなエルフ領の中心地には、一際巨大な神木が存在する。
青々と茂る葉の一枚一枚には淡い光の粒子がまとわりつき、見る者を圧倒するほどの神聖さと美しさを放っていた。
その神木の名は――世界樹。
エルフ族が信仰する、この世界でただ一つ聖気を宿した存在である。
そんな世界樹のすぐ近くに生えた大木――その上に築かれた住居に、一人の女性がいた。
窓辺に立つ彼女は、森を見渡すように静かに外へと視線を向けている。
風が枝葉を揺らすたび、腰まで届く翠の髪がさらりと流れ、柔らかな光を受けて淡く輝いた。
女性にしては高い背丈。
しなやかに伸びた四肢と豊かな胸元が形作る体躯は、優美さと力強さを同時に感じさせる。
そして何より印象的なのは、その蒼い瞳だった。
切れ長の鋭いまなざしは、森を守る番人のような気高さを宿している。
彼女の名前は、ラフィリア・ユグドラシル。
エルフ族の王女であり、英雄ルフェイルの妹であった。
彼女が窓から外を眺めていると、扉をノックする音が聞こえた。
「姫様。エレンでございます」
「入りなさい」
「失礼いたします」
扉を開いて室内へ入ってきたのは、彼女に仕える侍女のエレンだった。
彼女の手には、カットされた果物が盛られた器が乗せられている。
「今朝、採れた新鮮な果物です。よろしければ、いかがでしょうか」
「ありがとう。いただくわ」
ラフィリアは器を受け取り、カットされた果物を一つつまんで口へ運んだ。
噛んだ瞬間、瑞々しい甘さが口いっぱいに広がる。
思わず、彼女の表情がふっと綻んだ。
「お口に合いましたでしょうか」
「ええ、とても美味しいわ」
彼女は王女であり、常に周囲のエルフたちから気遣われている。
だが、今日はいつも以上に侍女が気を配っている理由があった。
今日は、彼女の兄――ルフェイルの八十回目の命日であった。
ラフィリアは窓の外に広がる森を見つめながら、静かに口を開く。
「兄様の死から八十年――いい加減、あの不浄の地もどうにかしたいわね」
その言葉に、エレンは小さく頷いた。
「はい。これほど近くに不死領域が生まれてしまっては、世界樹への悪影響も出てきていますから」
侍女の言葉にラフィリアはわずかに目を伏せる。
「当時は、まさかこんなことになるなんて……思わなかったのに」
八十年前――エルフ族にとっての大事件が起きた。
明け方、フィリナ族の護衛に就いていたエルフたちの宿り木が、次々と枯れ始めたのだ。
宿り木が枯れるということは、その者の生命の終わりを意味する。
それによって、フィリナ族が何者かに襲撃されていることが判明した。
襲撃者が魔物なのか、それとも他種族なのか、それは分からなかったが、エルフたちはすぐに救助の準備を始める。
しかし、それよりも早く行動した者がいた。
英雄ルフェイルである。
事態を知るや否や、彼はただ一人でフィリナ領へ向かっていた。
この知らせを受けたエルフたちは、救助隊の派遣よりも、避難してくるフィリナ族を受け入れる準備を優先する。
ルフェイルに対して、誰もが絶大な信頼を寄せていたからだ。
救助は彼一人で十分だと、疑う者はいなかった。
――これが、最初の間違いだった。
正午に近づき、受け入れ準備が整った。
こちらからも迎えの部隊を送り出そうとしていた――その時だった。
――英雄ルフェイルの宿り木が枯れた。
この知らせに、エルフたちは一瞬でパニックに陥った。
英雄と呼ばれた彼の実力は、里にいる誰よりも突出していた。
その強さは、里の戦士すべてを合わせても及ばないほどだとさえ言われていた。
そんな英雄が命を落とした――。
その事実を、誰も受け入れられなかった。
今すぐフィリナ領へ向かうべきだと主張する者。
英雄すら倒すほどの敵がいるのなら、里の防衛を優先すべきだと主張する者。
意見は真っ二つに割れ、誰も決断できずにいた。
十数時間にわたる紛糾の末、ついにエルフ王が決断を下す。
里の防衛に最低限の戦力を残し、残りの精鋭でフィリナ領へ向かわせる、と。
――その矢先、さらに事態は悪化する。
フィリナ領との間に、大規模な不死領域が発生したのだ。
しかし、それでも決断は変わらなかった。
精鋭たちは、不死領域の向こうにあるフィリナ領へと向かっていった。
――これが、二度目の間違いだった。
いや、これを間違いと呼ぶのは酷だろう。
なにせ、発生直後の不死領域は、不死族もほとんどおらず、瘴気にさえ気をつければ問題ないというのが、常識だったからだ。
それが間違いだったと気づいたのは、フィリナ領へ向かった精鋭たちの宿り木が、次々と枯れ始めた時だった。
やがて――
僅か数名の生き残りが、命からがら里へ戻ってくる。
彼らは震える声で語った。
不死領域の中に――最上級個体が存在した、と。
それは、エルフたちにとって最悪の知らせだった。
本来なら、最上級個体であってもエルフたちなら討伐できた――英雄を始め、里の精鋭たちを失った状態でなければ。
「たった一日で、私たちは目の前の不死領域に対して、指をくわえて見ていることしかできなくなっていた」
ラフィリアの言葉に、エレンも重々しく頷く。
この八十年で、不死領域の中に棲む不死族は増え続け、討伐の困難さもさらに増していた。
もはや領域の外へ溢れ出さないよう、定期的に駆除するのが精一杯である。
「彼らは……私たちを恨んでいるかしら」
ラフィリアの脳裏に、良き隣人として交流していたフィリナ族の顔が浮かぶ。
守ると誓いながら、それを果たせなかった自分たち。
そんな思いがよぎり――彼女は静かに首を横に振った。
「……いいえ。彼らが他人を恨むはずもないわね」
小さな苦笑とともに、その言葉は静かに部屋の中へ溶けていった。
――彼らが生き残っていることを。
――彼女たちは、まだ知らない。




